「創作のヒントは、制約の中にある」――イラストレーター 佐々木悟郎

MAR 12, 2019

INTERVIEW イラストレーター 佐々木悟郎さん 「創作のヒントは、制約の中にある」――イラストレーター 佐々木悟郎

MAR 12, 2019

INTERVIEW イラストレーター 佐々木悟郎さん 「創作のヒントは、制約の中にある」――イラストレーター 佐々木悟郎 「創造」をキーワードに、各界のクリエーターへのインタビューを行う「創る」のコーナー。第1回は水彩イラストの第一人者である佐々木悟郎さんのアトリエをお訪ねし、イラストレーターを目指したきっかけや、創造のヒントなどについておうかがいしました。

絵は好きだった。でも画家にはなりたくなかった。

―― 絵はいつ頃から描かれていたのですか。

親父が趣味で絵を描いていて、画集がたくさんある家でした。父も母もアートへの理解があったので、私も幼いころから絵には馴染んでいました。日曜日には父が町の画家さんを呼んで、家でいっしょに絵を描いたりしていました。そのせいか、子どもの頃から学校で絵を描くと県展や市民展に出品してもらって、よく賞をもらっていました。


絵は好きだった。でも画家にはなりたくなかった。


―― 「イラストレーターになる」と決めたのはいつ頃でしたか。


絵はずっと好きだったんですが「イラストレーターになりたい」と思ったのは、高校3年生の頃でした。当時『アイデア』というデザインの専門誌を見ていたら『プッシュピン・グラフィックス』という特集が載っていました。それはアメリカのイラストレーターのミルトン・グレイザーとシーモア・クワストという人が立ち上げた「プッシュピン・スタジオ」の作品の特集だったのですが、そこにあるイラストを見たとき、私は、初めてビートルズを聴いたときのような衝撃を受けたんです。たとえば彼らはボブ・ディランのポスターやマヘリア・ジャクソンのレコードジャケットなどを描いているんですが、それがまさにポップカルチャー。あの頃の音楽の感じを、イラストでやっていたんです。ああ、これは自分がやりたかったことだと。実を言うと絵は好きでしたが、画家の世界が好きになれず、画家にはなりたくないと思っていました。一方、音楽は大好きで、自分でギターを弾いたり歌ったりしていました。だから、ぴったりだったわけですよ。それで「俺はこの世界で生きよう」と思いました。

――衝撃を受けた作品というのは、どんなものだったのでしょうか。

(ミルトン・グレイザーの作品集を開いて)これです。このイラストにすごくショックを受けました。これはポピーというレコード会社を立ち上げる時のポスターなんですけれども、四角い岩の塊をポピーが突き破って出てきているんです! このアイデアと表現方法、そしてシンプルな構成、その3つにガツンとやられちゃって、これはすごいなと。


このアイデアと表現方法、そしてシンプルな構成、その3つにガツンとやられちゃって、これはすごいなと。


僕はずっとデザインが好きで、雑誌もレコードジャケットも好きです。たとえばビートルズのジャケットもいいじゃないですか。 ビートルズのサージェント・ペパーズは、ピーター・ブレイクっていうイギリスのアーティストが制作したんですけど、そういうのがすごく好きでした。結局、イラストレーションというのは、絵のための絵ではなくて、ポスターだったり雑誌のカットだったり、LPジャケットだったりと、ある目的のために描くわけです。目的があり、なんらかの媒体に載って世に出ていくところが、自分の感覚とフィットしていました。




イラストの本場アメリカで、競い合って学んだ。

―― 佐々木さんがイラストレーターを目指した時期は、まだイラストレーターが日本では一般的ではなかったですよね。どうやってイラストレーターになったのですか。

そうなんですよ。当時日本でイラストレーションを教えてくれる学校はまったくありませんでした。名古屋の美大に進学しましたが、専攻がデザインしか選べなかったので、デザインを勉強をしながら隙を見ては、自分のイラストレーションを描いていました。そうしたら卒業する頃にお世話になった先生から「イラストレーションをやりたいなら、アメリカに良い学校があるから、ちょっと考えてみないか」とアドバイスをいただきました。その中でもカリフォルニアにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインは、アメリカでもトップの美大でした。それで、アメリカに留学したんです。

―― やはり本場のイラストレーターの授業はすごかったですか。

すごかったですね(笑)。教育のシステムからメソッドから、何もかも日本とは違っていましたし、宿題は毎日出ました。むちゃくちゃすごい量でした。ですから学校から帰っても、土日も一日中イラストを描いていました。また同級生を見ても上手い人がいくらでもいるんですよ。クラスに一人か二人、特にビックリするようなヤツがいて、結局彼らとの競い合いが一番鍛えられましたね。

もう一つすごいな、と思ったのは先生です。学校にはいろんな名物先生がいましたが、その中にドローイング描かせたら神様みたいに絵が上手い先生がいて圧倒されました。その先生の技を見て、すごいなーってみんなでため息を漏らしました。日本の先生は禅問答的でしたが、アートセンターの先生はみんな自分で技術を見せて「お前らどうだ、やれるか」っていうシンプルな構図があって、それも良かったと思います。

―― その後アートセンター・カレッジを卒業して日本に戻られるわけですか。

実は最初、卒業後ニューヨークでイラストを描くつもりでした。アートセンターがあるカリフォルニアもエンターテイメントが盛んで映画のポスターなどの仕事はあったのですが、雑誌や広告の仕事ははやりニューヨークが中心だったんです。ちょうど私がアートセンターを卒業する頃に描いたイラストがニューヨークで賞を獲ったのもあって。

ただ、卒業間際に父が急死してしまったんです。今帰国するとビザが切れる、というジレンマはありましたが、帰国しようと決心しました。


右ページの作品がアメリカ留学中に描き、賞を獲得した佐々木悟郎さんのイラスト。
右ページの作品がアメリカ留学中に描き、賞を獲得した佐々木悟郎さんのイラスト。




帰国後はバブルにカルチャーショックを受けながら、
山のように仕事をこなす。

―― 日本に戻られて、すぐにイラストレーターの仕事を始めたのでしょうか。

はい。とりあえず東京に居を構え、いろんな出版社を回って売り込みました。最初は友達から仕事をもらったりしながらでしたね。もちろん楽ではありませんでした。仕事がちゃんと回り出すまでに、2年位かかりました。

―― やはり最初は大変だったんですね。

そうですね。でも、留学していた頃のアメリカは景気があまり良くなかったんですが、帰国したら日本はちょうど80年代初頭のバブルの時期で、みんな浮かれてものすごく元気なわけですよ。特に当時の東京にはすごいエネルギーがあってびっくりしました。アメリカに行くまでは岐阜県で暮らしていましたので、東京の文化はあまりよく知らなくて、渋谷に人がものすごく溢れていて、ある意味カルチャーショックでした。

そんなこんなで日本の景気が良くなってきたのもあり、1983年ぐらいから仕事も順調に回り始めて、そこからは山のように仕事が来ました。1984年から1988年ぐらいまでの時期は、1日に3枚ぐらい描いてましたから。

帰国後はバブルにカルチャーショックを受けながら、 山のように仕事をこなす。

―― 佐々木悟郎さんといえば水彩イラストですが、最初から水彩だったのですか。

最初は水彩とアクリル絵の具を併用していましたし、時にスクラップの切り貼りなどもしていました。で、1983~4年くらいからだんだん水彩だけに切り替えていきました。絵にマスキングなどのプロセスを加えるのが面倒になってきたこともあります。

―― 水彩オンリーのイラストに進化していったんですね。

進化と言うより、表現が整理されていった感じですね。水彩だけのイラストが旅行会社の大きいポスターに採用されて日本全国に貼られたんですが、これがおそらく僕の水彩イラストが認知された最初の作品で、実質のデビュー作だと思っています。僕もやっとイラストレーターとして名前が知られるようになった気がして、ポスターの前で記念写真を撮ったりしました(笑)。


右側が旅行会社のポスターのために描かれた水彩イラスト(佐々木悟郎さんの画集より)
右側が旅行会社のポスターのために描かれた水彩イラスト(佐々木悟郎さんの画集より)




まずは依頼してくれた人の期待を超える。

―― このクリエーターインタビューは「創造」がテーマですが、佐々木さんはイラストを描くとき、どんな気持ちで机に向かうのでしょうか。

「いい絵を描こう」とか「感動させよう」と考えてイラストを描くことはありません。それより、依頼してくれたクライアントが期待しているものより、より良いものを描こうという気持ちがあります。それはある意味で使命だと思ってるんですね。ですから、シンプルな目標としては、担当の編集さんを「あっ」と言わせることを考えています。ただ、結果的にそれが本の表紙になったりした時「悟郎さん、あの絵は素敵でした」とか、「表紙がよかったから買いました」などと言われると、「ああ、いい絵が描けたのかな」と思います。

まずは依頼してくれた人の期待を超える。


――編集者の方との関係が大切ということでしょうか。


自分が思う絵を描いて「どうだ、いいだろう」っていうのは、正直言ってあまり興味がないんです。本の装丁が一番楽しい仕事かもしれない。本の装丁はグループワークなんです。編集部がいてブックデザイナーがいて僕がいてっていう、3者それぞれの立場でやっているのですが、その共同作業がすごく楽しいんです。独りよがりではできなくて、制作に関わるメンバー全員が納得してやらないといけないので。




絵が上手いだけではダメ。ムダなことをたくさん知っている「好奇心」が大切。

―― 佐々木さんにとって「創造する」ということは、苦しいことなのでしょうか。

「産みの苦しみ」はもちろんあるんです。例えば小説を読んでカットを描くときに、どの シーンを描くのか、これだと決めるまでは結構悩みますが、それは仕事である以上当然あるべきものであって、大変だと思ったことは全くありません。イラストレーターの仕事は、お題があり、媒体があり、目的があるわけです。依頼が来て、文章やコピーを読んで、そこからキーワードを探してイメージを膨らませます。それは制限でもあるわけですが、そこには必ずヒントがあるし、アイデアの拠り所があります。

―― キーワードやアイデアから、実際にイラストへと孵化させていく途中は、色々手を動かしたりするんですか。

そうです。だからこういうアイデアブックというのが何十冊もあるんです。これは依頼があって、お題が出てからアイデア出しをする時にも使いますし、打ち合わせをしながらその場でサラサラと描くこともあります。また仕事と関係なく、旅先で面白いと思って描いたスケッチなどもあります。写真もいいなと思ったものはしょっちゅう撮っていて、それが絵の材料になったりしています。


佐々木悟郎さんのアイディアブック
佐々木悟郎さんのアイディアブック


アトリエにはカメラのコレクションも飾られている
アトリエにはカメラのコレクションも飾られている


―― 日頃面白いと思ったものは、スケッチや写真でストックしておくわけですね。


イラストレーターってやっぱり、ただイラストが上手いだけじゃダメだと思うんです。いつも好奇心を持っていて、いろんな無駄なことも知っていないと。たとえばポール・マッカートニーがなぜあそこまですごい作曲家なのかといえば、あの人、やっぱりすごい種類の音楽を聴いているんですよ。ジャンルの幅がハンパじゃない、全部それがうまく相乗効果の掛け算になっていく。単なるロック野郎じゃないわけです。ですからイラストレーターにおいても、絵だけでなく、いろんなことを小説や音楽や、映画などから学んだりするべきで、そういったことがクリエイションにとっては大事だと思います。結局自分が今までどれくらい本を読んだか、どのくらい音楽を聴いたかが、そのまま引き出しの大きさとなって「創造」するときの全てに作用する気がします。


作詞・作曲、バンド演奏が趣味。多忙なスケジュールをぬってライブも行っている
作詞・作曲、バンド演奏が趣味。多忙なスケジュールをぬってライブも行っている



創造の現場の第一線で活躍するイラストレーター佐々木悟郎のお話には、たくさんのヒントがあるように思いました。本日がご多忙中ありがとうございました。


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    【PROFILE】

    佐々木悟郎(ささき・ごろう)

    1956年生まれ。1978年愛知県立芸術大学デザイン科卒業。1981年アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン卒業。1983年、NACC展ADC部門特選。文星芸術大学デザイン専攻教授。沖縄県立芸術大学非常勤講師。2000年、講談社出版文化賞さし絵賞。著書「ライカ百景」枻文庫 、「水絵を描く 佐々木悟郎」美術出版社、「水彩スケッチ」美術出版社、「Songs to Remember」ヤマハミュージックメディア、「20 Cherished Objects」Blue Sky Books/888 Books。多重録音による作詞・作曲やバンド演奏が趣味。

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