カッパドキアの岩窟教会と地下都市(トルコ)|大自然が創造した景観とそれに手を加えた人々

MAR 16, 2021

旅行&音楽ライター:前原利行 カッパドキアの岩窟教会と地下都市(トルコ)|大自然が創造した景観とそれに手を加えた人々

MAR 16, 2021

旅行&音楽ライター:前原利行 カッパドキアの岩窟教会と地下都市(トルコ)|大自然が創造した景観とそれに手を加えた人々 "創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の記事で書かれている内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。

トルコ共和国の国土の大半を占めるアナトリア半島の中央部。長年にわたる侵食によって造られた標高約1000mの台地が、カッパドキア地方だ。彫刻刀で削り取られたような岩肌や、逆に柔らかそうに見える崖、小さなグランドキャニオンのような峡谷があるかと思えば、キノコが生えたように見える奇岩もある。そして不思議な風景は地上ばかりではない。その地下に都市を造った人々もいるのだ。今回は大自然が創ったユニークな地形と、それに人間が手を加えたものから「創造」を考えてみよう。




カッパドキアに日が昇る

気球に熱い空気を送り、膨らます。カッパドキアでは毎朝、こうしたバルーンツアーが出発している気球に熱い空気を送り、膨らます。カッパドキアでは毎朝、こうしたバルーンツアーが出発している


空は白んできたが、日の出まではまだしばらく時間はありそうだ。目の前の気球に熱い空気が送り込まれると、やがて気球は膨んだ体を起こすように立ち上がった。それまでただ作業を見ていた乗客たちが、気球に下げられたカゴに乗り込むように指示を受ける。全員が乗り込むと、気球を大地につなぎ留めていた綱が外され、カゴがふわりと大地から離れた。ガスバーナーに何度か点火が繰り返されると気球は上昇し、あっという間に地面が遠のいていく。天気さえ良ければ、毎朝見られるカッパドキアのバルーンツアーだ。ふと気がつくと、周囲でも同じようにいくつもの気球が上昇していた。空は明るく紫色に染まり、目の前には見渡す限りのカッパドキアのパノラマが広がっていた。




火と水と風が創造したカッパドキアの大地

アナトリア半島の内陸部にあるカッパドキア。数千万年前、この大地で活発な火山活動が始まった。火山の噴火は広範囲にわたって大量の火山灰や溶岩を降り積もらせ、それらが固まると厚い凝灰岩や溶結凝灰岩の層が大地を覆っていた。こうして東京都の都市部に匹敵するほどの面積の火山灰の台地が生まれた。


硬い岩が雨風の侵食を防いだため、まるでキノコのような形で残った岩硬い岩が雨風の侵食を防いだため、まるでキノコのような形で残った岩


表面がザラザラした凝灰岩は柔らかく、風化しやすい特徴がある。雨風の侵食を受けた凝灰岩層は、深いところでは200mに及ぶ谷間を形成した。また硬い玄武岩を残して円錐形に侵食が進み、傘をかぶったキノコのような奇岩も生まれた。こうして長い年月をかけ、カッパドキアに世界に類を見ない絶景が生まれたのだ。




キリスト教修道士たちが住んでいたカッパドキアの谷間

カッパドキアには先史時代から人が住んでおり、土器や金属器も発掘されている。しかし歴史上では帝政ローマ、ビザンチン帝国、オスマン朝などの大帝国の周辺部であり続け、歴史の表舞台に出ることはなかった。宗教的には帝政ローマ時代にキリスト教が浸透し、3世紀には中心都市であるカイセリに司教区も置かれた。


奇岩に囲まれたギョレメの村。カッパドキア観光の中心地でもある奇岩に囲まれたギョレメの村。カッパドキア観光の中心地でもある


ビザンチン帝国はおよそ1000年続いたが、その間に帝国を二分した偶像破壊論争が起きる。キリスト教が生まれた当初は偶像崇拝は禁止されていたが、次第に聖像や聖遺物が崇拝の対象となっていく。しかしキリスト教の中でも、偶像を崇めるのを良しとしない人々もいた。8世紀、ビザンツ皇帝レオン3世は国内に偶像禁止令を出し、聖像を破壊させた。しかしそれに納得できない人々もおり、以降、禁止令が撤回されるまでの1世紀に及び、宗教上の争いが起きた。カッパドキアにも偶像禁止令が及んだが、それに従わない人たちが渓谷に隠れ住んだという。都市から離れた辺境は、異端者や修道士が暮らすのに適していたのだ。何世紀にもわたって、村から離れた谷間で修道士たちが暮らした跡が、今もカッパドキアのあちこちに残っている。




ギョレメの谷にある世界遺産の岩窟教会

ギョレメの谷にある屋外博物館。崩れたり、風雨に浸食されたりして、きれいに残っている岩窟教会は少ないギョレメの谷にある屋外博物館。崩れたり、風雨に浸食されたりして、きれいに残っている岩窟教会は少ない


カッパドキアで観光客に最も人気があるのは世界遺産にもなっているギョレメ屋外博物館だろう。ギョレメの谷には凝灰岩の崖を削って造られた30に及ぶという岩窟教会の跡が今も残っている。岩窟教会の造りは、十字形をした平面とドーム型の天井、それを支える円柱のように、屋外に建てられた教会を模したものが多い。宗教や場所は異なるが、前に行ったことのあるインドのエローラやアジャンターの石窟寺院を思い出した。インドで仏教やヒンドゥー教の石窟寺院が造られたのは5世紀から10世紀にかけてのものが多いが、ここカッパドキアでも岩肌が掘られたのもそのぐらいの時代だという(壁画は10世紀以降のものが主)。


ギョレメ屋外博物館にある教会には、たとえば入り口にリンゴの木があったから「エルマル・キリセ(リンゴの教会)」というようにトルコ語で名前が付けられている。もちろん正式な名前はあったろうが、それを伝える者はいなくなってしまった。他のトルコの地と同じく、現在のカッパドキアに住んでいるのはほとんどがイスラム教徒なのだから。そして岩窟教会内にあった壁画の多くもイスラム教徒に破壊されてしまった。


ギョレメ屋外博物館にある聖バルバラ教会の内部。上段の絵は何を表しているのだろうかギョレメ屋外博物館にある聖バルバラ教会の内部。上段の絵は何を表しているのだろうか


しかしそれでも岩窟教会のいくつかには、今も素晴らしいフレスコ画が残っている。それらは偶像破壊運動が収まった後に描かれているが、中には素朴な線画もあり、破壊運動前に描かれたのではないかと思えるものもある。岩窟教会には礼拝堂以外にも、修道士たちの部屋や食堂があり、当時の人々の生活ぶりがうかがえる。


ギョレメ村には今でも昔からある岩窟を納屋として利用している農家があるが、中にはそんな岩窟をホテルとして使用しているところもある。岩窟ホテルといっても、3畳程度の狭い部屋もあれば、広い間取りの空間までさまざま。1度泊まってみたことがあるが、朝になると少量だが掛け布団の上に天井から砂がパラパラと落ちていたのが印象的だった。放置していてもそのくらい落ちるということは、岩を削るのは簡単ということだろう。




地面の下に、世界でも類を見ない地下都市が広がる

カイマクルの地下都市。地上からは想像もつかない広い空間がカイマクルの地下都市。地上からは想像もつかない広い空間が


岩窟教会のあるギョレメから南へ約25km。渓谷の合間にわずかな農地しか作れないギョレメと異なり、平らで耕地も多いエリアに「カイマクル」という村がある。地上は特に特徴のない農村だが、地下には別世界が広がっている。まるで蟻の巣が張り巡らされたような地下都市があるのだ。


カッパドキアの凝灰岩の台地で、峡谷や谷間に住む人々は横方向に岩を穿(うが)ち、岩窟教会や住居を造る。また、下方向に掘っていけば、柱なしで地下室を造ることができる。さらに人々は地下室をつなぐ通路を作り、地下室の下にさらに地下室を造るなど、自然が創造した大地に手を加えた。その結果、町と言ってもいい規模の地下都市が造り出された。


「都市」と言われるように、地下にも町の機能が備わっている。教会や礼拝堂、学校の教室、集会所、寝室、厨房、貯蔵庫、家畜小屋、井戸のほか、最下層の階まで貫く換気シャフトもある。敵が攻めてきた時のために、通路は迷路状に造ってあり、抜け道や、緊急時に通路を塞ぐ重い石の扉も用意されている。このカイマクルの地下都市は地下5階までが見学できるが、それでも全体のごく一部。最大で2万人が暮らせたという。冬には平均気温がマイナスになる土地なので、季節によっては意外に地下は快適なのかもしれない。


こうした地下都市は、このカイマクルだけでなくカッパドキアのあちこちにある。カイマクルからさらに10km南にあるデリンクユの地下都市はより大きく、地下7層で最深部は約90mあり、4万人が暮らせたという。そしてこの都市は、10kmに及ぶ地下トンネルでカイマクルともつながっていた。想像するだけでもすごいものがある。


カイマクルの地下都市。大きな岩は、敵が地下に入ってきた時に通路を塞ぐ目的で使われたカイマクルの地下都市。大きな岩は、敵が地下に入ってきた時に通路を塞ぐ目的で使われた


こうした地下都市はいつ造られ、いつまで利用されていたのか。少なくとも紀元前4世紀に書かれたギリシャ人のクセノポンの著作「アナバシス」には、地下住居に住む人々の記述が出てくる。地下に住居が造られたきっかけは分からないが、たぶん戦乱や略奪から逃れるためだったのだろう。大規模に拡張したのはビザンチン時代で、アラブ人やトルコ人が攻めてきた時に家畜や穀物と共に隠れ住んでいたという。


記録では、最後にこの地下都市が使われたのは、1923年に行われたギリシャとトルコの住民交換の前だ。この時、トルコ各地でギリシャ人(キリスト教徒)への虐殺が起き、危険を感じたカッパドキアのキリスト教徒たちがこの地下都市に逃げ込んだ。カッパドキア地方では、「カッパドキア・ギリシア語」と呼ばれるギリシャ語も話されていたというから、それまである程度のキリスト教徒の住民がいたのだろう。しかし彼らがギリシャに送還されると、もう地下都市は使われることはなくなり、いつしか人々の記憶からも薄れていった。いまでは地下都市は、住居ではなくカッパドキアの観光資源になっている。


カッパドキア


太陽が大地から登り、渓谷を紫からオレンジに染め上げていく。気球に乗って素晴らしいギョレメの谷を見下ろした。この絶景がもし大自然の創作物といえるのなら、天才の技といえるだろう。そして岩窟教会や地下都市のように、その大地に手を加えてカスタマイズしていく人間もまた、天才的な創造力の持ち主だ。自然と共に生きた過去のカッパドキアの人々が遺したものは、今もそれを伝えてくれる。

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    海外旅行ライター&編集の仕事以外にも、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に興味を持ち、執筆している。世界史オタク。最近では海外での音楽フェスと美術館巡りにはまっている。

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