名古屋覚王山のドボク・ケンチク歴史散歩

【連載】ドボたんが行く!

三上美絵

名古屋覚王山のドボク・ケンチク歴史散歩

土木大好きライター三上美絵が、毎回さまざまな土木構造物を愛で、紹介していくドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」。身近にあるどんなことにも遊びを見出してしまう好奇心こそ、本当のクリエイティビティ。ドボたん三上は、名古屋市の覚王山で何を見つけたのでしょうか!

お釈迦さまのご真骨を安置する覚王山日泰寺

かわいい土木」と称し、古くて地域に愛されてきた土木遺産を紹介する記事を書いている私、ドボたん三上。名古屋にシメジのような"ドボかわいい"形をした給水塔があると知り、見に行きました。


名古屋駅から地下鉄東山線に乗り、7つ目の覚王山駅で下車。駅から参道を北へ進み、給水塔を目指していきます。少し歩くと、眼の前に大きな山門がどーんと見えてきました。


ここは「覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ)」というお寺。「覚王」とはお釈迦さまのことで、お寺の山号が地域の名になり、地下鉄駅の名称にもなっています。このお寺がすごいのは、日本で唯一、考古学的裏付けのあるご真骨(お釈迦さまの遺骨)を安置していること。


1898(明治31)年1月、インド北部のピプラーワーという村で、古代文字の刻まれた壺が発掘されました。文字を解読したところ、「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と書かれていたのです。「日泰寺」のウェブサイトによれば、「釈迦の遺骨を8つに分けてお祀りし、釈迦族の人々もその一部を得て安置した」という原始仏典*1の記述とも一致するものであったそうです。


*1 原始仏典:仏教の創始者、釈尊(しゃくそん)の教えを最も忠実に伝える原始仏教を集めた経典集。


その後、ご真骨は仏教国であるタイ国(当時・シャム国)の王室に寄贈され、その一部が日本にも与えられることになりました。拝受したご真骨を祀る寺院は超宗派で建立することになり、さまざまな候補地の中から、名古屋官民一致の誘致運動によって現在地に新寺院を建立することが決まったといいます。


こうして1904(明治37)年、日本とタイ国(泰国)の友好を象徴する「日泰寺」という名の寺院が創建されたのです。


せっかくなので、給水塔へ行く前に寄ってみましょう。駅前からまっすぐ続く参道を歩いていくと、正面に立派な山門が見えてきました。すると、山門の脇に赤い三角屋根の塔が覗いているではありませんか!


(左)日泰寺の山門。参道から自然に視線が集まるアイストップになっている (右)よく見ると、門の脇に給水塔が覗いていた!(左)日泰寺の山門。参道から自然に視線が集まるアイストップになっている (右)よく見ると、門の脇に給水塔が覗いていた!


境内には、ハスが夢のように美しい花を咲かせていた境内には、ハスが夢のように美しい花を咲かせていた




丘の上に建つメルヘンチックな東山給水塔

「日泰寺」を出て、先ほど見えた給水塔の方角、北へ向かうと、5分ほどですぐ目の前に到着。名古屋市上下水道局の給水施設である「東山給水塔」です。赤い屋根とツタの絡まった本体は、たしかにシメジみたいでドボかわいい! 屋根の下は展望台のようなガラス張りの通路になっており、後から付け足したもの。内部を見学することはできませんでしたが(現在、工事のため非公開)、通路からは360度のパノラマが見渡せるのでしょう。


1930(昭和5)年の完成当時は「東山配水塔」という名称で、1973(昭和48)年まで配水塔として名古屋市内へ水を供給していました。高台に建てた塔に水を溜め、重力を利用して低地の家や建物に水を自然流下させる仕組みです。配水塔としての役割を終えた今では、災害時の応急給水施設になっています。創建当初のいきさつや技術者たちの奮闘については、「かわいい土木」の「第55回 技術者の情熱を伝える赤い屋根の給水塔」をご覧ください。


敷地のフェンスの外側には、昔のポストのような形をした小さな円筒形のレンガの構造物が展示してありました。説明板を読むと、名古屋水道創設期の2号配水池の水位計建屋を移設したもの。配水池とは浄水場できれいにした水を一旦溜めておく水槽で、地下に設置してあります。この建屋の中にある水位計の目盛りを見れば、水槽内にどのくらい水が溜まっているのか分かるようになっていたのですね。


赤い三角屋根とツタの絡まる様子がメルヘンチックな「東山給水塔」赤い三角屋根とツタの絡まる様子がメルヘンチックな「東山給水塔」


(左)屋根の下には回廊式の通路がある (右)角度によっては、丘の上に屋根だけが載っているようにも見える(左)屋根の下には回廊式の通路がある (右)角度によっては、丘の上に屋根だけが載っているようにも見える


配水池の水位計建屋(左)と、配水池のレンガ壁を再利用した、水道給水開始100周年の記念碑が並んでいる配水池の水位計建屋(左)と、配水池のレンガ壁を再利用した、水道給水開始100周年の記念碑が並んでいる




名古屋の近代水道の土木遺産がそこかしこに

「東山給水塔」の前から県道関田名古屋線を北上すると、水道施設の敷地を結ぶ歩道橋が架かっていました。曲線を活かしたデザインがレトロな雰囲気の素敵な橋です。渡ってみると、欄干に銘板があり「天満すいどうはし」とあります。竣工は1936(昭和11)年なので、90年近く前のものです。


名称は「すいどうばし」ではなく「すいどうはし」。水道関連施設では「水が濁らない」という願いを込めて、濁音を使わないことがあるという話を聞いたことがあります。ここも、そうなのかもしれません。


桁と橋脚をつなぐアールが美しい「天満すいどうはし」。90年近くたった今も、きれいに塗装され、大切に使われている桁と橋脚をつなぐアールが美しい「天満すいどうはし」。90年近くたった今も、きれいに塗装され、大切に使われている


欄干のすきまから、給水塔が覗く欄干のすきまから、給水塔が覗く


橋を渡ったところに、どっしりした石の門があります。フェンスに近づいてみると案内板があり、「東山配水場5号配水池」と書かれていました。1934(昭和9)年の建設当時の外観が残されている貴重な施設で、27,000㎥の水を溜めておくことのできる現役の配水池です。


「東山配水場5号配水池」の入口。ここから水道管を通って各家庭へ水が運ばれていく「東山配水場5号配水池」の入口。ここから水道管を通って各家庭へ水が運ばれていく


「東山配水場5号配水池」の先には、「水の歴史資料館」がありました。敷地内には、好きな人(ワタシです)にはたまらない、お宝級の上下水道遺構が展示されています。例えば、古い水道鉄管の一部や、各種のマンホール蓋、レンガ積みマンホール、浄水場に使われていた刻印入りレンガなど、興味深いものばかりでした。


また、展示室では、名古屋市の上下水道敷設計画などを体系的に知ることができます。「東山給水塔」の建てられた当初の姿を示す模型は、特徴的な赤い屋根が付いておらず、白いスッキリとした円塔であったことが分かり、印象的でした。


今回は訪れることができませんでしたが、県道関田名古屋線をさらに北上したところには、名古屋市で最初につくられた「鍋屋上野浄水場」があります。1914(大正3)年に完成した「旧第一ポンプ所」は、レンガ造にスレート葺屋根という重厚な建屋を持ち、名古屋市指定有形文化財になっています(見学は5人以上で、1週間前までに申込みが必要)。


「水の歴史資料館」の敷地内に、古い水道鉄管(左)や下水道マンホールの蓋が展示されている「水の歴史資料館」の敷地内に、古い水道鉄管(左)や下水道マンホールの蓋が展示されている


エントランス前の床には、「鍋屋上野浄水場」のろ過池の底に使われていたレンガを再利用している。中にいくつか、漢数字が刻印されたものがあり、見つけたときの喜びもひとしお。写真中央の「十三」と読める漢数字は、レンガを焼成した職人の班を示す「責任印」と推測されているエントランス前の床には、「鍋屋上野浄水場」のろ過池の底に使われていたレンガを再利用している。中にいくつか、漢数字が刻印されたものがあり、見つけたときの喜びもひとしお。写真中央の「十三」と読める漢数字は、レンガを焼成した職人の班を示す「責任印」と推測されるという


名古屋市の下水道創設期のマンホール。特注の台形レンガを円錐形に積み上げ、外側をモルタルで固めた。製造コストがかかること、現地施工のため交通に支障が出ることから、工場生産の鉄筋コンクリートブロックに代替され、わずかな期間にしかつくられなかった名古屋市の下水道創設期のマンホール。特注の台形レンガを円錐形に積み上げ、外側をモルタルで固めた。製造コストがかかること、現地施工のため交通に支障が出ることから、工場生産の鉄筋コンクリートブロックに代替され、わずかな期間にしかつくられなかった


建設当初の「東山給水塔」は赤い屋根がなかった。回廊から上の部分が水槽だと思われる建設当初の「東山給水塔」は赤い屋根がなかった。回廊から上の部分が水槽だと思われる




財界人の別荘もある月見の名所

日泰寺参道を給水塔へ向かって歩いているとき、スマートフォンの地図に表示される「揚輝荘(ようきそう)」の文字が気になっていました。そこで、「水の歴史資料館」からの帰路に立ち寄ってみることに。


「揚輝荘」は、松坂屋の初代社長である伊藤次郎左衛門祐民(いとうじろうざえもんすけたみ)が大正から昭和初期にかけて建てた別荘。2018(平成30)年に100周年を迎えました。約1万坪もの敷地に、最盛期には30数棟に及ぶ建物があったといいます。今では一部が名古屋市に寄付され、4棟の建物と庭園の池に架かる1基の橋が市指定有形文化財になっています。


公式ウェブサイトによると「揚輝荘」という名は、中国の六朝時代の詩人、陶淵明(とうえんめい)作といわれる漢詩「四時詩(しいじし)」の一節「秋月揚明輝(しゅうげつめいきをあげ)」から名付けたそうです。秋には月が空高く明るく輝いている。うーん、風流ですね。掛け軸として茶室に飾られることも多い言葉だといいます。郊外の高台に位置する覚王山地区は、月見の名所でもあったのですね。


現在の敷地は北園と南園に分かれており、連絡通路で接続されています。北園には、京都の修学院離宮の影響を受けたという池泉回遊式庭園があり、池のほとりをぐるりと歩くことができます。私が訪れたのは夏で、木々の葉が茂り、風が吹くと木漏れ日が足元でサヤサヤと形を変えていくさまを味わうことができました。


池に架かる「白雲橋」も見事です。やはり修学院離宮の「千歳橋」の写しといわれるデザインで、屋根付きの廊橋(ろうきょう。池などに廊下のように架けた橋)。石組みの橋脚が、どっしりとした風格を感じさせます。天井には、祐民が描いたという龍の板絵がありました。


(左)「揚輝荘」の門 (右)北園にある池泉回遊式の北庭園(左)「揚輝荘」の門 (右)北園にある池泉回遊式の北庭園


白雲橋。屋根は両側が緑釉瓦葺きで、中央が銅板葺き白雲橋。屋根は両側が緑釉瓦葺きで、中央が銅板葺き


連絡通路から南園へ。山荘風の意匠を持つ「聴松閣(ちょうしょうかく)」の中を見学しました。この建物は迎賓館として1937(昭和12)年に完成。晩餐会が開かれた食堂や舞踏室などがあり、往時には各界の要人や文化人が訪れる華やかな社交場だったといいます。


主だった祐民は、江戸時代から続く「いとう呉服店」の15代次郎左衛門を47歳のときに襲名。明治の終わりには名古屋で初めてのデパートメントストアを開店しました。渋沢栄一が率いる日本実業家渡米団の一人として参加し、帰国後は経済界のリーダーとして活躍しました。一方で仏教を信仰し、昭和初期にインドなどへ巡礼旅行をしています。その影響か、「聴松閣」の地階にはインド風の意匠が施され、インド人留学生の描いた壁画も残されています。


南園に建つ「聴松閣」。石張りの柱や、ハーフティンバーの壁が山荘風だ南園に建つ「聴松閣」。石張りの柱や、ハーフティンバーの壁が山荘風だ


(左)エントランス前の車寄せ。天井には凝った照明が残されている (右)地階ホールの壁画。1938(昭和13)年に制作されたという日付と留学生のサインが残されている(左)エントランス前の車寄せ。天井には凝った照明が残されている (右)地階ホールの壁画。1938(昭和13)年に制作されたという日付と留学生のサインが残されている


(左)地階の旧舞踏場。敷地の高低差を利用し、地下ながら自然光が差し込む造りになっている。暖炉の上には踊り子のレリーフ (右)石張りの柱の下部には、インドのアーグラ宮殿に見られる植物模様の象嵌(ぞうがん)が施されている(左)地階の旧舞踏場。敷地の高低差を利用し、地下ながら自然光が差し込む造りになっている。暖炉の上には踊り子のレリーフ (右)石張りの柱の下部には、インドのアーグラ宮殿に見られる植物模様の象嵌(ぞうがん)が施されている


(左)地階ホールから続くトンネルの入口。かつては敷地内の別な建物につながっていた (右)1階の旧食堂。ここで夜ごとに晩餐会が開かれていたかと思うとワクワクする。客人らは食事の後に地階の舞踏場へ移り、ダンスを楽しんだという。暖炉のほか、床には暖房設備が設けられていた(左)地階ホールから続くトンネルの入口。かつては敷地内の別な建物につながっていた (右)1階の旧食堂。ここで夜ごとに晩餐会が開かれていたかと思うとワクワクする。客人らは食事の後に地階の舞踏場へ移り、ダンスを楽しんだという。暖炉のほか、床には暖房設備が設けられていた


(左)旧食堂の床は、手斧(ちょうな)による「名栗(なぐり)技法」で仕上げられている (右)造り付けの食器棚の上には「いとう」の透かし彫り。「いとう呉服店」の商標デザインだったという(左)旧食堂の床は、手斧(ちょうな)による「名栗(なぐり)技法」で仕上げられている。造り付けの食器棚の上には「いとう」の透かし彫り。「いとう呉服店」の商標デザインだったという


2階の旧応接室。船室をイメージさせる丸窓やソファーがあった。暖炉周りのタイルも凝った意匠だ2階の旧応接室。船室をイメージさせる丸窓やソファーがあった。暖炉周りのタイルも凝った意匠だ


明治後期に「覚王山日泰寺」ができ、7年後には参拝客のために路面電車が開通。沿線の都市化が進み、大正時代から昭和初期には「揚輝荘」をはじめとする別荘や住宅が増え始め、財界人や文化人が多く住むようになります。また、同じ時期に上下水道の整備が進み、浄水場や配水池、そして「東山配水塔」などがつくられていきました。


そのように見ていくと、覚王山にはまちの発展の過程が土木・建築の遺産に色濃く現れていることに気づきます。歩いて回るのにちょうどいいコンパクトな距離感なのも魅力。あちこちで、「東山給水塔」の赤い屋根が覗いて見えるのも楽しい。またぜひ訪れたいと思えるまちでした。


(参考サイト〉
覚王山日泰寺
水の歴史資料館
揚輝荘


※記事の情報は2025年2月4日時点のものです。

  • プロフィール画像 三上美絵

    【PROFILE】

    三上美絵(みかみ・みえ)

    土木ライター
    大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
    著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
    建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp

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