【連載】創造する人のための「旅」
2023.01.10
旅行&音楽ライター:前原利行
黒人音楽と白人音楽が融合し、新しいサウンドが生まれた街メンフィス(アメリカ)
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の内容や画像は2016年の紀行をもとにしたものです。
【お知らせ】
本連載の筆者である前原利行さんが2023年2月20日に亡くなられました。本記事がアクティオノートでの最後の執筆記事となりました。心よりご冥福をお祈りいたします。
アメリカ南部の都市メンフィス。州都ナッシュビルに次ぐ人口約63万人のテネシー州第2の都市で、市内を流れるミシシッピ川を利用し、綿花の集散地として発展してきた。そんなメンフィスはまた音楽の町でもある。"ジャズ発祥の地"ともいわれるニューオーリンズ、カントリーのナッシュビルと並んで語られることが多いが、メンフィスは、ブルース、ソウル、ゴスペル、そしてロックンロールと多様なジャンルの音楽を生み、育んできた。今回はそんなメンフィスを訪れ、黒人音楽と白人音楽の融合から生まれた音楽の歴史をたどる旅をした。
ブルース音楽が発展していったビール・ストリート
メンフィスはアメリカにしては珍しく歩いて観光できる都市だ。主な見どころはダウンタウンの中心部にかたまっており、乗り物を利用しなくても歩いて回れる。メンフィスの現在の人口のうち約64%が黒人だが、過去の統計を見ると1970年代までは白人の方が多かった。1970年代に入るとダウンタウン(商業区)から郊外へと白人を中心に人口が流出し、都市の空洞化が進んだ。それとともにダウンタウンの治安も悪化していったが、1980年代末の好景気以降は再び治安も良くなっていき、私が訪れた2016年には少なくとも観光地はきれいに整備されて、ダウンタウンの街歩きは観光者にも問題ないようだった。
ダウンタウンでまず訪れたのは、ライブハウスが並ぶビール・ストリートだ。この通りは、19世紀末にはすでにクラブ、レストラン、ショップが並ぶ歓楽街だった。その利用者の多くが黒人で、独自の文化が生まれていった。その代表がブルースに代表される黒人音楽だ。このビール・ストリートで活躍したW.C.ハンディは、「ブルースの父」とも呼ばれ、「メンフィス・ブルース」(1912年)、「ビール・ストリート・ブルース」(1916年)を発表している。彼の最大のヒットは「セント・ルイス・ブルース」(1914年)だろう。私たちが知るブルース形式とは違うが、これらの曲が「ブルース」の名を世に知らしめることになった。ビール・ストリートの東側には、彼が住んでいた小さな家が「W.C.ハンディ博物館」として公開されている。
B. B. キングとジェリー・リー・ルイス
1920年代から1950年代にかけて、このビール・ストリートで多くの黒人ミュージシャンたちが活躍しているが、中でもメンフィスに関係する最も有名なミュージシャンは、ギタリスト兼ボーカリストのB.B.キングだろう。1943年にメンフィスに移り住みラジオ局のDJをしていた彼は、当時「ブルース・ボーイ」と呼ばれたことから芸名をB.B.キングとしたという。1950年代にブルースのシングルヒットを生み出しているが、彼のすごいところは、ロック全盛期の1960年代にも「ロック・ミー・ベイビー」(1964年)、「スリル・イズ・ゴーン」(1969年)といったブルースのスタンダードヒットを生み、1970年代以降は世界ツアーを毎年精力的にこなしていたことだ。
ビール・ストリートには、彼が2015年に亡くなるまで時おり出演していたというライブハウス「B.B.キング・ブルース・クラブ」がある。メンフィスに着いた夜、私はこの店で南部料理のナマズのフライのサンドイッチを食べながら、R&B系バンドの音楽に身をまかせた。バンドは少し前に急死したプリンスを追悼し、その曲をカバーしていたが、プリンスの音楽もまた過去から未来への音楽の流れの一部なのだと感じた。
ビール・ストリートにはもう一軒、ミュージシャンの名を冠した店がある。「ジェリー・リー・ルイス・カフェ」だ。ジェリー・リー・ルイスはロックンロール初期のスターで、2022年10月28日に亡くなった。元気な頃はたまに店に来ていたという。ルイスがメンフィスにやってきたのは1956年。最初はシンガーのバックでピアノを弾いていたが、1957年に自身の「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」と「火の玉ロック」の2曲のシングルがヒットし、一躍ロックンロールのスターになった。映画「トップガン」と「トップガン マーヴェリック」で、グースとその息子のルースターが酒場でピアノを弾きながら歌っていた曲が、この「火の玉ロック」だ。
黒人と白人の音楽を融合させたエルヴィス
メンフィスはまた、黒人文化と白人文化が出合う街でもあった。2022年7月に日本公開された映画「エルヴィス」でもそれが描かれていた。王がいないアメリカで、「キング」といったらエルヴィス・プレスリーのことだ。エルヴィスが13歳の時に、プレスリー一家はメンフィスに引っ越してきた。家庭は貧しく、黒人地区に隣接して住んでいた少年エルヴィスは、黒人文化の影響を受けて育った。高校卒業後、トラック運転手をしていたエルヴィスは地元の録音スタジオ「サン・スタジオ」を訪れ、母親へのプレゼント用のレコードを吹き込む。それがきっかけで、翌年レコーディングに呼ばれ、最初のシングル「ザッツ・オールライト」を録音。これがローカルラジオで反響を呼ぶが、多くの人は最初エルヴィスを黒人歌手だと思っていたという。それまで、そのように歌う白人はいなかったからだ。
映画「エルヴィス」では、エルヴィスが少年時代に黒人だけの礼拝所で歌われるゴスペルや、酒場でブルースに触れていく様子を丁寧に描いていた。「エルヴィスは黒人音楽を盗んだ」と黒人側から批判されてきたこともあり、この映画ではロックンロールのルーツのひとつは黒人音楽ということをはっきり示したのだろう。しかし、エルヴィスは黒人音楽のモノマネでもなかった。カントリーのリズムの軽やかさも加えた、次の次元の音楽を切り開いていたのだ。
人種隔離政策が行われていた頃のアメリカでは、ラジオ局も人種別に分かれていた。そのため黒人音楽のヒット曲は、白人歌手がカバーして白人専用のラジオ局で流していた。そうしたジャンルの壁に風穴を開けたのがエルヴィスだったのだ。ロックンロールは、黒人音楽の代表であるリズム&ブルースと白人音楽の代表であるカントリー&ウエスタンが融合して生まれた音楽だ。そして、歴史上ほぼ初めての若者たちのための音楽でもあった。映画では、若きエルヴィスがビール・ストリートでなじみの黒人ミュージシャンたちに迎え入れられる場面もあった。
エルヴィスはサン・レコードから5枚のシングルを出した後、大手のRCAに移籍。1956年に移籍第1弾シングル「ハートブレイク・ホテル」が全米1位になり、以降、「冷たくしないで」「ハウンド・ドッグ」と、次々にNo.1シングルを放つ。メンフィスのローカルスターが、全米規模のスターになったのだ。
エルヴィスは大スターになったが、メンフィスを離れなかった。亡くなる1977年まで住み続けたのが、メンフィス郊外にある「グレイスランド」と呼ばれる邸宅だ。現在はエルヴィスの博物館になっており、ファンにとっての聖地でもある。邸宅の中には、レコーディング部屋、ビートルズも訪れたリビング、壁一面にテレビが並ぶ地下室のほか、写真や衣装、トロフィーなどの展示部屋がある。見学コースの最後は、エルヴィスとその家族が葬られた墓所だった。
ロカビリーの聖地サン・スタジオ
エルヴィスの大手移籍後もサン・レコードは、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュなどのロカビリー歌手の売り出しに成功する。しかし、その看板スターたちも1960年代には次々と移籍。やがてサンは買収され、スタジオの建物も売却されてしまう。苦難の時代を乗り越え、1987年にスタジオはレコーディングスタジオに戻り、現在はスタジオツアーもあるメンフィスの観光名所になっている。今回、この見学ツアーに参加してみた。
各回20名、所要約40分のガイドツアーでは、最初に2階に上がり、資料や写真、当時のスタジオ機材の展示を見ながらガイドの解説を聞き、その後、1階の録音スタジオに降りる。スタジオにはエルヴィスが使用したというマイクも置いてあり、ここで多くの初期のロックンロールの代表曲が録音されたと思うと感慨深かった。1989年のU2のライブドキュメンタリー「魂の叫び」では、「エンジェル・オブ・ハーレム」の録音がここで行われるシーンがあった。サン・スタジオがあるのはビール・ストリートの東約2kmで、無料のシャトルバスで行くことができる。
メンフィスから生まれたソウルサウンド/スタックス
1960年代に入ると、次の時代を象徴する音楽がメンフィスに生まれる。ブルースよりも踊れるリズムが強調された「ソウル」と呼ばれる音楽だ。その代表的なサウンドが、ビール・ストリートの南東約4kmにある「スタックス・レコード」から生まれた。同社のスタジオにはレコーディングミュージシャンが常駐し、シンガーが行けばすぐに録音できる態勢が整っており、その音は「スタックス・サウンド」と呼ばれた。
代表的なミュージシャンは、オルガンのブッカー・T・ジョーンズ、ギターのスティーブ・クロッパー、ベースのドナルド・ダック・ダン、ドラムのアル・ジャクソンだ。彼らはシンガーのバックを務めるほか、自らもブッカー・T&ザ・MG'sというバンドで、1962年にインスト*の「グリーン・オニオン」をヒットさせている。ソウルというと黒人メンバーによるものと考えがちだが、クロッパーとダック・ダンは白人だった。人種混成バンドから新しいサウンドが生まれたのも、メンフィスという土地柄からだろう。
*インスト:歌詞のない、楽器だけで演奏された曲のこと。
スタックス・サウンドを代表する2大スターがオーティス・レディングとサム&デイヴだ。オーティスのアルバムはアトランティックレコード名義だが、録音はこのスタックスで行われていた。サム&デイヴのヒット曲「ソウル・マン」は、ブルース・ブラザースのカバーで知っている人も多いだろう。しかしスタックスは、大手のアトランティックと契約が切れた1970年代には勢いを失う。時代のリズムはソウルからファンクに変わっていったのだ。現在、スタックス・スタジオは「スタックス・アメリカン・ソウル・ミュージック博物館」として公開されている。
キング牧師が暗殺されたモーテルが博物館に
ギタリストのスティーブ・クロッパーは、オーティス・レディングの代表作「ドック・オブ・ザ・ベイ」など数々のソウルの名曲を共作している。そのうちの1曲にウィルソン・ピケットの「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」がある。この曲はピケットとクロッパーにより、ピケットが滞在していたビール・ストリート近くのロレイン・モーテルの一室で書かれ、1965年にR&Bチャートで1位になった。
そのロレイン・モーテルは、外観はほぼそのままに現在は「国立公民権博物館」になっている。その理由は、この場所が公民権運動に身を捧げたマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された場所だからだ。1968年4月4日、集会のためにメンフィスを訪れていたキング牧師は、306号室のバルコニーに出たところを白人のジェームズ・アール・レイに撃たれた。以降、この場所は人々にとって象徴的な場所になった。人種差別撤廃を求めるアメリカの公民権運動の歴史が分かる展示のほか、キング牧師が撃たれた部屋、狙撃に使われた向かいの建物(別館)の部屋は、当時の様子を再現し保存している。
アメリカ南部を象徴する都市メンフィス。奴隷として連れてこられた黒人たちによる綿花の収穫によって発展してきた街だが、そこはまた彼らが生み出した文化と白人文化が出合い、ポピュラーミュージックに革新をもたらした場所でもあった。今の音楽があるのも、そんな先人たちの歴史があるからだろう。メンフィスへの旅を終えてみて、異文化を融合させていったアメリカ音楽の奥深さを知った。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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