【連載】ドボたんが行く!
2025.07.11
三上美絵
東京凸凹倶楽部の「成城の高低差と湧水、5つの多摩川水系の川を巡るまち歩き」に参加してみた!〈後編〉
土木大好きライター三上美絵が、毎回さまざまな土木構造物を愛で、紹介していくドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」。身近にあるどんなことにも遊びを見出してしまう好奇心こそ、本当のクリエイティビティ。前編に続き、世田谷区にある多摩川水系の川を巡ります。
前編はこちら
野川と仙川の合流地点にプチ・ナイアガラが出現?!
前回のレポート(前編)は次大夫堀公園までをお伝えしました。ここからは当日の続きです。
当日歩いたルート。地図のブルーが濃いほど標高が低く、赤に近づくほど高い。この辺りでは多摩川が最も低いことがよく分かる。多摩川の河岸段丘である「ハケ」と支川の野川、仙川や谷戸川、丸子川の谷もくっきりと表されている(地図作成:東京凸凹倶楽部)
次大夫堀公園で休憩した一行は、再び歩き出し、野川沿いの遊歩道を南下します。しばらく歩くと、野川の左岸側に仙川が合流している地点に差し掛かりました。
2つの川は水位が異なり、仙川から野川へ小さな滝のようになって水が流れ込んでいます。案内役の松本猛(まつもと・たけし)さん(東京凸凹倶楽部)は、「ここが有名な『仙川ナイアガラの滝』です」と言って皆を笑わせます。ナイアガラ、小さっ(笑)。
仙川と野川の合流地点。手前が野川で、奥が仙川だ。仙川は現在、水害を防止するために河床を掘り下げる護岸整備工事が行われている(写真:以下、特記以外は三上美絵)
さらに野川沿いを下っていくと、「野川水道橋」に差し掛かりました。ここと、これから行く「岡本公園」には以前、「ひたすら真っすぐな『旧渋谷町水道みち』を皆で歩いてみた!」でも来たことがあります。
野川水道橋は架け替える前は、水道管に野川を越えさせるための橋でした。橋の欄干には、当時の水道橋を描いたレリーフが嵌め込まれています。
以前の水道橋の様子を描いた野川水道橋欄干のレリーフ。アーチトラス橋の桁の上に、水道管が載っているのが分かる
野川水道橋から対岸へ渡り、水道みちを通って岡本公園へ向かいます。冒頭の地図を見ると分かるように、公園はベロの形のように先が尖った「舌状台地」の上にあります。その南側を流れているのが丸子川、つまり「次大夫堀=六郷用水」です。そして、北側を流れているのが谷戸(やと)川だそうです。
はっ! ここでようやく思い出しました。丸子川と同様、谷戸川についても前編の冒頭で「まったく知りませんでした」と書きましたが、旧渋谷水道のルートをたどった前述のまち歩きで、北側から岡本公園へ向かったとき、この川を渡っていたのです。知っていたのに、忘れていました......。
世田谷区の資料によれば、谷戸川は昔、ここより3kmほど北にあった湧水の泉を水源とする川だったそうです。
岡本公園から、近くにある「旧小坂家住宅」へ立ち寄りました。衆議院議員などを歴任した小坂順造の別邸だった住宅です。しっとりと美しい和風の主屋のほか、洋風の寝室棟や山小屋風の書斎棟があり、どこの棟からも国分寺崖線の緑が眺められるつくりになっているそうです。ここも、時間があるときにぜひ再訪したいところ。
岡本公園の近くにある旧小坂家住宅。衆議院議員などを歴任した小坂順造の別邸として1937(昭和12)年に建てられた。和風の主屋が美しい佇まい。世田谷区指定有形文化財
高台の旧小坂家住宅から坂を下り、岡本公園のある舌状台地の先端部へ。ここで、北から流れてきた谷戸川と西から流れてきた丸子川が合流しています。細い川同士がぶつかる、小さなドボかわいい合流点でした。
奥からの谷戸川と左手からの丸子川が合流する箇所。水流を制御する「蛇籠(じゃかご)」が置かれていた
多摩川に新しい堤防ができた二子玉川でゴール!
成城からスタートしたこの日のまち歩きもいよいよ大詰めに差し掛かってきました。谷戸川・丸子川合流点から、野川へ向けて南下。ここからは、東京急行電鉄(東急)の前身である玉川電気鉄道(玉電)の砧線廃線跡の遊歩道を歩きます。
玉電は、多摩川の砂利を運んでいたことから「ジャリ電」と呼ばれていましたが、高度成長期のクルマ社会の到来とともに自動車に行く手を阻まれてノロノロ運転となり、「ジャマ電」とまで呼ばれるようになったとか(ヒ、ヒドイ......)。砧線は1969(昭和44)年に廃止され、その後、「砧線跡歩道」として整備されたのです。
遊歩道のガードレールに鉄道レールの廃材が再利用されていて、支柱には往時の玉電のイラストが描かれています。
レール廃材を再利用した「砧線跡歩道」
さて、ついに多摩川まで辿り着きました。東急電鉄二子玉川駅の近くで、野川と多摩川が合流しています。広々とした川原の西に、大きな美しい夕日が見えていました。
野川と多摩川の合流地点。美しい夕焼けが、がんばったご褒美だ(写真:松本猛)
川原から二子玉川駅へ向かう途中、「二子の渡し跡」と彫られた石碑が、道路脇にひっそりと立っていました。江戸時代の多摩川には、全部で39カ所もの渡しがあったそうです。二子の渡しは、江戸と伊勢原の大山をつなぐ「大山道」が多摩川を渡る場所にありました。大正時代末に、二子橋が架けられて廃止されるまで、大山詣(おおやまもうで)の多くの人で賑わったといわれます。
目立たない場所にある石碑が、かつて賑わった渡し場の痕跡を偲ばせる
この辺りは、2019年の台風19号で浸水被害を受けました。というのは、多摩川の堤防がところどころ途切れている「無堤地区」だったからです。
なぜ、堤防が造られなかったのでしょうか。じつは二子の渡しが賑わっていた江戸時代から、川のほとりには多くの料亭が店を構えていました。これらの料亭は、川を離れると営業上不利になることから立ち退きに反対。結局、堤防はこのエリアを避けて後背地に築くことになりました。それが、今も二子玉川駅近くに残る古い堤防です。
「洪水時には立ち退く」という条件付きであったようですが、このエリアはこうした歴史的な経緯によって、いわゆる「堤外地(堤防の外側=川側)」になってしまったのです。時代とともに料亭が住宅に変わった後も、築堤が計画されては反対の声が上がり、暫定堤防や土嚢を積んだだけの無堤防の状態が続いていました。
2019年台風の被害を受けて、国土交通省は「多摩川緊急治水対策プロジェクト」を開始。二子玉川地区の堤防整備に着手しました。この日、私たちが現地を訪れると、そこにはできたての立派な堤防の姿がありました。
国土交通省の直轄事業として整備された堤防
かつての料亭エリアの後ろに築かれた古い堤防も残っている。通常は人やクルマが通行でき、洪水時には扉を閉める「陸閘(りくこう)」がある
昼過ぎにスタートして、成城学園からここまでの歩行距離は約16km! 「東京凸凹倶楽部」を名乗るだけあって、国分寺崖線を登って下って、皆さんよく歩きました。
今日のルートを上流から順に復習すると、まず仙川が野川に合流し、仙川から分流した丸子川が谷戸川と合流。最後に、野川が多摩川に合流する地点を見届けました。
「東京・山の手の今日歩いたエリアは、すべて『多摩川がつくった』といって過言ではありません。緑と湧水豊かな国分寺崖線も、5つの川がつくる斜面上のまち並みも、六郷用水も、ジャリ電もそう。二子玉川の古い堤防と陸閘、新しい巨大な堤防もまた、多摩川と野川の合流点の洪水対策として生まれたのです。山の手のまちは、その成り立ちからずっと、多摩川とは切っても切れない関係にあるんですよ」。松本さんは、そう話します。
歩いてみて印象的だったのは、世田谷区内にこれほど多くの湧水地と緑地があり、それが国分寺崖線を介してつながり合うように点在していること。成城学園の父母たちによる成城のまちづくりに始まって、現在でもボランティアによる緑地の管理やトラスト運動などが盛んなことからは、地域の人々がいかに自分たちのまちを愛し、大切にしているかが伝わってきました。そんな気風が育ったのも、ハケと水辺と緑の持つ魅力のせいなのかもしれません。
〈参考サイト〉
「せたがやの水辺」
「旧小坂家住宅」
「玉川電気鉄道」
「多摩川の渡し」
「市街地の変容と築堤の関係にみる無堤地区の形成史」
「多摩川・二子玉川地区堤防整備工事説明会資料」
※記事の情報は2025年7月11日時点のものです。
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【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター
大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp