ニューオーリンズ | 多様性が新しいものを育む、料理と音楽とブードゥーの街

【連載】創造する人のための「旅」

旅行&音楽ライター:前原利行

ニューオーリンズ | 多様性が新しいものを育む、料理と音楽とブードゥーの街

"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の記事で書かれている内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。

アメリカ合衆国南部、ルイジアナ州最大の都市ニューオーリンズ。大河ミシシッピがメキシコ湾に注ぐ河口近くにあるこの都市は、フランス、スペイン、カリブ海、アフリカなどアメリカ以外の様々な人種や民族、歴史が交差し、独自の文化を育んできた。今も旧市街「フレンチクオーター」を歩けば、多様な文化が層を成していることを感じるだろう。今回はそんな出自の異なる多様性から生まれた「創造力」を探ってみたい。


フレンチクオーターにあるポンタルバ・アパートメントは、1849年に建てられたアメリカ最古のアパートというフレンチクオーターにあるポンタルバ・アパートメントは、1849年に建てられたアメリカ最古のアパートという




フランスやスペイン時代の面影を残す街

ニューオーリンズの歴史は、1718年にフランス人入植者がここに「ラ・ヌーヴェル・オルレアン」(新オルレアン)を建設したことから始まる。メキシコ湾まではまだ100km以上あるが、海に近い所は広大な湿地帯だったため港の建設が難しかったのだ。幸いミシシッピ川は川底が深く、大型船もここまで入ってくることができた。


1763年、アメリカ植民地をめぐる戦争でイギリスに敗れたフランスは、ミシシッピ川以東をイギリスに、新オルレアンを含むミシシッピ川以西をスペインに割譲する。ナポレオン時代に再びフランス領に戻るが、1803年にナポレオンはそれをアメリカに売却してしまう。以降、この町は英語で「ニューオーリンズ」と呼ばれるようになった。


この18世紀のフランス~スペイン時代の面影を残しているのが、かつての旧市街「フレンチクオーター」だ。名前に「フレンチ」とあるものの、パティオの街並みはむしろスペイン風。実際に建物の多くはスペイン統治時代の18世紀末から19世紀初頭に建てられたもので、防火のため壁をレンガや漆喰で覆っているのが特徴だ。2階には鉄製のレースが付いたバルコニーがあり、夕方にはそこから通りを歩く人々を見下ろす住民の姿が見える。そんな様子もまるでラテンアメリカの街のようだ。


ジャクソン広場のジャクソン騎馬像とセントルイス大聖堂ジャクソン広場のジャクソン騎馬像とセントルイス大聖堂


フレンチクオーターは散策が楽しい。歩き始めは古い建物に囲まれたジャクソン広場から。中央に建つ騎馬像は、ニューオーリンズの戦いで英国に勝利を収め、後に合衆国大統領になったアンドリュー・ジャクソンだ。広場の北側には、現存するアメリカ最古の大聖堂(カテドラル)であるセントルイス大聖堂がある。新教徒が中心となり建国したアメリカだが、フランス領だったニューオーリンズではカトリックの歴史の方が古いのだ。


広場の南の向かいには1862年創業というカフェ・デュ・モンドがあり、いつも観光客でにぎわっている。ちなみにニューオーリンズの人が好むのはチコリ入りのコーヒーだ。チコリはタンポポの仲間で、根を乾燥させて煎じて飲むとコーヒーに似た味になり、また健康にもいいという。




オカルトとブードゥー、そして小泉八雲

古い歴史を持つニューオーリンズは幽霊やオカルト話が人々の生活に溶け込んでいて、「幽霊屋敷」と呼ばれている家が何軒もある。その幽霊屋敷をめぐる「ゴーストツアー」は人気のツアーだ。「インタヴュー・ウィズ・ヴァパイア」「エンゼル・ハート」「007死ぬのは奴らだ」など、小説や映画に登場するニューオーリンズにもオカルトが絡むものが少なくない。


19世紀には西インド諸島からブードゥー教がもたらされ大流行した。ブードゥー教はもともと西アフリカ発祥の民族宗教だ。呪術や占いで知られ、ニューオーリンズでは特にマリー・ラボーという女性が占いだけでなく超能力もあったとされ、町の有力者も一目置いていたという。


夜のバーボン・ストリート。今ではライブハウスが多い観光地だが、かつてラフカディオ・ハーンもこの通りの家に住んでいた夜のバーボン・ストリート。今ではライブハウスが多い観光地だが、かつてラフカディオ・ハーンもこの通りの家に住んでいた


そんなオカルト話に興味を持った一人がラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)だ。1877年、27歳の時にニューオーリンズに移り住んだハーンは、ここで民話やブードゥーなど大衆文化についての記事を多く執筆した。その頃ニューオーリンズ万博で日本人と知り合っており、やがて日本への興味が募ったハーンは、1890年、40歳の時に日本へ旅立つことになる。日本の怪談にハーンが惹かれたのも、このニューオーリンズの空気が影響しているのかもしれない。




ニューオーリンズが生んだ音楽・ジャズ

夜になると観光客が集まるのが、ジャクソン広場から2ブロック北にあるバーボン・ストリートだ。ライブバーが並ぶ通りだがジャズを演奏している店は意外に少なく、大半がヒットチャートやクラシックロック、R&Bの類の音楽。ただ1軒、プリザベーションホールという小屋だけは、オールドスタイルのニューオーリンズ・ジャズを毎晩演奏している。


フレンチクオーターでは路上でよく生演奏が行なわれているフレンチクオーターでは路上でよく生演奏が行なわれている


1865年に南北戦争が終わると解放された多くの黒人がニューオーリンズに移り住んできたが、その中で生まれてきた新しい音楽が「ジャズ」だ。ジャズは1900年代にニューオーリンズで生まれたと言われているが、1917年に主な演奏場所だったストーリーヴィル(売春街)が閉鎖されると、ミュージシャンたちは仕事を求めて北部のシカゴや東部のニューヨークへと移動していく。その中に若き日のルイ・アームストロング(サッチモ)もいた。その後レコードやラジオが大衆に普及したこともあり、ジャズは全国的な人気を得るようになる。




ニューオーリンズが生み出した料理文化

アメリカ料理というと、ステーキ、ポテト、フライドチキンなどと、どこもあまり代わり映えしないイメージがあるが、ニューオーリンズがあるこのルイジアナ州では、フランス、スペイン、西インド諸島などの影響を受けたローカルフードが独自に発展してきた。さらに19世紀半ばにアフリカから奴隷として多くの黒人が連れてこられ、同時にアフリカの食文化も持ち込まれた。


湿度が高いミシシッピデルタでは、小麦よりも米が作られており、主食にはお米を使った料理が多い。その代表的なものが、「ルイジアナ風炊き込みご飯」とでもいうべき「ジャンバラヤ」だ。ルーツはパエリアというから、スペイン領時代に伝えられたのかもしれない。具は玉ねぎ、ソーセージ、シーフード、チキン、パプリカ、セロリなどで、たぶん"残りもの"の再活用から始まったのだろう。本場スペインのパエリアと違うのは、サフランは高価なので使わず、トマトの味付けということ。だから見た目も黄色でなく、赤くなっている。


ニューオーリンズの名物料理が「ガンボ」。これはハーフサイズ。ご飯が完全に沈んでいるものもあるニューオーリンズの名物料理が「ガンボ」。これはハーフサイズ。ご飯が完全に沈んでいるものもある


ジャンバラヤと並ぶニューオーリンズの名物料理が「ガンボ」だ。「ガンボ」とは西アフリカの部族の言葉で「オクラ」のこと。西アフリカ起源の料理で、オクラを入れることによって独特のとろみがつき濃いスープになる。具は店により異なるが、玉ねぎやピーマンなどの野菜のほか、エビ、カキ、チキン、ソーセージなども入れる。もともとはこれも鍋のように"残りもの"を入れていたのだろう。日本人的にはスープの出汁に肉と魚介は合わせないと思うが、最近ではラーメンでも「魚介豚骨」あるので、これはこれで"あり"なのだろう。


お米料理で、現地の人が日常的に食べている家庭料理、あるいは定食屋の定番メニューが「レッドビーンズ&ライス」だ。これは赤インゲン豆(キドニービーンズ)をスパイスで煮込み、日本のカレーライスのようにご飯にかけて食べる料理。具は玉ねぎやセロリなどの野菜、そして燻製ソーセージや肉を入れる。もともとは黒人奴隷や貧しい家庭が、豚足のような安い骨付き肉を使い、その臭みを消すため、チリペッパー、コショウ、ローリエなどのスパイスを入れて煮込んでいた。


食堂のレッドビーンズ&ライス。付け合わせのハムやポテトはエクストラ食堂のレッドビーンズ&ライス。付け合わせのハムやポテトはエクストラ


奴隷制の時代、アメリカ南部では食べづらいあばらの間のリブ肉や内臓などを黒人奴隷に与えていた。そのため、それらを美味しく食べる料理文化が発展した。代表的なのがリブ肉のバーベキューだろう。日本でバーベキューというと屋外の網焼き料理を指すことが多いが、それはむしろグリル。本場でバーベキューというと、最低でも半日、通常は丸1日以上かけて蒸し焼きにする。すると固い肉が驚くほど柔らかくなるのだ。


肉料理では「アンドゥイユ」という燻製ソーセージも、ニューオーリンズではポピュラーだ。名前からしてフランス起源。ちょっとクセがあるが、旨味があるのでガンボやジャンバラヤなどの食材には欠かせない。


海や大小の河川に近いことから、ニューオーリンズでは魚介類をよく食べる。ナマズ、カキ、ザリガニ、ソフトシェルクラブはニューオーリンズではよく見られる食材だ。ニューオーリンズではポピュラーな「ポーボーイ(Po' boy)」は、小エビのフライをたくさん挟んだサンドイッチが基本。他にも具材にカキ、ナマズ、ザリガニ、ソフトシェルクラブなどのフライを挟む。


生牡蠣の注文は1ダースか半ダースの単位で。値段は年々上がっているが1ダース15?20ドル生ガキの注文は1ダースか半ダースの単位で。値段は年々上がっているが1ダース15~20ドル


フランスでは今でもシーズンになるとカフェやレストランの店先に生ガキが並べられ、それを剥く人が立つ。アメリカにも生ガキを食べる文化があるが、それはフランス人が多かったニューオーリンズから広まったのだろうか。ニューオーリンズでは1年中、生ガキを提供している店が数多くあり、かくいう筆者も最初に生ガキに開眼したのが30年前のニューオーリンズ訪問だった。日本のものに比べると小ぶりでやや丸みを帯びており、本当に一口でつるりと食べられる。味付けはレモンを搾るか、トマトケチャップ、ジンジャーソースをお好みで。殻付きで味付けしてグリルしたオイスターも人気だ。このようにアメリカでは、南部、特にニューオーリンズでは食文化が大きく異なり、そして豊かだ。出自が異なる多様な文化や習慣が現地の食材と合わさり、新しい食文化を生み出したのだ。




ニューオーリンズのいま

20世紀に入り物流ルートが変わると、現在の旧市街エリアは発展から取り残される。しかしその代わりに古い街並みが今も残ることになった。フレンチクオーターでは20世紀初頭までフランス語が聞けたという。


2005年のハリケーン・カトリーナではニューオーリンズの8割が水没したが、水没した住宅の多くは貧しい黒人が住む地区だった。しかし、2016年と2017年と再訪したニューオーリンズにはすでに災害の痕跡はなく、観光客でにぎわっていた。この街で生まれた豊かな文化的遺産が人々を惹きつけるのだ。そしてそこからまた、新しい何かが創造されるかもしれない。


毎年4月下旬から5月上旬の2週間に渡って開かれるニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティバルには、多くの観光客が訪れる毎年4月下旬から5月上旬の2週間にわたって開かれるニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティバルには、多くの観光客が訪れる

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。

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