
【連載】映画の中の土木
2026.04.21
熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司
土木がドラマ性を生み出す映画【映画の中の土木④】
連載「映画の中の土木」第4回は「ドラマを支える土木」がテーマです。『砂の器』では鉄道、『パッチギ!』では川辺、『ゆれる』では吊り橋にフォーカスし、土木の視点をフックにして3作品を紹介。熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司氏に解説いただきました。
イラスト:広野りお
〈目次〉
- 社会のインフラのように映画にドラマ性を与える土木
- 「砂の器」―鉄道によって描き出される"宿命"感―
- 「パッチギ!」―川は境界であり、縁であり、祝祭の場―
- 「ゆれる」―宙吊りのように日常と異世界をつなぐ橋―
社会のインフラのように映画にドラマ性を与える土木
みなさまご無沙汰しております。およそ半年ぶりに復活することができました。みなさまにこれまで以上に楽しんでいただけるように頑張っていきますので、これからもよろしくお願いします。
「映画の中の土木」第4回のテーマは、「ドラマを支える土木」です。これまでの連載3回を振り返ってみると、大きな事件のない、日常を描いたような作品が多かったように思います。それらもまた映画の魅力なのですが、とはいえ、日常では出合うことの少ない事件に遭遇することも、映画の醍醐味でしょう。ですので今回は、(できれば映画の中でしか出合いたくない)ドラマティックな事件の起こる3本を紹介したいと思います。
土木とは、そもそも私たちの暮らしを縁の下から支える社会基盤施設ですが、映画の中においても、前景には出てこないながらも、そのドラマをしっかり支えているのです。
「砂の器」―鉄道によって描き出される"宿命"感―

監督:野村芳太郎
出演:丹波哲郎、加藤剛、山口果林、島田陽子、森田健作
1974年/日本/143分
【あらすじ】
国鉄蒲田操車場で身元不明の遺体が見つかり、ベテラン刑事と若い刑事が捜査に乗り出す。手がかりは被害者が残した断片的な言葉と、その身元を追うなかで浮かび上がる各地を転々とした足取り。聞き込みを重ねるうち、事件は1人の天才音楽家へとつながり、華やかな成功の裏側にある過去の影が浮かび上がっていく。刑事たちは「動機」に迫ろうとするが、真相は単純な怨恨では片づけられない重みを帯びていく。
ドラマティックな日本映画として、私がまず思い浮かべるのが、この映画です。原作となった長編推理小説の著者・松本清張をして、「原作を超えた」と評価されています。上映時間およそ143分の大作ですが、圧巻は映画の後半、40分を超える「宿命」というタイトルを持つ曲のオーケストラシーンです。ここでは、和賀英良(加藤剛)の指揮およびピアノ演奏によるオーケストラだけではなく、丹波哲郎演じる刑事が謎解きをしていく捜査会議と、幼少期の和賀とハンセン病を患った父(加藤嘉)との放浪の旅が同時に描かれます。
これは、クロス・カッティングやパラレル・モンタージュといわれる技法で、それぞれのシーンの意味を対比的に強調しながら、クライマックスに向けて加速度をつけて描いていくものです。このような演出に触れると、「おお、映画を観てるなあ」と感じ、優れた映画的体験の1つだと思います。なお、この父子の放浪のシーンは、原作の小説では刑事による数行の紹介にとどまっているそうです。これが、先に紹介した松本清張による評価の所以なのですが、和賀がオーケストラ指揮者となった現在と対比されることで、当時のハンセン病患者の悲惨さが際立って、私たちの胸に迫ってきます。
さて、このドラマを支えている土木とは何でしょうか。それは、鉄道です。「点と線」という鉄道ダイヤのトリックを主題とした作品もあるように、松本清張自身が鉄道好きだったこともありますが、それだけでは済まないほど、この映画では鉄道が多く描かれています。
最初に死体が発見されるのは国鉄蒲田操車場ですし、刑事たちと和賀が最初に接触するのも、捜査で向かった秋田から東京に戻る列車内ですし(このタイミングでは、双方ともその存在に気づいていません)、和賀の愛人(島田陽子)が重要な証拠を捨てるのも急行アルプスの車窓から、その彼女が流産してしまうのも踏切においてです。あるいは、緒形拳演じる駐在所巡査の計らいで、ハンセン病の父が療養所に送られる時、最初は見ないふりをしていた幼少期の和賀が駅まで線路を走って来るシーンもグッときます。
物語の舞台になっているものだけではありません。刑事が捜査のために田舎道を歩いている時もその背後に列車が通りますし、和賀の愛人の家は列車の音がよく響く線路沿いにあり、彼女が刑事に詰問される瞬間にも、唐突に列車の音が被さってきます。もちろん、私が気づいていないものも、もっとあるかもしれません。
では、この映画において鉄道はどのような意味を持っているのでしょうか。1つは、この映画の象徴にもなっている、クライマックスに展開される父子の放浪を対比的に際立たせるものなのではないかと思います。彼らの旅は、お遍路のように、托鉢(たくはつ)しながらの徒歩によるものです。映画において、この道行が描かれる前に、鉄道によるたくさんの旅が映されることによって、時代的にも経済的にも、その差を否応なく、私たちは意識せざるを得ないのではないでしょうか。
そしてもう1つ私が感じたのは、鉄道の景色やその音は、私たちが暮らしているこの世界の象徴なのではないかということです。日本の鉄道運行の正確さは、世界でも群を抜いています。よほどの事故や悪天候でない限り、時間通りに来て、出発し、そして日本の隅々まで連れて行ってくれます。実際のところ、その実現は多くの方々の努力の賜物だろうと思いますが、その正確な世界に、私たちは自らの暮らしを安心して委ねています。
この映画の主人公にとって、幼少期の暮らしや、自ら勝ち取った現在の立場を脅かす過去の存在、それを排除するための殺人は、大いなる悲劇に相違ありません。オーケストラによる「宿命」の音楽が鳴り響くクライマックスの約40分以外の100分間に、日常的で正確な列車音が鳴り響いているからこそ、その「宿命」が強く印象づけられるのでしょう。
ある個人がどんな悲劇に見舞われているとしても、世界は粛々と進んでいくということ。それは残酷なことかもしれません。ただ、個人を超えたところに、しっかりと世界があるということ、あるいは、その世界を感じられるということ、これは私にとってむしろ安心感のようなものを感じさせてくれます。
「パッチギ!」―川は境界であり、縁であり、祝祭の場―

監督:井筒和幸
出演:塩谷瞬、沢尻エリカ、高岡蒼佑、小出恵介、波岡一喜、尾上寛之、真木よう子、江口のりこ
2005年/日本/118分
【あらすじ】
1990年代後半の京都。高校に通う日本人の少年は、退屈な日常に鬱屈としながらも、偶然の出会いをきっかけに在日コリアンの少女に惹かれていく。ところが、学校同士の対立や街に漂う偏見が、若者たちの感情を簡単に暴発させる。友情、恋、プライドがぶつかり合い、喧嘩や衝突が連鎖する中で、少年は「自分はどう生きるのか」を突きつけられていく。熱量とユーモアを併せ持つ青春群像。
次はもっとエンターテインメントとして楽しめる作品を紹介したいと思います。1960年代後半の京都を舞台とした在日朝鮮人と日本人の高校生たちの抗争と恋愛を描いた映画です。もちろん、ベトナム戦争中であり、学生運動も盛んだった時代を描いた物語ですし、その背景には在日の方々の歴史もあるので(おそらく、当時には日本に連れてこられた一世の方もご存命だったのでしょう)、気軽に楽しむだけというわけにはいかず、複雑な気持ちにもなります。
ただ、物語の冒頭、長崎から修学旅行に来た高校生のヤンキーたちと京都に住む在日の高校生たちの大乱闘を、私たちはあっけに取られながら見守るしかないように、まずは若い高校生たちが躍動する姿を堪能するという姿勢が、この映画への正しい向き合い方だと思います。
この映画の原案は松山猛、音楽は加藤和彦が担当し、彼ら「ザ・フォーク・クルセダーズ」の「悲しくてやりきれない」や「あの素晴しい愛をもう一度」などの音楽が、映画を豊かに彩っています。その中でも、映画の主題となるのは、朝鮮半島の分断を歌った「イムジン河」です。歌詞の内容は、半島を分断するように流れる川を北側から眺めながら、その川を南に渡っていく鳥に向けて、なぜ、故郷が分断されて帰れないのか、と問うものです。この映画では、京都を流れる鴨川が、この「イムジン河」になぞらえられていますが、川が持つ多様な側面が描かれているように思います。
まず1つは、「イムジン河」に歌われているように、川が地域を分断する境界線だということです。リ・アンソン(高岡蒼佑)やリ・キョンジャ(沢尻エリカ)の住む朝鮮人部落と、寺の跡取り息子である松山康介(塩谷瞬)の暮らす地域は、明確に鴨川によって分断されているように描かれています。川が2つの文化を強固に分断する境界線だからこそ、その距離にショックを受けた松山が、恋するキョンジャと自分をつなぐものであったギターを壊すのも、川を渡る橋の上なんだと思います。
しかし一方で、その境界を突破する行為、例えば、川をわざわざ水に浸かりながら歩いて渡る松山の姿や、彼が演奏する放送局に向けて必死に自転車を漕いで橋を渡るキョンジャの姿が感動的なのだと思います。
次に感じるのは、川という場所が街のエッジ(縁)だということです。これは、境界線を内側から見た時の側面かもしれませんが、豊かで自由なアジール(逃げ場所)になります。連載第2回で紹介した「セトウツミ」の川辺もこのような場所でしょう。「パッチギ!」においては、健気に家の手伝いをしつつも、音楽を通して世界に旅立ちたいキョンジャが、1人でフルートを練習する場所であったり(だからこそ松山は川を渡って会いに行けます)、スウェーデンへの放浪の旅から帰りヒッピーとなった坂崎(オダギリジョー)から、キング牧師の「I have a dream」の話を松山が聞くのも、ボートの上です(ここは嵐山なので桂川ですが)。つまり川は、自分たちが暮らす狭い世界の縁であると同時に、より広い世界の窓ともなっているのです。
そして最後は、いにしえの四条河原がそうであったように祝祭の場でもあるということです。この映画のクライマックスは、賀茂川と高野川の合流点を舞台とした高校生たちの大乱闘です。ここは、「砂の器」と同じように、パラレル・モンタージュによって描かれます。すなわち、川での大乱闘とアンソンの恋人桃子(楊原京子)の出産、アンソンの弟分の葬式、松山の「イムジン河」の演奏による4シーンのモンタージュです。最後には、前者と後者の2つがそれぞれ合流します。
この大乱闘は、抗争というよりは、まるで大運動会のようで、私には祝祭感に満ち溢れているように感じました。いち早く高校を中退し看護師となったガンジャ(真木よう子)の飛び蹴りも素晴らしい。日本には伝統的に西洋のような広場がないと言われていますが、川辺はそれらと同じように機能していたのではないかと思っています。多様な個性を持つ人々がリアルに触れ合う祝祭の舞台、それが川の持つ豊かな可能性のひとつなのだと思います。
「ゆれる」―宙吊りのように日常と異世界をつなぐ橋―

監督:西川美和
出演:オダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、真木よう子、木村祐一、田口トモロヲ、蟹江敬三
2006年/日本/119分
【あらすじ】
故郷の田舎町で再会した兄弟。家業を継ぐ兄と、都会で暮らす弟は、久しぶりの時間を過ごす中で、かつての距離感を取り戻したように見える。だが、ある出来事を境に状況は一変し、周囲の視線や証言、記憶の食い違いが、兄弟それぞれの「見ている現実」を揺さぶっていく。真実が何かよりも、人が信じたいものが何かが露わになる心理劇で、家族の絆と疑念が静かに緊張を増していく。
最後は、土木構造物そのものが、もっと明確に主題となっている映画を紹介します。この映画で事件が起こるのは、渓谷にかけられた古い吊り橋です。その体感がそのまま映画のタイトルにもなっています。
この映画を最初に見た時、山梨の田舎町で家業のガソリンスタンドを手伝う独身で冴えない兄(香川照之)と、東京に出て写真家として成功したイケメンの弟(オダギリジョー)の対比ばかりが印象に残りましたが、見直してみて、2人の幼馴染で、亡くなってしまう智恵子(真木よう子)も含めて、地方都市に漂う閉塞感のようなものの方を強く感じました。その閉塞感を強く揺らすのが、タイトルの由来ともなっている古い吊り橋なのです。
「パッチギ!」でも描かれているように、橋は一義的には異なる場所をつなぐものです。しかしこの映画では、橋の持つ最も大切なこの機能は、あまりきちんと取り上げられていません。それよりも、もっと純粋で形態的なもの、つまり宙に浮かんでいる、その状態のみが描かれているように感じます。ではなぜ、私たちはそのように感じるのでしょうか。
まず、この橋が架かっている渓谷自体が、日常から切り離された異世界のように描かれているということです。映画のラスト近く、母親によって映された、おどけた父親も含めて兄弟仲良く遊ぶ8ミリフィルムの映像が、そのような印象を強固なものとしてくれるのですが、母親の一周忌の翌日に、弟の車で兄と幼馴染の3人で向かう場所として、この渓谷が長く暗いトンネルを抜けた先に描かれていることが、異世界としての第一印象を形づくっています。
「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」という有名な言葉があるように、トンネルは風景を強く印象づける優れた装置です。なお、弟が車を運転するシーンは冒頭にもあるのですが、両シーンとも、赤い革ジャンやベルボトム、古いフォードのステーションワゴン、バックに流れるインストゥルメンタルのファンクミュージックが相まって、まるで70年代のようで、すごくかっこいい。このトンネルは、そういうかっこよさの終わりを表現していたようにも感じます。
そして、吊り橋です。この橋が、まるで宙吊りのように見えるのは、そこにつながるルートが、深い緑に覆われて全く見えないからです。実際、その橋の上に登場人物が現れるとき、彼らはまるで瞬間移動したように出現します。一番その印象が強いのは、幼馴染の肩に兄が手をかける瞬間で、私たちも、手をかけられた彼女と同様に、その突然さにびっくりしてしまいます。そして、この吊り橋は古く部分的には朽ちてもいるので、宙吊りかつ不安定に揺れる状況を集約的に表現しています。田舎に残り、ある意味では安定的な暮らしを選んだ兄が、幼い頃からこの不安定さを恐れていたのは、本能的な恐怖だったのかもしれません。
一方、田舎に暮らす兄や幼馴染が、悲劇的な結果だとしても、その閉塞から抜け出すのも、この橋からです。そういう意味では、やはりこの吊り橋もまた違う世界への架け橋だったのかもしれません。この映画は、出所した兄のピュアでもあり謎めいてもいる笑顔で終わります。彼が元の暮らしに戻るのか、違う暮らしへ向かうのか、その結末は私たちに委ねられています。
なお、この映画では地方での暮らしを無意味なつまらないものとだけ描いているわけではないことも付け加えておきたいと思います。それは、ガソリンスタンドのバイト(新井浩文)の存在によって表現されています。彼は事件が起こった後も、おそらく、兄の代わりに後継者となって、そのガソリンスタンドで働き続け(これも大切な地域のインフラです)、家族もつくっているのですが、兄が出所する時、東京で写真家を続けている弟を訪ね、出迎えに行かないのかと問いかけます。その時の彼の目の強さは、地元に根づき堅実に暮らすことの誇りを強く主張しているように感じました。
以上、「ドラマを支える土木」というテーマで3本の映画を紹介しました。これらの映画は、私にとって、自分の仕事でもあり、身近な存在でもある土木について、新しい側面や見過ごしていた本質を、新鮮に気づかせてくれるものでした。ぜひみなさまも、映画を通して新鮮に驚き、そして現実の仕事や暮らしを豊かに充実させる、そんなプロセスを経験していただけたらと思います。
ぜひ、次回も楽しみにしていてください。
※記事の情報は2026年4月21日時点のものです。
-

【PROFILE】
星野裕司(ほしの・ゆうじ)
熊本大学くまもと水循環・減災研究教育センター教授
1971年、東京都生まれ。1996年に東京大学大学院工学系研究科を修了し、株式会社アプル総合計画事務所入社。その後熊本大学工学部助手を経て、2005年博士(工学)取得。2023年より現職の熊本大学くまもと水循環・減災研究教育センター教授に就任。専門は景観工学・土木デザインで、社会基盤施設のデザインを中心にさまざまな地域づくりの研究・実践活動を行う。主な受賞に、土木学会出版文化賞、土木学会論文賞、グッドデザイン・ベスト100、グッドデザイン・サステナブルデザイン賞、土木学会デザイン賞最優秀賞、都市景観大賞など。
RELATED ARTICLESこの記事の関連記事
-
- 映画の中の土木――外からのまなざしで日本を捉えた映画3選 熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司
-
- 映画の中の土木――ささやかだけど、大切な場所を描いた映画3選 熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司
-
- 水郷佐原とレンガ閘門、加藤洲十二橋を巡る 三上美絵
NEW ARTICLESこのカテゴリの最新記事
-
- 土木がドラマ性を生み出す映画【映画の中の土木④】 熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司
-
- 野沢直子|60代になっても変わらない"自分らしい生き方" 野沢直子さん 芸人〈インタビュー〉
-
- 〈癒やしの海写真〉観光地、街の近くにある海の景色と生き物たち4選|鍵井靖章 水中写真家:鍵井靖章
-
- 映画の中の土木――外からのまなざしで日本を捉えた映画3選 熊本大学 くまもと水循環・減災研究教育センター教授 星野裕司





