【連載】ドボたんが行く!
2022.03.22
三上美絵
水郷佐原とレンガ閘門、加藤洲十二橋を巡る
遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!
街道と利根川舟運の結節点として栄えた佐原
水の郷(さと)と書いて「水郷(すいごう)」と読む。なんとも心地よい響きです。千葉県香取市の佐原(さわら)は利根川下流域に位置し、「水郷佐原」として知られています。佐原は江戸時代から昭和の高度経済成長期にかけて利根川の舟運の中継地として栄え、今も分流の小野川沿いに商家の街並みが残っています。
この地域の発展には、徳川家康による「利根川の東遷(とうせん)」が大きく関わっています。
縄文時代の初め頃、最終氷河期が終わった後の温暖化により海面が上昇し、陸地の奥まで海が浸入していました。この「縄文海進」と呼ばれる現象によって、現在の利根川の大部分は海になっていたのです。縄文時代中期になると海面が下がり始め、関東平野や利根川が姿を現します。
1590年に家康が江戸へ入府した頃もまだ、銚子から霞ヶ浦にかけての一帯は広大な入り江で、「香取海(かとりうみ)」と呼ばれていました。一方の利根川は、香取海には接しておらず、東京湾に流れ込んでいました。家康は水路や堤防を築いて利根川の流れを東側に分流し、新たに銚子で太平洋に注ぐルートを設けたのです。この大規模な河川改修工事を現在では「利根川の東遷」と呼んでいます。
東遷事業の目的はいくつかあり、これまでは「江戸を洪水から守るため」というのが主な狙いと考えられていました。最近では、「舟運による物流を強化し、急増する江戸の人口に対応するため」というのが当初の目的だったといわれているようです。
この東遷事業によって利根川とつながったのが、佐原の中心部を流れる小野川です。佐原街道、香取街道、銚子街道、多古街道の接点でもある佐原は、これら陸路で運ばれた荷物を船に積み替え、小野川から利根川を経由して江戸へと運ぶ物流拠点となったのです。今に残る蔵を持つ町家や洋風建築が混在する街並みは、伝統的建造物群保存地区に指定されています。
小野川に沿って歩いていくと、伊能忠敬記念館がありました。伊能家は酒や醤油の醸造などを営む佐原の名主。17歳のときに婿入りした忠敬は50歳で隠居し、翌年に江戸へ出て日本地図の作成という偉業を成し遂げたのです。旧宅の裏庭には、忠敬の銅像が立っていました。
旧宅の見学中に、大きな水音が聞こえてきました。表に出ると、目の前の橋から水が滝のように流れ落ちています。通称「じゃあじゃあ橋」と呼ばれるこの橋の正式名称は「樋橋(とよはし)」で、創建は江戸時代初期の1673年に遡ります。
「樋(とい)の橋」という名が示すように、樋橋は用水路が小野川と交差する部分に設けられた水路橋でした。この辺りは小野川の河口に近く、淡水と海水の交じる汽水域(きすいいき)なので、川の水に塩分があって田んぼには利用できません。そこで、新田開発のために小野川上流に堰(せき)を造って真水を取水し、用水路を巡らせたのです。
用水路は伊能家の敷地を横切って、樋橋で小野川を越えていました。元の樋橋はコの字型の水路で、田植え時期には水を通し、農閑期には不要になる水を橋の下を流れる小野川へ落としていたといいます。1992年に橋桁の横から落水するように改造された現在の橋は、その風景を再現しているのです。
利根川の逆流を食い止める横利根閘門
出かける前にインターネットで佐原の情報を集めていると、JR佐原駅から4kmほど北上したところにレンガの古い閘門(こうもん)があり、現役で使われているという情報をキャッチ! 利根川と横利根川の合流部に位置する「横利根閘門(よことねこうもん)」です。"閘門フェチ"のドボタン三上としては、足を延ばさないわけにはいきません。
閘門は水位の異なる川に船を通すための施設で、「船のエレベーター」とも呼ばれます。ドボク探検倶楽部では、以前に東京の「荒川ロックゲート」と岡山の「倉安川吉井水門」という2つの閘門を紹介しました。https://note.aktio.co.jp/play/20200915-1730.html
利根川の本流に架かる水郷大橋を越えてほどなく、横利根閘門に到着。レンガ造りに黒い鉄の扉が重厚な印象を与える立派な閘門です。1900(明治33)年から1930(昭和5)年にかけて内務省が実施した利根川改修工事の一環として建設されたもので、7年をかけた大工事のすえ、1912(大正10)年に完成しました。
「閘門は船のエレベーター」と言いましたが、ここ横利根閘門は船を通すだけでなく、ほかにも重要な役割を担っています。それは、利根川が洪水になったときに、横利根川への逆流による霞ヶ浦沿岸の氾濫を阻止すること。というのも、横利根川は霞ヶ浦の放水路である常陸利根川と利根川を結ぶ水路だからです。
どれも名前に「利根川」が付いているのでややこしいですが、つまり、利根川と霞ヶ浦は2本の水路(常陸利根川と横利根川)を介してつながっているので、利根川の洪水が霞ヶ浦のほうへ及ばないようにする、ということですね。
閘門の一般的な仕組みは、2カ所の水門の間に「閘室」と呼ばれる船溜まりがあり、片側の水門を開けて閘室に船を入れ、船が入ったら後方の水門を閉める。その後、前方の水門を開け、閘室内の水位が進行方向の川と同じになったら船を出す、というものです。
横利根閘門の場合は、2カ所の水門がそれぞれ対になった「複式閘門」で、その門扉が合掌式(観音開き)なので、合計8枚の門扉が付けられています。閘室の水位調整は、利根川と横利根川にそれぞれつながった給排水管のバルブを調整することで行われます。
全体の大きさは、長さ約91m、幅約11m、深さ約2.6mで、当時ここを通っていた船の中で最大級だった「通運丸」や「銚子丸」などの大きさを基に設計されたそうです。
「隠遁武士」が築いた加藤洲と十二橋
横利根閘門から東北へ4~5kmほど行ったところに、「加藤洲十二橋(かとうずじゅうにきょう)」という名所があります。水田と家々の間に張り巡らされた細い水路「江間(えんま)」に、板を架け渡した簡素な12の橋(現存は11橋)が架かっているのです。この十二橋の成り立ちにも、家康の利根川東遷が関係していました。
家康の入府当時、香取海には鬼怒川(きぬがわ)が運んだ土砂が堆積してあちこちに島ができていました。家康は、ここに新田開発を進めたのです。こうしてできた16の集落はまとめて「十六島(じゅうろくしま)」と呼ばれました。「加藤洲」も十六島のひとつです。
新田開発の担い手として白羽の矢が立ったのが、「隠遁(いんとん)武士」たち。"隠遁"というと、「人里離れた山奥で修行をするお坊さん」とか、「俗世を嫌い山中に庵を結んでひっそり暮らす世捨て人」的なイメージがありますよね。ここでいう「隠遁武士」というのは、「廃業して農民になった元武士」という位置づけです。
十六島開発に任じられたのは、江戸崎土岐氏の旧家臣団でした。江戸崎土岐氏は現在の茨城県稲敷市に「江戸崎城」を構えていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条側についたため、敵対する佐竹氏に滅ぼされてしまったのです。今も、稲敷市には城跡が残っています。
一方、江戸に入府した家康にとっても、佐竹氏の存在は脅威でした。そこで、佐竹氏に恨みを持つ土岐氏の旧家臣団を隠遁・帰農させ、同時に国境の警備に当たらせたのでした。新田開発は1590年から約50年間にわたって行われ、十六島は江戸時代を通じて天領として支配されました。
ただし、十六島の11番目の新田村として加藤洲が誕生した頃には、すでに盤石な徳川政権が確立して佐竹氏は転封され、水戸藩が設置されていたため、国境を警備する必要はなくなっていました。利根川の東遷事業が進むにつれて拡大した砂州の開墾も、旧小見川城主や旧篠原城主の旧家臣団が担うようになりました。
砂州だった十六島では潮の干満によって水位が大きく変わるため、満潮時に水没する場所は水田とし、沈まない場所には盛土を施して宅地としました。集落の周囲には堤防を巡らせ、水田や家々の間は縦横に走らせた江間で区切ったのです。江間は住人たちの生活に欠かせない通路となり、水田と家の往来にも「サッパ舟」と呼ばれる小舟が使われました。
一方、隣の島との行き来には、家ごとに自家用の小さな橋を架けました。元は、いらなくなった船底板を架け渡しただけの簡素な橋だったといいます。加藤洲の江間にも、数メートルごとに合計12の橋が架けられていました。
江戸から明治、大正、昭和と時代は下り、1964年には洪水対策を目的とする土地改良事業が始まりました。その一環として十六島の江間は埋められ、道路に姿を変えました。しかし、加藤洲十二橋の一角だけは観光資源として残され、現在は香取市が管理しているそうです。
常陸利根川を挟んで対岸に位置する潮来(いたこ)から、加藤洲十二橋を巡る観光用のサッパ舟が出ています。
江戸時代の利根川東遷によって、水郷佐原は物流拠点として栄え、土砂が堆積してできた砂州には隠遁武士団が新田を開発した。さらに大正時代には、大型船の通行と治水のために横利根閘門が造られた――。
利根川の異名「坂東太郎」は、「関東にある日本一大きな川」を意味します。徳川家康はその大河川の流れを変え、水路を整備し、陸上・水上に大規模な交通ネットワークを築いて物流を強化し、江戸を当時世界一の大都市に育て上げたのです。
千葉県と茨城県の境に位置する水郷巡りは、土木プランナーとしての家康の偉業をたどる旅となりました。
※記事の情報は2022年3月22日時点のものです。
-
【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター
大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp
RANKINGよく読まれている記事
- 3
- 大江千里|ニューヨークへのジャズ留学から僕のチャプター2が始まった 大江千里さん ジャズピアニスト〈インタビュー〉
- 4
- 手軽で安いものという価値を転換|「海苔弁いちのや」の高級のり弁 海苔弁いちのや 代表取締役 風間塁さん 総料理長 井熊良仁さん〈インタビュー〉
- 5
- 宮尾俊太郎|20歳の再決意「オレ、バレエをやりたかったんじゃないの?」 宮尾俊太郎さん バレエダンサー・俳優〈インタビュー〉
RELATED ARTICLESこの記事の関連記事
- 「かつて川は道だった」を実感する舟遊び 三上美絵
NEW ARTICLESこのカテゴリの最新記事
- 主人公の名前がタイトルの海外の名作――恋愛小説からファンタジーまで 翻訳家:金原瑞人