【連載】ドボたんが行く!
2021.06.22
三上美絵
「土木偉人かるた」と書籍で学ぶ|日本の礎をつくった土木偉人たち
遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!
空海は元祖・土木偉人だった!
私たちの住む場所を安心安全に暮らせるようにするために、さまざまなインフラをつくり、維持するのが土木の仕事です。今回は、古代から現代まで、広い視野と卓越した技術をもって土木の仕事に大いに尽力した「土木偉人」たちのうち、ミカミ的"推し"を勝手に発表したいと思います!
土木偉人を紹介する本や映像などはいろいろあります。例えば、一般財団法人全国建設研修センターが刊行する「土木の絵本シリーズ」もその1つ。対象は「小学上級から大人まで」と書いてあるように、子どもにも理解しやすいやさしい文体ながら、内容的には大人が読んでもとっても面白い!
このシリーズの「人をたすけ国をつくったお坊さんたち」に登場する最初の推しメンは、空海さんです。空海って、あの弘法大師? と思ったあなた、正解です! 高名なお坊さんが土木偉人と聞いて、びっくりした人もいるかもしれません。
唐から最先端の工学知識を持ち帰った空海は、まず821年に香川県にある満濃(まんのう)池の改修工事を完成させます。
満濃池は現在でも「讃岐の水がめ」と呼ばれている大規模な灌漑(かんがい)用のため池です。818年に堤防が決壊し、朝廷の役人が修復に着手したものの、技術的にも難しく、人手も足りずにうまくいきませんでした。
そこで派遣されたのが空海です。空海が故郷である讃岐にやってくると、名声をしたって多くの農民が集まり人手不足は解消。唐で学んだ土木技術を生かして、わずか3カ月でこの難工事を完成させたといいます。これを皮切りに、空海は奈良県の益田池の改修や兵庫県の大輪田港など多くの土木工事を指揮しました。
空海以外にも、大きな土木事業を手掛けたお坊さんたちがいます。例えば、646年に宇治川の急流に初めて強固な橋を架けた道登(どうとう)。灌漑用水と治水を兼ねた「日本初の多目的ダム」といわれる兵庫県の昆陽(こや)池の造営や、古代からあった大阪府の狭山(さやま)池の大規模な改修を指揮した行基(ぎょうき)。念仏を唱えながら諸国をまわり、崩れた道や崖を復旧していった一遍。他にもたくさんいます。
こうした元祖・土木偉人ともいうべきお坊さんたちは、水不足に悩む農地にため池をつくり、ものを運ぶ港をつくり、道や橋を整えたのです。全ては、生活に困窮する民衆を助け、その暮らしを豊かにするためでした。仏教による心の救済だけでなく、大陸の土木技術を駆使してインフラを整備することで、生活が苦しい人々を救ったのです。
信玄・秀吉・清正・家康も土木プランナー
戦国時代に活躍した諸国の大名たちもまた、敵から領土を守り、自然の脅威から住民の暮らしを守った土木偉人です。なかでも土木事業の手腕が優れていたとして、土木の絵本シリーズの1冊「水とたたかった戦国の武将たち」で取り上げられているのは、武田信玄、豊臣秀吉、加藤清正のお三方。
信玄といえば、軍旗に書かれた「風林火山」で有名ですね。このように時期や情勢を見極め、それに応じた動き方をするという考えは、戦いだけでなく治水にも生かされていたようです。たびたび洪水を起こしていた山梨県の釜無川と御勅使(みだい)川の合流地点を改善するため、信玄はまず洪水のときに水がどのように流れているのかをじっと観察しました。そして、御勅使川を分岐させて水勢を弱め、合流した川が強固な岸壁にぶつかるようにするとともに、まち側には長い堤防を築くという戦略を立てたのです。この土手が、現在の「信玄堤(つつみ)」です。
城づくりの上手さで知られる秀吉は、それぞれの城下町を街道で結び、巨椋(おぐら)池や淀川の堤防を整備し、洪水防止や農地の拡大を実現するなど、広域の都市開発を進めました。清正もまた、熊本県を流れる菊池川、白川、緑川、球磨(くま)川という4つの河川を整備し、まちを発展させました。
一方、土木偉人をテーマにしたコンテンツとしては、「土木偉人かるた」もおすすめです。絵札と読み札に全部で48人の土木偉人とそれぞれの功績が描かれていて、子どもも大人も一緒に楽しく遊びながら知的好奇心が満たされるすぐれもの。上で紹介した空海や行基、信玄・秀吉・清正のトリオももちろん登場します。
この中で、私がぜひ「土木プランナー」として推したいのが、徳川家康です。家康は「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる大規模な河川事業を実行しました。埼玉県で合流していた利根川と荒川を切り離し、利根川の流路を東側の銚子沖へ、荒川の流路を西側の入間川へと導くことで、洪水のリスクを大幅に減らしたのです。また、埋立地の造成や飲用水を確保するために神田上水の整備も実施。広大な湿地帯を当時の世界有数の都市・江戸へと変貌させました。260年間続いた江戸幕府を開いた家康は、現代へ続く東京の礎を築いた優れた土木プランナーだったのです!
「お雇い外国人」と呼ばれた土木技術者たち
絵本シリーズやかるたに登場する土木偉人には、日本人ばかりでなく外国人もいます。それは、明治時代に新政府に招かれた、いわゆる「お雇い外国人」と呼ばれた土木技術者たちです。なかでも私が注目しているのは、鉄道技師のエドモンド・モレルと日本の灯台の父・リチャード・H・ブラントン、河川工事に奮闘したヨハネス・デ・レーケの3人。
明治になり、新しい国づくりの要になったのが、鉄道建設でした。モレルは英国人技術者たちを連れて1870年に来日し、新橋~横浜間の測量に着手。ところが、過労がたたったのか、1年半後に急逝してしまいます。後を継いだ外国人技術者と当時の工部省関係者の努力により、日本初の蒸気機関車が新橋駅を出発したのは1875年のことでした。
一方、鉄道が交通の主力となるまでは、舟運(しゅううん)も重要な役割を果たしていました。日本は幕末に結んだ江戸条約によって外国船のための西洋式の灯台の設置を約束したものの、西洋灯台を建設する技術がなかったため、イギリスからブラントンが招かれたのです。1868年に来日したブラントンは、帰国するまでの9年間に約30もの灯台を建てています。その3分の1以上が150年近くたった今でも現役で稼働しているというからすごい!
私ミカミは以前、ブラントンが瀬戸内海の無人島に建てた「鍋島灯台」を取材したことがあります。高さ約10mと灯台としては小ぶりながら、ドーム型の白い端正な姿が印象的でした。
陸の明かりもなく、狭く長い航路に数千もの小島が点在する夜の瀬戸内海は、常に座礁の危険と隣り合わせ。当時の外国船からは「Dark Sea(暗黒の海)」と恐れられていました。しかし、夜間に航海できるようにするには、たくさんの灯台を建てなければいけません。そこでブラントンは、航路の両側の入口にそれぞれ1基ずつ灯台を建て、その灯火で「今夜はこれ以上進まずに朝を待て」と伝えることにしました。こういう役割を「停泊信号」と呼ぶそうです。香川県側にある鍋島灯台は、愛媛県側の釣島灯台と一対で、停泊信号を船に送り、航海の安全を守ったのです。
お雇い外国人のうち運河や港の工事のために招かれたのは、オランダ人技術者たち。湿地を造成して国土をつくったオランダでは、内陸の舟運が盛んで、高い河川技術を持っていたからです。大久保利通による殖産興業政策の一環である野蒜(のびる)港や安積疏水(あさかそすい)を手掛けたファン・ドールン。大阪府の淀川港や福井県の三国港を設計したG.A.エッセル。デ・レーケは、この2人の助手として来日し、他のオランダ人たちが帰国した後も日本に残って工事を続けました。
私が好きなのは、徹底した現地調査に基づいて判断するデ・レーケのスタイル。とりわけ、合流してたびたび水害を起こしていた木曽川、揖斐(いび)川、長良川の「木曽三川(さんせん)」の改修工事は大きな功績です。あるときは川を小舟でめぐり、あるときはロープで山をよじ登って詳細な調査をし、改修計画をつくり上げたといいます。
開国し、1日も早く欧米に追い付こうと必死だった明治の日本に、お雇い外国人たちは近代的な技術の種を蒔いてくれたのです。
琵琶湖疏水をつくった田辺朔郎(さくろう)
明治維新から20年ほどたち、お雇い外国人たちが帰国していくのと交代して、欧米で技術を学んで帰国した留学生や日本で学んだ技術者が、自分たちの手でインフラづくりを担うようになりました。後に「鉄道の父」と呼ばれた井上勝、東京大学工学部の前身である帝国大学工科大学の初代学長や土木学会初代会長などを歴任した古市公威(こうい)、琵琶湖疏水をつくった田辺朔郎、北海道の小樽港の工事を指揮した廣井勇などです。
なかでも田辺が琵琶湖疏水の工事を任されたのは、まだ19歳の大学生のときだったというから驚きです。琵琶湖疏水は、琵琶湖の水を京都へ引くための約11kmに及ぶ水路。水車を回すための動力源と舟運路を確保するとともに、得られた水を灌漑や生活用水などに利用するために計画されました。背景には、明治維新後の遷都によって「千年の都」から「一地方都市」となった京都をなんとか蘇らせようという、京都府知事らの熱い思いがあったのです。
ただ、琵琶湖疏水のルートは、途中で長等山(ながらやま)の硬い岩盤を貫くトンネルを掘らなければいけないことから、前述のオランダ人技術者デ・レーケも反対したほどでした。実際に、工事が始まると、突然の出水や土砂崩れなどの事故に悩まされました。けれども、田辺自らが先頭に立ち、作業員と一丸となって工事を成し遂げたのです。
琵琶湖疏水は、当時まだ世界的にも珍しかった水力発電を取り入れたことでも画期的です。当初の計画では、水流を利用して水車を回し、製粉や精米などの工場をつくる予定でしたが、田辺は工事の最中にアメリカで世界初の水力発電設備が開発されたと聞くやいなや現地を視察。帰国後ただちに水車動力から水力発電に切り替えたといいます。琵琶湖疏水は1890年に完成し、翌年には送電を開始しました。水路の落差が大きい場所には、船をロープで引き上げる「インクライン(傾斜式鉄道)」を設け、その動力にも発電した電力を利用しました。
近代土木技術を身に着けたこうした日本人リーダーたちは、後輩の技術者たちの指導にも情熱を傾けました。例えば、廣井勇の教え子だった青山士(あきら)は大学卒業後、ただちに単身でアメリカへ渡り、パナマ運河の開削工事に参加し、重要な役割を担いました。青山の後輩の八田與一(よいち)も台湾へ渡り、ダムをつくり給水路と排水路を整備することで洪水・干ばつ・塩害に苦しむ農民を救いました。
2021年3月に復刻版が出版された「土木のこころ」には、田辺や廣井をはじめ、その後の時代に活躍した土木偉人たちの足跡が記されています。
古代の僧侶たちから戦国武将へ、開国後はお雇い外国人から日本人技術者たちへ連綿と受け継がれてきた「土木の心」。想像を絶する困難を乗り越えながら、命がけで日本の国土づくりにまい進してきた土木偉人たちの情熱と使命感に触れ、私の心も震えました。現代に生きる私たちが便利で安全安心に暮らせているのも、私欲なき土木偉人たちのおかげなんですね。ありがたや、ありがたや。
※記事の情報は2021年6月22日時点のものです。
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【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター
大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp
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