【連載】ドボたんが行く!
2021.02.16
三上美絵
空川・三田用水・神泉谷 -(本田創さんと行く暗渠さんぽ②)
遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!
東大キャンパスから湧き出していた空川
地下を流れる見えない川、暗渠(あんきょ)。私が"暗渠の神"として尊敬している本田創(ほんだ・そう)さんは、プロフィールなどで自らの肩書きを「暗渠者」としています。暗渠愛好家でも暗渠探検家でも暗渠研究家でもなく、暗渠者。もう、ご自身の存在自体が暗渠なのです。かっこよすぎる!
前回に続き、本田さんが講師を務めるNHKカルチャーのフィールドワーク(2020年7月に実施)の様子をレポートします。今回は、東京都の目黒区、渋谷区、世田谷区を巡ります。かつて東京・駒場から目黒川までを流れていた空川(そらかわ)と宇田川の支流、そしてこれらの自然河川の間の台地を通っていた三田用水の痕跡と暗渠を探検。およそ20人の参加者が京王井の頭線・駒場東大前駅に集合しました。
まずは、空川の痕跡をたどります。空川は、東京大学駒場地区キャンパス付近にある3箇所の湧水を水源とし、最終的には目黒川に合流する全長2km足らずの短い河川で、今はそのほとんどが暗渠になっています。
最初のポイント(地図のA地点)は、駒場東大前駅を出たところの通りの向かい側。柵の奥はもう東大キャンパスです。「通路の縁に沿って、清流が流れています。空川が今も地表に姿を現しているのは、この数十メートルだけです」という本田さんの説明に、柵の中をのぞき込む参加者の皆さん。が、残念なことに、背の高い雑草がワシャワシャと茂っていて、水の姿を目にすることはできませんでした。冬の期間なら、見えるのかもしれません。
谷筋に沿ってそこから数分歩くと、「ケルネル田圃」(B地点)に到着。ここは空川の谷の湿地を利用して水田にした「谷戸田(やとだ)」で、明治時代に政府が設立した駒場農学校の実習田として開墾されたもの。「ケルネル」の名は、教師としてドイツから招かれた、いわゆる"お雇い外国人"のオスカー・ケルネルに由来しています。
現在は駒場という地名のこの一帯は、江戸時代には「駒場野」と呼ばれ、将軍が鷹狩りをする鷹場でした。今、ケルネル田圃の場所は目黒区立駒場野公園になっていますが、溜池と水田は筑波大学附属駒場中学校・高等学校の教育水田として維持されているそうです。
ケルネル田圃を後にした一行は、空川の暗渠をたどります。駒場東大前駅付近では、暗渠の上が自転車置き場になっていました。本田さんによれば、この現象は「暗渠あるある」。暗渠の上は細長い形状の土地である場合が多く、使い道を見つけにくいけれども自転車置き場にはぴったり、というわけです。
空川の暗渠は、駒場東大前駅の東側で二手に分かれ、平行して流れています。「おそらく昔は谷底の2本の水路の間が水田になっていたのでしょう」(本田さん)。
しばらく進むと、空川の暗渠が淡島通り(滝坂道)の新遠江橋(しんとおとうみばし)をくぐる箇所に出ました。そこには庚申塔(こうしんとう)があり、祠(ほこら)の横に石柱が置いてあります。石の表面に、うっすらとひらがなで「とほとふみはし」と刻まれているのが読み取れました。「かつて空川に架かっていた遠江橋(とおとうみばし)の親柱です」(本田さん)。親柱とは、橋の高欄の両端に設置する太い柱のこと。橋がなくなっても、かつての存在をしのぶかのように大切に保管されていました。
目黒川と渋谷川の間の尾根を通っていた三田用水
空川の暗渠道から国道246号(玉川通り、大山街道)へ出て、ここからは三田用水の跡をたどります。1664年に開通した三田用水は、世田谷区北沢から南東へ進み、白金・芝方面まで続いていました。暗渠散歩①で紹介した品川用水と同様、玉川上水の分水の一つで、当初は飲料水を送る水路だったことから「三田上水」と呼ばれていました。
三田上水は1722年に廃止されましたが、この水を灌漑(かんがい)にも使っていた周辺の村々からの要望によって2年後に「三田用水」として復活。明治以降は工業用水としての比重が高くなり、通水量の2~3割を日本麦酒(現在のサッポロビール)の恵比寿工場がビール製造に使用していたといいます。
そういえば、「日本水道史」という資料に、大正時代に敷設された旧渋谷町水道も、当初の計画では三田用水を水源の1つとして検討していたと書いてありました。
明治後半から大正、昭和にかけて次第に一帯の宅地化が進み、水質の悪化が懸念されるようになると、日本麦酒は三田用水の暗渠化に乗り出します。「暗渠にして水質を維持したうえで1952年まではビールの原料水として、その後は1974年に用水が廃止されるまでビンの洗浄用水などとして利用していました」(本田さん)。
三田用水は西側の目黒川と東側の渋谷川、2つの低地に挟まれた台地の尾根を通っており、東西両方向へ合計17本の分水が引かれていたといいます。今回歩いた範囲には、西側に大坂口分水と駒場口分水、東側に神山口分水がありました。
駒場口分水跡の道を歩いていると、マンションの植え込みの一角に、石碑が立っていました(O地点)。これは石橋供養塔といい、案内板によれば「橋の工事で命を落とした人ではなく、石橋に感謝して建立したもの」。渋谷区の道玄坂から調布市で甲州街道に合流する古道「滝坂道」が三田用水を越えるところに石橋があったのでしょう。橋自体を供養するというのは、いかにも日本的な感じがします。
三田用水の水路敷の多くはすでに売却され、建物が建っています。山手通りの裏手に、道の中央に住宅が数軒並んでいる場所があり、家と家の間の細い路地を階段で越える不思議な箇所がありました(P地点)。「この付近の三田用水は高度を保つため土手の上を通されており、暗渠化後もその土手の中を通っていました。水が通らなくなった後も土手を撤去せず、その上に家を建てたので高くなっています」(本田さん)。
水路跡はやがて山手通りの歩道となり、東大キャンパスの裏手に出ます。ここにはなんと! コンクリート製の箱型の暗渠が露出していました(Q地点)。「このようにして水路の高さを維持していたのですね。この部分には堰(せき)があり、神山口分水を取水していました」(本田さん)。
神山口分水から神泉の谷へ潜入!
取水堰のところから、三田用水の東側に分岐する神山口分水へ。「明治半ば以降、こうした分水の用途は灌漑から動力へとシフトしていきました」(本田さん)。動力とはつまり、水車です。三田用水と2つの川の落差を利用して水車を回し、精米や製粉、後には製綿などの動力を賄っていたのです。当日配られた資料によると、最盛期の明治40年には49基の水車が設けられていたそうです。今では痕跡がありませんが、当時の地図を見ると神山口分水にも2つの水車があったことが分かります。
神山口分水の引かれていた松濤(しょうとう)は、江戸時代に紀州徳川家の下屋敷があった場所。明治になると旧佐賀藩主の鍋島公爵家が買い受け、「松濤園」という茶園になりました。当時は、武家屋敷の跡地活用と明治維新によって失業した武士たちの雇用対策として、茶や桑の栽培が奨励されていたのです。茶園としてスタートした松濤園はその後、果樹や小麦畑、水田などを営む「鍋島農場」となり、一部は農商務省に貸し出され、種畜牧場として使われました。
神山口分水が暗渠になったのは大正時代のこと。鍋島農場は徐々に宅地化され、高台の土地は1925年に富裕層向けの分譲地として売り出されました。今に続く松濤の高級住宅街の始まりです。「この分譲地の開発のために、鍋島家が私費を投じて分水の下流部を暗渠化したのです」(本田さん)。
松濤園の池の周りは、鍋島家によって庭園として整備された後に東京都へ寄付され、今は渋谷区立鍋島松濤公園となっています(R地点)。この池は江戸時代からあったもので、三方を囲まれた窪地の湧き水に神山口分水の水を加えて灌漑用に使われていたそうです。
鍋島松濤公園の池からの流れは、暗渠となって渋谷川の支流である宇田川の流れと合流します。その途中で、南側の神泉谷からの暗渠が合流しています。私たちが歩いた川跡は、京王井の頭線・神泉駅に突き当たりました。本田さんに教えられて構内をのぞくと、蓋をされた細い水路が線路を横切っているのが見えました。
駅を越えて少し歩いたところに、「神泉湯道」と刻まれた石碑がありました。ここは、江戸時代からの共同浴場「弘法湯」の跡。神泉谷支流の水源の1つが、この浴場の庭にあった泉だといいます。
弘法湯は、霊験あらたかな「淡島の灸」を求めて世田谷区代沢の森巌寺(しんがんじ)へお参りをした人たちが帰りに立ち寄り、大層な賑わいを見せていたようです。明治期になると、2階は料亭となり、別館「神泉館」も増築。さらに周辺に芸者置屋や料亭が次々と集まって、大正期には円山町の花街を形成しました。「関東大震災前の最盛期には400人ほどの芸妓がいたという記録が残っています」(本田さん)。現在のようにラブホテルが建ち並ぶようになったのは、1960年代以降のことでした。
弘法湯の跡地を見学した後は、周辺にわずかに遺る暗渠の痕跡を探しながら神泉駅へ戻り、解散となりました。
今回のフィールドワークで私が最も感心したのは、江戸の都市計画の素晴らしさです。空川では谷戸の地形をうまく活用して水田を開墾。尾根筋を通る三田用水からは魚の骨のように両側へ分水を設け、灌漑に使ったり、水車を回して動力源にしたり。神泉谷では湧水を生かした銭湯を中心に、寺参りの客を呼び込んで観光地化。地形を読み、水の流れを巧みに利用することで生活を豊かにしてきたのです。
一方で、江戸の人々は自然の怖さもよく知っていました。たとえ幅数メートルの川や水路でも、ひとたび大雨で増水すれば渡ることはかなわず、木橋なら押し流されてしまうこともある。だからこそ、石橋の親柱を大切に遺したり、供養塔を建てたりしたのでしょう。大地や水を上手に使いながら、謙虚に敬う――。そこに、今の土木事業にも通じる日本人の思想を垣間見た気がします。
※記事の情報は2021年2月16日時点のものです。
-
【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター
大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp
RANKINGよく読まれている記事
- 2
- 筋トレの効果を得るために筋肉痛は必須ではない|筋肉談議【後編】 ビーチバレーボール選手:坂口由里香
- 3
- 村雨辰剛|日本の本来の暮らしや文化を守りたい 村雨辰剛さん 庭師・タレント〈インタビュー〉
- 4
- インプットにおすすめ「二股カラーペン」 菅 未里
- 5
- 熊谷真実|浜松に移住して始まった、私の第三幕 熊谷真実さん 歌手・女優 〈インタビュー〉
RELATED ARTICLESこの記事の関連記事
NEW ARTICLESこのカテゴリの最新記事
- スペイン、韓国、チベットの文学――読書の秋、多様な世界の物語を味わう 翻訳家:金原瑞人
- 主人公の名前がタイトルの海外の名作――恋愛小説からファンタジーまで 翻訳家:金原瑞人