【連載】ドボたんが行く!
2022.09.20
三上美絵
京都から琵琶湖へ、琵琶湖疏水を船で遡る!〈前編〉
遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!今回は京都と琵琶湖をつなぐ「びわ湖疏水船」に乗船。前編と後編に分けて公開予定で、本記事は前編です。
70年ぶりに復活した琵琶湖疏水の舟運
琵琶湖疏水(びわこそすい)は、滋賀県の琵琶湖の水を京都市内へ引くために、明治時代に建設された水路です。京都では知らない人がいないほど、おなじみですね。疏水の水は水力発電やかんがい、工業用水、飲料水など、現在でもさまざまに使われていますが、完成当初の疏水は舟運(しゅううん)、つまり人や物資を船で運ぶ水上交通路としても重要な役割を担っていました。
けれども、明治半ばを過ぎると交通の主流は鉄道へ、やがて自動車へと移り変わり、1951(昭和26)年を最後に琵琶湖疏水からは船の姿が消えてしまいました。それから長い年月が過ぎ、最近になって舟運の観光資源としての価値が再評価されるようになり、関係者の努力によって2018(平成30)年春、約70年ぶりに「びわ湖疏水船」として本格的に復活したのです!
ドボク探検倶楽部としては、これはぜひ乗船してみたい。コロナ禍の外出自粛などを経て、ついに京都へ行ってきました!
琵琶湖疏水には1890年に完成した第1疏水と疏水分線、1920年に完成した第2疏水があります。第1疏水は全長約20km。滋賀県大津市で琵琶湖から取水し、山々をトンネルでくぐったり山裾を迂回(うかい)したりしながら京都市の蹴上(けあげ)に至り、京都御所の南東あたりで鴨川に合流しています。びわ湖疏水船は、このうちの大津から蹴上までの約7.8kmの区間を運航するものです。
運航月は3~6月と10~11月。乗船には予約が必要で、土日は1カ月以上前に埋まってしまう便もあるようなので、早めに押さえたほうがいいでしょう。私が乗船予定日の数日前にウェブ予約をしたときは「残り1席」となっており、ギリギリセーフでした。料金は大津~蹴上のフルコースが5,000~8,000円で、途中の山科で乗船・下船する便は2,000~4,500円です(時期や曜日によって異なるので、びわ湖疏水船のホームページを確認してください)。
明治維新後の京都の復興をかけた一大プロジェクト
琵琶湖の水を引くことは、長年にわたり京都の人たちの夢でした。疏水の構想で記録に残る最も古いものは江戸時代初期の1614年だそうですが、蹴上の説明看板によれば、その伝承は平清盛や豊臣秀吉の時代まで遡るといいます。この壮大な事業を実現に導いたのは、第3代京都府知事の北垣国道(きたがき・くにみち)。明治維新後に首都が東京へ移り、さびれてしまった京都を復興させる起爆剤として琵琶湖疏水の建設を打ち出したのです。
琵琶湖疏水は、明治以降の「近代土木」の歴史の中で、計画から設計・施工まですべて日本人の手によって行われた初めての大工事でした。それまで、大きな工事はいずれも"お雇い外国人"と呼ばれた外国人技師に頼っていたのです。主任技師に抜擢(ばってき)されたのは、当時、工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの土木技術者、田邉朔郎(たなべ・さくろう)。学生時代に「琵琶湖疏水工事の計画」をテーマにした卒業論文を書いていたことから、白羽の矢が立ちました。
琵琶湖と京都盆地の間には、比叡山や大文字山、東山などが連なっています。水はいったん低いところへ流れてしまえば、自力で再び上がることはできませんよね。だから、高低差を利用して水を遠くへ運ぶには、水路の傾斜をなるべく緩くして、高さを保つのがポイント。琵琶湖から蹴上までの流路を衛星写真で見ると、高い山を巧みに避け、山裾を迂回しながらルートが引かれていることがよく分かります。
とはいえ、山を避けきれないところはトンネルを掘らなければいけません。第1疏水には現在4つのトンネルがありますが、そのうち開通時に設けられたのは、第1トンネルから第3トンネルの3カ所。中でも最大の難関は、大津側の長等山(ながらやま)を抜ける約2,500mにも及ぶ第1トンネルでした。当時の日本では、最長となるトンネルです。技術的なハードルはかなり高く、田邉のこの計画は多くの人に無謀だと言われたようです。
そこで田邉が打ち出したのが、日本では前例のなかった「竪坑(たてこう、シャフト)工法」でした。山の両側からトンネルを掘っていくだけでなく、山の上から垂直に穴を掘り、人が中に入って穴の底から両側へ向けて同時に掘り進めていく方法です。こうすれば、工事期間をぐっと短くすることができるというわけ。現在も、この竪坑はそのまま遺っていて、山上にはレンガ造りの井筒(穴の周りの枠。人が出入りしたり、資材を搬入したりした入口)を見ることができます。
水路閣やインクライン、ねじりまんぽなど土木遺産満載の蹴上
びわ湖疏水船の乗下船場がある蹴上(けあげ)には、琵琶湖疏水関連の見どころ施設が集まっています。蹴上は第1疏水と疏水分線の分岐点であり、第1疏水とほぼ並行してトンネルで流れてきた第2疏水との合流点でもあるからです。
船に乗る前に、周囲を散歩しました。地下鉄の蹴上駅から三条通を右に50mほど行ったところに、レンガでできた歩行者専用の短いトンネルがあります。正式名称「蹴上トンネル」、通称「ねじりまんぽ」。「まんぽ」は坑道を意味する「まぶ」が訛(なま)ったものと言われていて、京都や滋賀の方言ではトンネルのことを指すそうです。
「ねじりまんぽ」の「ねじり」は、文字通り「ねじれている」こと。ねじりまんぽの中に入ると、その意味がすぐに分かりました。そう、トンネル内のレンガを積む向きがねじれているのです。ねじりまんぽの上部には第1疏水のインクライン(傾斜鉄道)の線路が通っており、その重みに耐えられるように、トンネルの向きではなく、線路の向きと直角になるようにレンガを積んであるんですね。
ねじりまんぽを通り抜けると、左右にインクラインの線路跡が見えます。左手は水のない坂になっていて、右手の先は蹴上船溜(ふなだまり)につながる水路へ。この場所は土地の高低差が激しく、水路の状態では、船が段差を乗り越えることはできません。そこで、陸上に線路を敷き、船をインクラインの台車に載せて上げ下ろししたわけです。
左手のインクラインの先は南禅寺船溜につながっていて、そこで船を台車から降ろして下流の水路を航行させていました。ちなみにインクラインは現在では使用できず、びわ湖疏水船もこの付近にある船着き場が発着・終着になっています。
船は陸上をインクラインで上下し、再び水路に戻る。では、その区間の水はどこへ行ったの?と、思いますよね。実は、琵琶湖方面からゆっくりと下ってきた第1疏水の水は、インクラインに沿って暗渠(あんきょ)となり、地下を通って南禅寺船溜に合流しています。
ねじりまんぽをくぐり、インクラインを横切ってまっすぐ進むと、南禅寺へ向かう小径が続いています。両側に並ぶ塔頭(たっちゅう)の塀の内からは、さらさらと水の流れる音が聞こえてとっても気持ちがいい。この付近の塔頭や別荘には疏水の水が引かれているところも多く、庭園に池を設えるだけでなく、防火用水としての機能も備えているのだとか。琵琶湖疏水は近代化の象徴である半面、木造建築の多い伝統的な京都の町並みを守る存在でもあるんですね。
インクラインの手前で分岐し、北上する第1疏水分線は、南禅寺境内を横切っています。京都の地形は北が高く南が低いので、分線はなるべく高度を下げないように進まなければなりません。そのために田邉朔郎が設計したのが、水路の橋である「南禅寺水路閣(なんぜんじすいろかく)」でした。高い橋の上に水路を通すことで、高度を保ったのです。
ただ、臨済宗南禅寺派の総本山である名刹(めいさつ)の境内を琵琶湖疏水の橋が突っ切ることについては、明治の建設当時には反対意見も多かったようです。しかし、当初に想定していたトンネルのルートでは、第90代天皇であった亀山法皇の分骨所のある山を掘ることになり、これも許されませんでした。田邉朔郎、大ピンチです。
トンネル案を絶たれた田邉が南禅寺境内に設計したのが、ローマ遺跡を思わせる西洋風の美しい橋でした。後年に田邉自身が著した『京都都市計画』の中の「琵琶湖疏水誌」には、水路閣について「煉瓦(れんが)と花崗岩(かこうがん)とで築造し、外見を美ならしめた」とあり、景観に配慮したことが記されています。おかげで、今では水路閣は観光名所となっています。
日本初の事業用水力発電所が誕生!
水路閣の上に登り、疏水分線に沿って遊歩道を蹴上方面へ戻ります。するとほどなく、赤茶色の古い水圧鉄管が2本並んで斜面を下っているのが見えました。蹴上発電所へ続く導水管です。水力発電は、水を高いところから落とすエネルギーでタービンを回して発電する仕組みですから、できるだけ落差があったほうがいい。そこで、土地に高低差のある蹴上に発電所が設けられました。
蹴上発電所が運転を開始した1891年当時、水力発電は世界最先端の技術で、まだ海のものとも山のものとも分かっていませんでした。もちろん、日本には前例がありません。琵琶湖疏水の計画も当初は水力発電ではなく水車動力、つまり水車を回して工場の動力とするものだったのです。
ところが琵琶湖疏水工事の半ば、アメリカで水力による発電事業が試行されていると聞いた田邉は、すぐに渡米。水力発電の将来性を見抜き、水車動力を発電事業へ変更することを決意しました。こうして日本初の事業用水力発電所として、蹴上発電所が誕生したのです。
その規模はなんと、アメリカの10倍以上にあたる2,000馬力にも及びました。水車動力を使う予定だったインクラインも電力で動かすことになり、また1895年には日本初の路面電車も京都に誕生することになりました。田邉朔郎のチャレンジ、すてきです。
前編では、琵琶湖疏水にまつわる遺構がたくさんある蹴上を紹介しました。後編(9月22日公開予定)はいよいよ、びわ湖疏水船の乗船レポートです! どうぞ、お楽しみに。
※記事の情報は2022年9月20日時点のものです。
後編に続く
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【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター
大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp
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