作家・太宰治が愛した三鷹のドボクを巡る

DEC 13, 2022

三上美絵 作家・太宰治が愛した三鷹のドボクを巡る

DEC 13, 2022

三上美絵 作家・太宰治が愛した三鷹のドボクを巡る 遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!

太宰が最期を迎えた玉川上水

「走れメロス」「人間失格」「斜陽」などの小説で知られる作家・太宰治。新婚だった1939(昭和14)年から亡くなる1948(昭和23)年まで、東京・三鷹に住んでいました。作品には、三鷹を舞台にしたものが数多く遺(のこ)されています。


太宰が愛人の山崎富栄(やまざき・とみえ)と入水自殺を図ったのも、三鷹駅の近くを流れる玉川上水でした。心中した2人のなきがらは、1週間近くたって約1km下流で見つかり、その様子は新聞に大きく取り上げられました。


玉川上水は、この連載「ドボたんが行く!」こと「ドボク探検倶楽部」にも何度か登場しています。多摩川の水を江戸城下へ運ぶため、1653(承応2)年に建設された水路で、長さは羽村取水堰(はむらしゅすいせき)から江戸城の四谷大木戸までの約43km。江戸の飲料水は主に、多摩川を水源とする玉川上水と、井の頭池の湧水などを水源とする神田上水でまかなわれていました。三鷹には、その両方の上水が流れていたのです。


東京都羽村市にある羽村取水堰。画面奥が多摩川の上流。堰(せき)によって水位を上げ、画面右の堰より上流側にある水門から玉川上水へ取水している東京都羽村市にある羽村取水堰。画面奥が多摩川の上流。堰(せき)によって水位を上げ、画面右の堰より上流側にある水門から玉川上水へ取水している


江戸時代に建設された玉川上水は、明治時代になって西新宿に淀橋浄水場が新設されてからも、多摩川の水をそこへ送るための導水路として使われていました。1965(昭和40)年に淀橋浄水場が廃止されるまで通算300年以上もの間、現役の上水施設としての役割を担っていたわけです。スゴイですね!


現在は、玉川上水に多摩川の水が流れているのは羽村から小平までの区間だけで、小平から高井戸までの区間には「清流復活事業」として下水再生水が流され、高井戸の先で神田川に放流されています。つまり、三鷹辺りの玉川上水を流れているのも、多摩川の水ではありません。


しかし、太宰が三鷹に住んでいた頃は、まだ多摩川の水でしたし、水量も今よりずっと多かったそうです。太宰の「乞食学生」という短編は、玉川上水が舞台となっており、次のような箇所があります。以下に引用します。


川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。

~中略~

「あぶないんだ。この川は。泳いじゃ、いけない。」私は、やはり同じ言葉を、けれども前よりはずっと低く、ほとんど呟くようにして言った。「人喰い川、と言われているのだ。それに、この川の水は、東京市の水道に使用されているんだ。清浄にして置かなくちゃ、いけない。」

――太宰治「乞食学生」より


「乞食学生」は少し幻想的な作品ですが、これは玉川上水で泳いでいた(主人公の「私」がそう思い込んでいる)少年をとがめるシーンです。当時は三鷹の地元では実際に「人喰い川」と呼ばれていたのかもしれません。


それにしても、太宰が「東京市の水道に使用されているから、汚してはいけない」と知りながら、実生活で自ら玉川上水へ身を投げてしまったのは、いったいなぜなのでしょう。身近にいつも眺めていた滔々(とうとう)と流れる水面が、死を想う心を惹き付けてしまったのでしょうか。真相は分かりません。


太宰が入水した位置には、故郷である青森県から取り寄せられた特産の玉鹿石(ぎょっかせき)製の碑が建てられています。そこから300mほど離れた三鷹駅の駅前には、太宰が亡くなった後に玉川上水に架けられた旧三鷹橋の親柱と高欄(欄干)が保存されていて、昭和時代の面影をしのばせています。


1957(昭和32)年、三鷹駅近くの玉川上水に架けられた「旧三鷹橋」の親柱と高欄。2005(平成17)年に現在の橋に架け替えられた時、その脇に保存された1957(昭和32)年、三鷹駅近くの玉川上水に架けられた「旧三鷹橋」の親柱と高欄。2005(平成17)年に現在の橋に架け替えられた時、その脇に保存された


今回紹介した三鷹駅周辺のスポット今回紹介した三鷹駅周辺のスポット
出典:国土地理院ウェブサイト「地理院地図」に加工(番号表記)して作成




「ぶるぶる煮えたぎる武蔵野の夕陽」が見える三鷹跨線人道橋

三鷹駅から線路沿いに西へ少し歩くと、鉄骨トラスの跨線橋(こせんきょう)が見えてきます。太宰のお気に入りの場所だったといわれる「三鷹跨線人道橋」です。この場所には、JRの電車庫への引き込み線や中央本線のたくさんの線路が東西に通っていて、まちが南北に分断されてしまうため、これらの線路を跨いで人が往来できるように歩道橋が架けられたのです。


完成したのは、太宰が三鷹に住み始める10年前の1929(昭和4)年。全長93mと、100m近い長さがありながら、幅約3m、高さは約5mしかなく、電車のすぐ頭の上に橋が架かっているように見えます。けれども当時は辺りに高い建物もなく、跨線橋の上からは広々とした武蔵野の風景が見渡せたのでしょう。太宰は、家を訪ねてきた編集者や友人をよくこの場所へ案内していたそうです。


太宰は「東京八景」という作品の中で「毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている」と表現しています。そして、この橋の上からも、晴れた日には美しい夕陽や富士山が見えます。


竣工からすでに93年経っている太宰ゆかりの跨線橋は、残念ながら老朽化により取り壊しが決定していますが、JR東日本と三鷹市は、一部を移設し保存すると発表しました。


鉄骨を逆ハの字に組んだ「プラットトラス」という種類のトラス橋。現在では、補強のためにハの字の斜材が追加されてX字になっている鉄骨を逆ハの字に組んだ「プラットトラス」という種類のトラス橋。現在では、補強のためにハの字の斜材が追加されてX字になっている


三鷹跨線人道橋のたもとに設置された案内板には、橋を渡る太宰の写真がプリントされている。ヒビで見えにくいものの、まだ補強の斜材が取り付けられておらず、トラスが逆ハの字になっているのが分かる三鷹跨線人道橋のたもとに設置された案内板には、橋を渡る太宰の写真がプリントされている。ヒビで見えにくいものの、まだ補強の斜材が取り付けられておらず、トラスが逆ハの字になっているのが分かる


トラスには、古いレールが再利用されている。塗装が何度も重ねられて見えづらくなっているが、「1911」という数字が読み取れる。おそらくレールの製造年を意味しているのだろう


トラスには、古いレールが再利用されている。塗装が何度も重ねられて見えづらくなっているが、「1911」という数字が読み取れる。おそらくレールの製造年を意味しているのだろうトラスには、古いレールが再利用されている。塗装が何度も重ねられて見えづらくなっているが、「1911」という数字が読み取れる。おそらくレールの製造年を意味しているのだろう


太宰のお気に入りだったという三鷹跨線人道橋の上からの眺め。画面奥が西方向。左側に電車庫がある太宰のお気に入りだったという三鷹跨線人道橋の上からの眺め。画面奥が西方向。左側に電車庫がある


三鷹跨線人道橋は2022年10月現在もまだ通行できているが、地震などの災害時には渡らないように注意する看板が取り付けられていた三鷹跨線人道橋は2022年10月現在もまだ通行できているが、地震などの災害時には渡らないように注意する看板が取り付けられていた




神田川の源流は井の頭公園にあり!

跨線人道橋から三鷹駅に戻り、玉川上水に沿って東へ歩くと、玉鹿石を越えて400〜500mで井の頭公園の裏に出ます。前述の「乞食学生」や「東京八景」のほか、「ヴィヨンの妻」など、太宰の作品には井の頭公園も度々登場します。


井の頭公園の中には、Yの字を横に寝かせたような形をした「井の頭池」があります。このYは、二股になった上部が西を、軸部分の下部が東を向いています。軸部の東端は、ひょうたんに似た形から「ひょうたん池」と呼ばれており、そこから流れ出ているのが現在の神田川、つまり江戸時代の「神田上水」です。


神田上水がいつ開設されたのか、はっきりとしたことは分かっていません。徳川家康が1590(天正18)年の江戸入府に先立ってつくらせたという説や、入府後の慶長年間(1596〜1615年)につくられたという説があります。いずれにしても、玉川上水よりも先につくられたことは間違いありません。


神田上水は途中で善福寺川(ぜんぷくじがわ)と妙正寺川(みょうしょうじがわ)を合流させて江戸へ飲料水を供給していましたが、いずれも湧水を水源としていることから、水量は安定しなかったようです。そこで、玉川上水ができてからは、今の西新宿の淀橋で水路をつなぎ、玉川上水から神田上水へ水を引き込み、江戸で必要な水量を確保していました。羽村から流れてきた玉川上水は、三鷹から先は神田上水とほぼ平行して流れていたのです。


神田上水だけでは江戸の飲料水をまかなえなかったとはいえ、当時の井の頭池は豊富な湧水で知られていました。池の周囲に7カ所の湧水点があり、「七井の池(なないのいけ)」と呼ばれるほどでした。池の西端には、現在では地下水をポンプで組み上げているものの、「お茶の水」と呼ばれる湧水井戸の跡が保存されています。鷹狩に来た家康が、よくこの水でお茶をいれていたというのが、名前の由来です。


保存されている井の頭池の「お茶の水」。水質がよく、お茶がおいしくいれられたとか保存されている井の頭池の「お茶の水」。水質がよく、お茶がおいしくいれられたとか


井の頭池に続くひょうたん池の端にある水門橋。ここから神田川が始まっている


井の頭池に続くひょうたん池の端にある水門橋。ここから神田川が始まっている


井の頭池に続くひょうたん池の端にある水門橋。ここから神田川が始まっている井の頭池に続くひょうたん池の端にある水門橋。ここから神田川が始まっている




玉川上水の「どんどん橋」と3代目北沢分水口

太宰の住んでいた井の頭公園の裏手から玉川上水沿いの緑道を下流へ向けて2〜3km進んだ所に、とても小さくてかわいらしいレンガの橋がひっそりと遺っています。以前から私が見たかった「どんどん橋」こと旧牟礼(むれ)橋です。どんどん橋という愛称は、かつて急流だった玉川上水の水が、どんどんと音を立てて流れていたからといわれています。


傍らに立つ石橋供養塔によれば、それまで架かっていた板橋を1757(宝暦7)年に石橋に架け替えたとあります。石橋供養塔というのは、工事で亡くなった人を悼むためのものではなく、橋が末永く流されずにもつようにと祈念するために建てられた碑。石橋は木造の板橋よりも丈夫で、洪水にも流されにくい半面、高価です。三鷹一帯を含む北多摩地区には、同じ頃に建てられた石橋供養塔がたくさんあることが知られており、地域の経済力が急速に高まったと考えられています。


その理由も、玉川上水と深い関係がありました。幕府が玉川上水とその分水によって新田開発を進めた結果、村々が豊かになり、木造の橋を石橋に架け替えることもできるようになったというわけです。


どんどん橋はその後、大正時代に現在のレンガ造の橋に架け替えられています。どんどん橋は古くからの街道である「人見街道(ひとみかいどう)」の橋であったため、景観に配慮されてこんなにかわいいデザインになったのかもしれません。現在では、すぐ横に新しい牟礼橋が建設されていますが、どんどん橋も「旧牟礼橋」として保存されました。


小さくも端正なつくりのどんどん橋(旧牟礼橋)。アーチの中央に、龍または亀のように見える図像のレリーフが付いている。レンガは、小口と長手を1段ごとに交互に並べたイギリス積み小さくも端正なつくりのどんどん橋(旧牟礼橋)。アーチの中央に、龍または亀のように見える図像のレリーフが付いている。レンガは、小口と長手を1段ごとに交互に並べたイギリス積み


どんどん橋を上から見た様子。今も下には玉川上水が流れており、橋を渡ることができるどんどん橋を上から見た様子。今も下には玉川上水が流れており、橋を渡ることができる


太宰治とは関係ありませんが、どんどん橋から下流方向へどんどん歩いていくと、500mほど行った所に、北沢用水への分水口があります。玉川上水からはかつて、前述の新田開発のために、33もの分水が引かれていました。北沢用水もそのひとつです。


北沢用水といえば、以前に「本田創さんと行く暗渠さんぽ③」で暗渠(あんきょ)をたどりました。この時、本田さんから「玉川上水からの北沢用水の取水口は3回変遷しており、2回目と3回目の取水口は位置が特定されているが、最初の取水口がどこにあったかは不明」と説明していただきました。京王井の頭線・久我山駅の近くにあるこの分水口は3回目、つまり最後の取水口です。北沢用水はここを起点として、上堀と下堀に分岐し、田畑を潤しながら上北沢方面へ向かっていました。


三鷹一帯の玉川上水には、牟礼分水や烏山(からすやま)分水の取水口もあります。全行程で5~6kmなので、駅から徒歩でも、また近くの方はサイクリングにもちょうどいい距離ではないでしょうか。ぜひ、緑豊かな三鷹の、太宰治ゆかりの玉川上水コース+アルファを楽しんでいただければ、と思います。


北沢用水へ玉川上水の水を分水するために設けられた堰の跡北沢用水へ玉川上水の水を分水するために設けられた堰の跡


生い茂る葉で見にくいが、「北澤分水」と彫られている生い茂る葉で見にくいが、「北澤分水」と彫られている


※記事の情報は2022年12月13日時点のものです。

  • プロフィール画像 三上美絵

    【PROFILE】

    三上美絵(みかみ・みえ)

    土木ライター
    大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
    著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
    建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp

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