小学6年生で留学した少年と、彼に真摯に向き合う両親の物語

教育

永吉一哉さん, 永吉綾さん〈インタビュー〉

小学6年生で留学した少年と、彼に真摯に向き合う両親の物語

2020年度から小学校の英語教育が強化されていることもあり、小学生世代の留学への関心が集まっています。そんななか、小学6年生の3学期に単身、ニュージーランドへ渡った少年がいます。理由はラグビーの「オールブラックスになりたい」という夢があるから。彼の夢をどうしたら実現できるのか、考え悩んできたご両親を取材しました。

5歳の決意。「ぼくオールブラックスになりたい」

「パパ、ぼくこの黒いチームでやりたい」


テレビでラグビーの試合を観ていた5歳の永吉天馬(ながよし・てんま)くんが唐突に、お父さんに言いました。ラグビーが好きなお父さんはうれしくなって尋ねました。


「天くん、このチームの名前知ってる?」


「知らない。でも一番強いもん」


「オールブラックスという、世界で一番強い、ニュージーランドっていう国の代表チームだよ」


「ぼくオールブラックスになりたい」


地元のラグビースクールでコーチをしていたお父さんに連れられて、2歳の時にグラウンドに立ったものの、いつも抱っこをせがむばかりだった天馬くん。結局、しばらくはラグビーから離れ、再開したのが5歳。それから徐々にラグビー好きになっていき、ほどなくして「この黒いチームでやりたい」宣言がありました。「その時初めて彼の本気を垣間見た」と両親は感じたそうです。


それから9年。14歳になった天馬くんは今、留学先のニュージーランドで学んでいます。大分県大分市で青果店を営むご両親の元で2人の弟とともに育った彼は、小学6年生の3学期に、ニュージーランドへ渡りました。「オールブラックスになる」という夢をかなえるためです。その夢の実現に、子どもと一緒に真摯に向き合った両親の一哉(かずや)さんと綾(あや)さん。小学校卒業前のタイミングで我が子を単身で留学に出すというのは、親としてかなり勇気がいることだったのではと想像します。ご両親はどのように考えて決断したのでしょうか。




父親はラグビー好き。でも英才教育をしたわけではなかった

父親はラグビー好き。でも英才教育をしたわけではなかった



スポーツに熱心な親に幼少期から指導を受けトップ選手に成長、という話は時おり見受けられますが、永吉家はそうではありませんでした。


父親の一哉さんは中学からラグビーを始め、文武両道で知られるラグビーの名門、大分舞鶴高校でプレー。出場はかなわなかったもののチームの一員として花園(高校ラグビーの全国大会)を3年連続で経験し、当時、最強とみられていた関東学院大学に指定校推薦で合格し、入学しました。


しかし、高校最後の時期にけがをしたこともあり、関東学院大学のラグビー部に入るのは断念します。「当時の関東学院大学のラグビー部には高校日本代表が10人近くいましたし、体育会ラグビー部は断念しました。代わりにラグビーは高校の先輩がいた明治大学のインカレサークルに入ってやってました」(一哉さん)。


大学卒業後は地元の大分に戻り、数年会社員を経験した後、亡くなった父親(天馬くんの祖父)の青果店を継いだ一哉さん。その後、高校ラグビー部の先輩に誘われて地元のラグビースクールのコーチに。まだ2歳の天馬くんは、グラウンドについて行ってもお父さんが自分と遊んでくれないので泣いてばかりだったそうです。結局、前述したように、しばらくはラグビーから離れ、再開したのは5歳でした。

日本のトップリーグ(現在はジャパンラグビー リーグワン)の選手の真似をする幼い天馬くん日本のトップリーグ(現在はジャパンラグビー リーグワン)の選手のまねをする幼い天馬くん


駆け足が速かった天馬くんは、5歳の頃にラグビーの楽しさに徐々に目覚めていきます。国内外のラグビーの試合を多くテレビで観るようになり「この黒いチームでやりたい」という「目標」を持った天馬くん。父親の一哉さんは、天馬くんにラグビーを決して押しつけることなく、やりたくないなら無理強いせず、本人がやりたい気持ちになるのを辛抱強く待っていたそうです。



否定しない。道はつくってもレールは敷かない

今、インターネットで情報のやりとりがたやすくなり、いわゆる留学エージェントなどが提供するサービスの多様化もあって、小中学生の若い年代の留学は珍しいことではなくなっているようです。ただし休みを利用した短期留学はともかく、天馬くんのような単身での長期留学はまだ少数派。特殊な進路ゆえ、何より保護者に勇気が必要ではないでしょうか。その点について、永吉さんに疑問をぶつけてみました。


――天馬くんの夢のスケールの大きさには驚きますが、お2人も両親として、あまり例のないことにチャレンジをされているわけです。親として、どうしてそういう道を選ばれたのでしょうか。


綾:私も昔はある球技をしていたんです。小学校の時からその競技をしなさいと親に言われて。中学ではソフトボール部に入りたかったのですが、その競技の強化担当の先生がたまたま通っている学校に転勤してきて。それで教室に呼びに来て、「お前はうちの部に入れ」みたいな感じで言われて渋々入りました。高校でも本当はやめたかったんですけど、特待生でその競技をしないと高校へ行かせないよみたいに言われて。本当にもうその道しか選択肢がない人生。その球技そのものも嫌いになってしまいました。ただ、私はヤンチャだったため、両親が行った選択は間違いではなかったとも思います(笑)。

永吉綾(ながよし ・あや)



――お母さんの、ラグビーに対するイメージはどのようなものでしたか。


綾:一哉さんの、ラグビーが好きだ好きだっていう姿を見て、子どもにもやってほしいなって思いました。ラグビーのグラウンドに行くと、結構な年齢のおじちゃんもラグビーやってて。そういうふうに長くスポーツを好きでいてほしいなって思っていました。


天馬がラグビーでそれなりに上達してくると、父親が大分舞鶴高校出身なので、小学生の時から周囲に「いずれは舞鶴だね」なんて言われるようになりました。そのときに一哉さんに自分の体験を話して「天馬の道はつくってもレールは敷かないで」と言ったんです。




口に出さないと夢はかなわないとも思う

――ニュージーランドに行きたいという天馬くんに対して、例えば「日本の高校に行ってからでもラグビーのトップ選手は目指せるよ」などとレールを敷いてはいけない、ということなのですね。一哉さんは、いかがですか。


一哉:5歳の時に突然「オールブラックスになりたい」と言ってきて。それならオールブラックスになれる方法を探すべきだ、というのが僕の考え方なんです。やれるチャンスがあるんだったらやってみればいいじゃんって。僕にはもうそんなチャンスはないかもしれないけど、彼にはまだ未来がある。夢をつかめるまで頑張ってみたらいい。


早稲田だ明治だと先輩たちにもいろいろ言われたけど、彼の夢がオールブラックスなのだったら、もうそれに邁進(まいしん)していくしかない。彼が大人になって振り返った時に、あの時にこうしてくれたらよかったって言われるぐらいだったら挑戦させたい、ということでしかなかったです。

彼が楽しく今過ごしているんだったら、僕に後悔はないんですよ。逆に彼がすごく嫌な思いをしていて行かなきゃよかったなと思っているとしたら、僕は後悔すると思うんですけど。あとはもう努力するのは本人だから、親として男として、できるアドバイスがあればするし、話を聞く必要があれば聞きます。


否定しない。道はつくってもレールは敷かない


――なかなかできることではないですね。


一哉:この店に買い物に来る子どもたちにも、「楽しくておっきな夢を持ちなさいよ。その夢は絶対かなうから」ってよく言うんです。「でもかなえるためには努力しなきゃいけないよ」とも言います。


そして、思っているだけじゃだめで、口に出さないと夢はかなわないとも思います。あえて口に出して言えば、責任が出てきます。天馬には、言わせた部分もあるかもしれないですけどね(笑)。


――親と一緒ならともかくたった1人というのは勇気がいりますね。


一哉:世間からは変わっていると見られているかもしれませんが、これからの世の中、グローバルだなんだと言うんだったら、そういう人間がいないと世界に通用する人材はなかなか出てこないと思うので。家族で行くのも大切かもしれないけど、やっぱりいつかは1人になるんだったら、最初から1人で行くことに意味があるんじゃないかなと思うんです。


――しかし夢のない話になってしまいますが、留学費用、ばかになりませんよね。


一哉:年間数百万円はかかります。でも子どもたちが「留学に行きたい」と言うのに対して、「行かなくていいよ」と言う選択肢は僕にはない。ただし、行きたいって男が言うんだったら、最後までやり通せっていう感じなんです。その代わりに、俺も死にもの狂いで仕事するから、お前らも結果出せよと。そこがやっぱり男と男の駆け引きですよね。




なぜ小学6年生の3学期途中から留学なのか

天馬くんが小学校卒業前にニュージーランドに渡ったのは、実はラグビーの国際的なルール改定が関係しています。


ラグビーでは、国の代表選手について「所属協会主義」がとられています。国籍を持っていなくても、その国で生まれたり、一定期間居住していたり、祖父母または両親が当該国出身者であれば、その国の代表選手となれます。このうち「居住期間」のルールについて、ワールドラグビー(ラグビーの国際統括団体)は2017年に改定を発表しました。代表入りの条件を満たす居住期間がそれまでの3年間から5年間と長くなるのです。天馬くんが高校卒業後に若年層のオールブラックスを目指すには、高校入学時に留学したのでは間に合わないことになります。


――日本で中学まで終えたところでの留学、では遅いのですね。


一哉:そうすると、向こうのハイスクールに編入して卒業してもまだ3年間なので、卒業後さらに2年間はニュージーランドにいなければいけない。そこで、何かの理由で日本に帰ってこないといけなくなったら、居住実績が途切れてしまいます。


例えばの話、もしご縁があって日本のリーグワンの選手になったりしたら、当面は再びニュージーランドに渡って長期滞在することができなくなる。そう考えた結果です。そして、向こうの学年の始まりが2月なので、天馬の出発は小学6年の3学期が始まって間もなくの、1月末になったわけです。


なぜ小学6年生の3学期途中から留学なのか




一緒になって想像して、ワイワイ盛り上がって

――改めて聞きたいのは天馬くんのことです。小学生だった天馬くんが高いモチベーションを持って、親でなく自分がリードして留学先の国や入りたい学校も決めていった。どうして天馬くんはそのように育ったのでしょうか?


綾:答えになるか分からないのですが、天くんが5歳の時に「オールブラックスになりたい」って口にした時、「なれるよ!」ってすべて肯定していました。いいよいいよ、その考え方いいよって。否定も批判も、マイナスなことは言いませんでした。「その考えを持てるのはすごいね」とか「私もやったことないけん、やってみて教えてよ」みたいな感じでした。一緒になって想像して、ワイワイ盛り上がって。


危ないことはないかとか、もちろんお金のことも考えてますけど、いくら考えたって自分はやったことないから分からないし。だから天くんと一緒に学びながら自分も成長しているというか、答えが分からないので否定することもできないのです。

周囲には「どうして認めたの?」「どうして留学させる勇気があったの?」って聞かれますが、自分がやってもいないことを危ないかもとか、先回りして言っていないだけなんです。私はそれ、やったことないし、私はチャレンジできないけど、あなたがチャレンジできるんやったらちょっと行ってみてよ、みたいな感じですよね。ただそれだけ。


ただし、人としてあいさつするとか、時間を守るとか、もちろん海外で人の家にお世話になるのだからお手伝いができるようにっていうのだけは約束してもらいました。


――「いくら考えたって自分はやったことないから分からない」というのは、確かにそうですね(笑)。


綾:でもね、そうは言っても勇気がいるんですよ、やっぱり。お腹の中から一所懸命育ててきた子を手放すってなると。私は結構平気かなと思ったけどそうじゃなかったので、ちゃんとしたお母さんだったら(笑)、もっとキツイだろうなって思うんですね。だから、お母さんたちの背中を押せるようになりたいなっていうのが今の夢です。後に続くお母さんたちのために。




「愛してないんですか」周囲の反応に落ち込んだことも

――お父さんはどう思われますか。天馬くんの自由な発想というか行動については。


一哉:僕は五分と五分というか。お互い同じ人としての付き合いをしたい。僕は会ったことないのですが、母方のおじいちゃんがそういう人だったらしいんですよ。威厳がすごくあってものすごく頭のいい人だったらしくて。子どもでも人格があるから、必ず「くん」「さん」「ちゃん」で呼ぶ。だから僕も母方のおばあちゃんからはずっと「一哉くん」って呼ばれてたんです。


――おばあちゃんなら「一哉」と呼び捨てが普通ですね。


一哉:子どもだろうが何だろうが、僕と対等だと思うから。子どもたちに対してあなたの意見は何ですかって常に聞くようにしているんです。たぶんおじいちゃんだったら聞いていただろうと。それでその答えが、僕の意見と違うのであれば、僕はこう思うというのをぶつけるし、じゃあお前だって言えばいいじゃんと言う。常にそういう言い合いになるんですよ。


言い合いになると、子どもはそんなに語彙(ごい)がないから、どうしても僕が一方的に言うことのほうが多いんですけど。でも言ってほしい。言わなきゃ分からないじゃんっていうのは常に話しています。


綾:だから弟たちも天くんのことを、お兄ちゃんとか言いません。名前で呼んでいます。


綾さんの著書「青いキウイ」の中では、天馬くんが地元のラグビースクールを移籍する話などが出てきます



――綾さんの著書「青いキウイ」の中では、天馬くんが地元のラグビースクールを移籍する話などが出てきますね。一部の大人たちから、オールブラックスという夢を否定されてしまったとか。やはり周囲の人の反応のなかには、つらいものがあったわけですか。


一哉:小学生の時、天馬がお調子者なので、オールブラックスになるんだといったことをあちこちで言うわけです。最初は、すごく笑われましたよ。バカなんじゃないのって言う人もいて。もちろん、すごく応援してくれる先輩たちも多くいますけど。


綾:「小学校から海外留学に出すっていうのは虐待(ぎゃくたい)に近いよね」とか、本当に本気で言われてたんですよ。いきなり同じ学年でもないお母さんから「行かせるんでしょ、何も思わないんですか」って聞かれたり、「子どもが助けてと言ったらどうするんですか」とか「何も考えてないよね」って言われたこともありますし(笑)。だいぶ落ち込みました。正直、留学させたのは間違いだったのか、と思うこともありました。「子どもを愛してないんだね」とまで言われましたから。


私がそういうことを言うお母さんに返すのは「母親の私が信じてあげんと誰が信じるよ」ということです。もし何かあったら、母親だから、英語しゃべれなくても何もできなくてもきっと助けに行くから。自分を信じきれんとやっぱり子どもも信じきれんし、きっと苦しくなったら母親に連絡があるだろうから、それだけどかっと構えとかないと。


「子どもを崖から落とせるのは、ライオンか永吉家くらいやわ」っていうのも言われました。それはなんか、うれしかったですね(笑)。




一番は勉強。ラグビーはその次でいい

――留学に関するエージェントをどう選んだのか、ということもお聞きしたいのですが。そのエージェントは、ラグビー選手の留学に関して経験が豊富だとか?


一哉:ラグビー留学とかではなく、普通に学業のための留学を扱うエージェントです。今までラグビーをプレーしながらという子はいたらしいんですけど、天馬みたいに、そのトップを目指すような子は受け入れたことがないと言っていました。


ニュージーランドは、ラグビー関係での留学を主に受け入れているエージェントが幾つかあるんですよ。そういうところに世話になったらどうかとも言われたんですけど、僕としては一番はまず勉強なんです。ラグビーは、その次であってほしい。なぜかというと、ラグビーでしかキャリアを積めていなくて苦労した人間を僕も何人か見てきてますので。だから勉強はできないといけないと思いました。


――英語が身につくだけではダメなんですね。


一哉:英語はできるけどあとはラグビーしかできない、ではできる仕事が限られます。大学までしっかり勉強して、大学を卒業できるくらいの学力がついていたら、アスリートのその先のセカンドキャリアも充実したものになるというのは常に思っていたので。日本の場合、スポーツでトップにいけたら勉強はいいよねっていう文化が根強いですよね。でも僕はそれはちょっと違うと考えています。一番は勉強でないと。


天馬くんが渡航した直後、世界はコロナ禍に。家族が会いに行くことも、本人が正月に帰省することもできなくなってはや2年半が経ちます。しかし本人はホームシックにかかることもなく、日々を楽しんでいる様子です。最近では、三者面談で先生から「もう留学生の教室には来なくていい」と言われるくらい、英語は上達、ラグビーの活動も順調のようです。今、永吉家では、次男もニュージーランド留学の準備中で、三男も留学を希望しているそうです。既成概念に捕らわれない新しい子育てを実践する永吉家。こうした道を選ぶ家庭は、今後ますます増えていくかもしれません。


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永吉天馬くんインタビュー

クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールでプレーする天馬くん(中央でボールを持つ)クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールでプレーする天馬くん(中央でボールを持つ)


永吉天馬くんは2021年2月、念願のクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールに入学しています。以下は、2021年12月にZoomを通じて行われた、天馬くんへのインタビューからの抜粋です。

――勉強は順調にいってますか


理科が難しいんです。社会も難しくて。でもそれ以外はほとんどできます。社会と理科は、他の教科と違って覚えないといけない単語がすごく多いので。


――今はボーイズ・ハイの1年目が終わるところですか。


はい、1週間で終わるところです。その後6週間の休みがあり、本当は日本に帰省する予定だったんですけど、(新型コロナウイルス禍のために)日本に入国できないのでこちらにいます。


――天馬くんは5歳の時にオールブラックスの選手になりたいって言い始めました。その時の記憶はありますか。


「レゴ」が床にいっぱい散らばっている中で、オールブラックスの革製のボールを持って、テレビで南アフリカ戦を観ていたことを覚えてます。


――オールブラックスのどこに惹かれたのですか。


ディフェンスは統一されているし、バックスも行くところは行って、フォワードを当てたりするところはフォワード当てて、個人のスキルもレベルが高いし。


――5歳の時にそんなふうに見てたのですか。


いえ、5歳の時は、ただもう最強だからっていう感じですね。




小学5年生くらいの時に、本当に行くんだなって

――天馬くんがニュージーランドに移住してラグビーをやりたいって本当に決意したのって、いつですか。


5歳の時はただ単に「ニュージーランドへ行きたい」って言ってただけですね。小学5年生くらいの時に、どうなるんだろうなって考えて、その夏休みに初めてニュージーランドに短期留学に行くっていう予定が決まってから、あ、本当に行くんだなって。


理由はダン・カーターがいたからですかね。ぼくが通っているクライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールの卒業生なので。あと「サニックスワールドラグビーユース交流大会」が毎年福岡の宗像市で開催されているんですけど、その大会にボーイズ・ハイが出場した時に試合を観に行って、カッコいいって思って。


――留学して最初の頃は、日本の友達と連絡を取らないようにってお母さんから言われていたそうですが、今はたまに友達と連絡を取り合ったりしているんですか。


しているんですけど、今わりと忙しくなってしまって、最近ジムにも行ったりしてますし。去年だいぶ体重を落としてしまったので、体づくりにも力を入れています。


――そこまでラグビーに打ち込めるっていうのは、すごいですね。


福岡のクラブチームで一緒だった日本の友達は毎日ラグビーの練習をしているので、それに負けないようにやっている感じです。


――去年体重が落ちたというのは、トレーニングを頑張り過ぎたせいですか。


いえ、こっちの人は食べる量が少ないんですよ。ホストファミリーが出してくれる食事の量は、普通よりは多いくらい。でもニュージーランド全体が少ないように思います。だから2年目からは、朝ごはんを炊いて、お腹が減ったらその時に味噌汁とふりかけをかけて食べたりしています。去年49kgくらいだったんですけど、今55kgくらいまで増えました。




体格の小さい自分にとっての目標

――今現在も、目標はオールブラックスでしょうか。


そうですね。でも一番近い目標っていうと来年の学年のAチーム入りです。今年Aチームに1試合出たんですが、ディフェンスと体の大きさの問題でBチームに落とされたんですよね。タックルには行けるんだけど、体格の差で弾かれるんですよ。それで体をつくり始めたんですけど。


そして、この先5年くらいの目標は、クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールの一軍(ファースト・フィフティーン)に入ること。そしてその後は、スーパーラグビーのチームに入ること。最終的に、オールブラックスに選ばれるっていうのが理想です。


――小さい頃はダン・カーター選手が一番のアイドルだったようですが、今現在も変わっていませんか。


やっぱダン・カーター、ソニー・ビル・ウィリアムズ、最近はダミアン・マッケンジーもいいなと思ってます。体の大きさ、僕と同じくらいなんですよ。でもあれだけ活躍できている。ニュージーランドではぼくの体格は小さいので、すごくいい目標です。


――ニュージーランドの子はあまり自主練習をしないと聞きましたが。


全然です。今日暇があったので自主練に誘ったんですけど、「寝るからイヤだ」と断られました。それくらい自主練しないですね。もうチーム練習だけで十分みたいな。それなのに、遊びでパスとかしたりすると、なぜかうまい。


――日本だとどうしても練習の量が結果に結び付くっていう考え方ですからね。


人間の集中力って45分ぐらいじゃないですか。なのでこっちは1時間できっちり終わって1分で帰るみたいな感じです。




練習が始まったらみんなの目の色が変わる

――練習が始まってからの集中力は、日本と違うと感じますか。

練習が始まったらみんなの目の色が違いますね。でも練習が終わったら、もう遊びに行こうみたいな感じで緩みますね。


――例えば練習が3時からとすると、ウォームアップやストレッチはそこに含まれるのですか。それともその前に個人の責任で行っておくのでしょうか。

練習が3時からなら、みんな3時ちょうどに集まる。たまに遅れる人はいる。それでウォームアップとかストレッチとかはなくて、その代わりに5分間タッチラグビーをして、次はもうコンタクトの練習に入っていく感じです。


――いろいろと日本と違うところが天馬くんに合っていると感じますか。

そうですね。練習時間をとっても、そこまで長くやるのは好きじゃないので。こっちのやり方のほうが合ってると思います。自主的にキックなどの個人練習はしてますけど、それも30分くらいですから。


――日本で中学生だと12人制のラグビーをするわけですが、今そっちでは15人制でやってるんですよね。ポジションはどこですか。

スクラムハーフとスタンドオフとフルバックです。フルバックはやれる人がいなければ入る程度です。


――9番(スクラムハーフ)と10番(スタンドオフ)ではだいぶプレー内容も違うと思うのですが?

9番の気持ちが分かる10番って、めっちゃやりやすくないっすか?

[「青いキウイ」の原稿から抜粋・再構成しています]



■取材協力
クォリティニュージーランド
ニュージーランド・日本のメディア出演なども多い晝間尚子(ひるま・なおこ)さんと、元東京理科大学で助教だったというユニークな経歴をもつ晝間裕二(ひるま・ゆうじ)さんご夫妻が運営する留学エージェント。留学生・保護者に対するきめの細かいサポートで知られる。

公式サイト
https://www.qualnz.com/



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「青いキウイ」
「パパ、ぼくこの黒いチームで試合したい」と言ったのが5歳のときだった。そしてあなたは、小学6年でニュージーランドに渡った──。
天馬くんの母親である、永吉綾さんが執筆した永吉家の物語。今年の秋、紙版・電子書籍の両方で発売予定。

詳しくはこちらまで。
https://withrugby.net/publishing/aoi-kiwi/



※記事の情報は2022年9月13日時点のものです。

  • プロフィール画像 永吉一哉さん, 永吉綾さん〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    永吉一哉(ながよし・ かずや)
    永吉綾(ながよし ・あや)

    大分県大分市で夫婦で八百屋永吉を営む。一哉さんは、大分市青果商業協同組合専務理事で青年部部長。お子さんは長男の天馬くんのほかに、次男・龍馬(りゅうま)くん、三男・凰馬(おうま)くん。

    Instagram
    https://www.instagram.com/yaoyanagayoshi/

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