スポーツ
2019.08.09
荒木香織さん 園田学園女子大学教授〈インタビュー〉
メンタルは技術。理論と研究に基づいたトレーニングで鍛えられる
ラグビー日本代表のメンタルコーチを務め、2015年W杯での日本代表の躍進を支えた荒木香織園田学園女子大学教授。〈後編〉では、スポーツ心理学に基づくメンタルトレーニングの実例について、荒木教授にお話をうかがいます。
自分がコントロールできることだけを考え、準備する
メンタルコーチの仕事は、選手が自分で不安を取り除いたり、不安をコントロールできる「ツール」を教えてあげることだと荒木教授は言う。「ツール」とは、パフォーマンス・ルーティン、緊張や興奮の把握、適切な目標設定、注意集中する力など多岐にわたる。それぞれの「ツール」の内容は著書「ラグビー日本代表を変えた『心の鍛え方』」に詳しいが、同書のなかで繰り返し述べられているのが「自分がコントロールできることだけを考える」ということだ。
―― 屈強なラグビー選手も、試合前は大変な恐怖を感じているというくだりを読んで、少なからず驚きました。
タックルされるのが怖いのだけれど、どうしたら良いですかとよく言っていました。
―― ミスや負けが怖いという以前に、タックルされるのが怖いのですね。我々からみれば鉄人そのものの選手でさえ。
フォワードの選手はほとんどそうです。誰でもボールを持てばほぼタックルされます。ボールを放すかまたはトライでもしない限り、必ずタックルされるわけです。そこで大事なことは、ボールを持ったときに、自分ができることを考えることです。タックルをされたらどうしようと怖がるのではなく、ボディポジション、ボールキャリーのしかたや味方選手との連携など、自分でコントロールできることに注意を向け、それを理解して練習をしていればミスにもつながらない。
こうした準備が的確であれば、遂行したいことは必ずできるはずなのです。コントロールできないこと、たとえば「相手がデカイ」とか「南アフリカは優勝経験もある」と思ったところで、どうしようもない。タックルされたらどうしようと考えてもされないかもしれない。
コントロールできることは何かをすべて想定して理解する。着実に練習を重ねる。本番で練習を重ねたスキルを発揮する。その三つくらいのステップで思考を整理しておけば、体現できるはずなのです。試合だ! がんばらなければ! 気合だ! と言っているだけだと、何の準備にもなっていないので、そのままぶつかったらケガをします。正しく身体を使ってみんなが着実に動いていないと、うまくいくことも少なくなってきます。
五郎丸選手のコンバージョンキックもそうです。止まっているボールをゴールポストの間に向かって蹴るわけですが、勝っていても負けていても、自分がトライした直後で息があがっていても、ブーイングがあっても、雨が降っていても、距離や角度があっても、そういうことは自分ではコントロールできないのです。五郎丸選手ができることは、ボールを蹴る前の準備です。それを確実にする。そのための準備に時間をうまく使うのです。
五郎丸選手と作ったプレ・パフォーマンス・ルーティン
W杯で五郎丸歩選手がキックを蹴る前に必ず行っていた独特の動きは、五郎丸選手と荒木教授が協力して作ったもの。祈りを連想させる姿勢が誤解も生んだが、あれはゲン担ぎや自己暗示ではない。さらには精神統一でもない。一連の動作は、プレ・パフォーマンス・ルーティンと呼ばれる、自分をコントロールするための「ツール」のひとつだ。決まった動き(ルーティン)をすることで身体に自動的にプレーの準備をさせたり、天候や歓声など外的な障害、不安などの内的な障害を排除するといった様々な効果が、スポーツ心理学の研究で実証されている。
―― 五郎丸選手はルーティンのときにどんなことを考えていたのでしょうか。
ゲン担ぎをしているのでも念じているわけでもなく、ゴールに「集中」しているわけでもありません。プレ・パフォーマンス・ルーティンをしているとき選手は「プレ・パフォーマンス・ルーティンを確実に行うこと」だけに注意を向けています。一つひとつの動きを確認していって、確認できたらじゃあ動きましょう。ということになるのです。
――コントロールできることを確実にすることで、様々な障害を排除する、コントロールできないことについては考えないということですね。
たとえば上司に怒られてそれをストレスに感じているとします。しかし上司が代わらないとしたら、自分の受け止め方を変えるしかない。ストレスだと受け止めずに「こんなに励ましてもらっているんだ」と受け止め方を変化させる。
―― 著書に「南アフリカの選手が大きい」などということをストレスにしてしまうのではなく「挑戦」と受け止めればいいと書かれています。
環境からの情報がストレスになると決まっているわけではなく、ストレスになるかどうかは自分が決めてしまうのです。そのことは「レジリエンス」という言葉を使ってみんなに伝えてきました。いくら悩んでも相手は小さくなったり細くなったりしませんから、過剰に反応するのではなく、これを挑戦と受け止めて、うまくプロセスを経ていく力を身につければ、ストレスをストレスと感じなくなる。単なる出来事として捉えて、ふーんなるほどね、じゃあ私はこれをしようと考えればいい。
締め切りが来るどうしよう、まだだから、締め切りは。負けたらどうしよう、いやまだ負けてないから。大切なのはいま何をすればいいか。それを理解して確実に取り組んでいけば結果は伴ってくるはずです。
著書「心の鍛え方」では、目標達成のためのメンタルスキルについても語られている。そこでは「目標はより高く」「精一杯がんばる」「初志貫徹」といった従来の日本でよく使われてきた考え方にも異が唱えられている。
―― 目標達成についての章も印象的でした。
スポーツ心理学では、「少しがんばれば達成できる」目標を設定するのがいちばんいいとされています。よく20年後、30年後の夢を書きましょうというけれど、そんな先のことを言われても想像もつかないでしょう。でも2週間ぐらいとか、今月ぐらいだったら想像できる。それぐらいを考えながら過ごしていけば、目標達成につながっていきます。
ただ継続は大切ですが、それが良い形であることが大切です。ゼロからしばらくの間は反復練習でいいのですが、ある程度スキルが身についたら試行錯誤です。工夫のない継続では「継続は力なり」にはつながりません。「これができれば夢に近づける」と思って取り組んでいても、実は近づいていないプロセスが、いっぱいあります。うまくいってないと思ったら「この目標はやめておこう」と修正するメンタル力を養っていく。
あなたは誰なのか。自分を知る作業をしてほしい
4シーズンのラグビー日本代表での仕事を終えた後も、大学で研究と教育の仕事の傍ら、ラグビートップリーグのチームをはじめ、陸上競技、セーリング、柔道、バレーボールなど、日本代表クラスの選手を有するチームのメンタルコーチを務める荒木教授。日本のスポーツ選手に共通する課題はあるのだろうか。
――さまざまな競技の選手と接して、日本の選手はここが弱いな、と感じることはありますか。
自分自身を知ることができていない選手が多いと思います。日本では教育の過程で、あまり「自分」に焦点が当たることがないからでしょうか。他人との協力や協調性、団結力は鍛えられるけれど、あなたは誰ですか、あなたの好きなことは何ですか、ということがないがしろになっている気がします。アスリートが「自分を知る」ことができれば、この部分があまり強くないからここを強化しようとか、ここを助けてもらおうとか、誰と過ごそう、これを食べようなど、具体的に対処できるようになります。
五郎丸選手も、あのプレ・パフォーマンス・ルーティンをつくる過程で、「大切な身体の部分ってどこだと思う」と訊いたら、「えーどこだろう?」なんて考えて「このあたりかなあ」となって、フィジカルトレーナーさんに訊いたらそれは股関節周り、腸腰筋などのコンディションだとわかりました。その筋肉のことを、五郎丸選手はそれまでまったく考えたこともないと言っていました。そのままだと、調子が悪くてもそれこそ「集中力の問題」になっていたかも知れません。これがわかってからは、そこを良いコンディションにしていくため、トレーナーさんやエディさんと話して、五郎丸選手は月曜日だけ練習を軽減してもらうようにもしました。本人は性格的にそういう特別なのを嫌がったけれど、キックが入らないと勝てませんので。
―― 自分を知る、というのはアスリート以外の人たちにとっても同じく大切ですね。
そうですね。いまでも学校などで、子どもたちに「夢」は訊くけれど「いま」のことをあまり訊かない。将来何になりたいですかということの前に、いま現在どういうことが得意か、まずそれが大切だと思います。
現代は「職業」という肩書きの時代じゃない。先生になりたいとかカメラマンになりたいとかではなく、このスキルであれもこれもできるという時代です。大人は「将来何になりたいのか」を訊くけれど、そうじゃなくて、どんなことが好きで、その好きなことをどんなことに生かしたいかを、小さいときから訊いてあげてほしい。
そして、褒められたらうれしいのか、ちょっと叱られたほうががんばれるのか、どんな環境だったら自分を生かしやすいのか、どんな人とだったら一緒に仕事しやすいのか、自分自身の特徴を知っていれば、そんなに遠回りしなくてもいいのに、という人がたくさんいます。
―― 他の国では、もっと積極的にメンタルトレーニングが取り入れられているのですか。
多くの国では、ユースの時からすでにメンタルトレーニングのプログラムが組まれています。日本はまだスポーツ科学に対する信頼や理解が十分に醸成されていません。
コーチもスタッフも、心理学や栄養学などのスタッフをどうやって使っていいかわからない。ラグビー日本代表のHCだったエディさんはそこに長けていたと思います。ここに何日間来てほしいとか、いま誰と話しに行ってきてくれとか、使い方をとてもよくわかっていました。
―― 指導者を育てるという環境がまだまだなのかも知れませんね。
いい選手がいい指導者になれると思われがちなところがまだあります。日本ではコーチをするための教育を受けないまま、引退の次の日から監督やコーチになったりする。そういう意味でエディさんは周りの人とも情報交換しながら、コーチとしての専門職を全うしている人だと思います。
エディ・ジョーンズHC、そして現日本代表への思い
そしてこの9月、ついに日本でラグビーのW杯が開催される。前回のW杯が終わってイングランドに渡り、今回は優勝候補の一角イングランド代表のヘッドコーチとして来日するエディ・ジョーンズ氏。荒木教授に、エディ氏のこと、そして現在の日本代表への思いを訊いた。
―― エディ・ジョーンズという人は、どういう人だと思いますか。
エディさんは日本にいたときもすごい人でしたが、本当のすごさに気づいたのはいなくなってからです。2015年のW杯が終わってからも、どれだけ多くの人に働く場を与えてくれたか。スポーツ科学の大切さを日本に伝えてくれて、私もトレーナーさんもコンディショニングコーチも、エディさんがあの4年間睡眠時間を削って働いて、80人以上の選手を指導したからこそ今の私たちがいます。ラグビーのライターさんのように間接的に関わっていた人たちの仕事も増えました。そこがエディさんのすごいところです。
―― 今でもエディさんとはお話しすることがあるのですか。
しょっちゅうやり取りしています。よくメールをくれます。ものすごくマメな人なんです。エラそうじゃないですし。最高に人格者だと思います。
―― 今回の代表チームに関してはどのようなメッセージを送りたいですか。
とにかく応援しています。選手にとっては、日本でW杯があるのはただの巡り合わせとはいえ幸せですよね。過去がどうというよりは、皆さんで新しいストーリーを刻んでもらって、2015年のことが忘れられるくらいドカンといってほしい。心からそう思います。
―― 今日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。
取材を終えると、あの競技のあの選手、また別の競技のあの人と、さまざまなスポーツ競技で世界に勝てる実力がありながら壁に当たっている選手たちの顔が次々と浮かんできました。科学に基づいたメンタルトレーニングで心を鍛えて、100%の実力を発揮する日本選手の勇姿を見てみたい。そのためには、荒木教授のようなスポーツ心理学の専門家にもっと活躍いただかなくては。科学的アプローチの遅れは、逆にいえば日本のスポーツ界にはまだまだ伸びしろがあるということ。2015年のあの英国・ブラントンの試合のように、「強い日本」が世界を驚愕させるドラマを、期待しましょう。
※記事の情報は2019年8月9日時点のものです。
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【PROFILE】
荒木香織(あらき かおり)
京都市生まれ。園田学園女子大学人間健康学部教授。京都女子中学・高校から日本大学文理学部在学中は、陸上競技短距離選手としてインターハイ、国体などに出場。その後、スポーツ心理学を学び、ノーザンアイオワ大学大学院で修士、ノースカロライナ大学大学院グリーンズボロ校で博士課程を修了。エディ・ジョーンズHCに請われて、2012年から2015年までラグビー日本代表のメンタルコーチを務めた。著書「ラグビー日本代表を変えた『心の鍛え方』」(講談社+α新書)。
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