都市計画
2019.07.05
太田浩史さん(建築家), 桑田仁さん(芝浦工大教授)
「ホコ天」をもう一度。これからの日本の都市再生
「都市の再生」をテーマに建築家の太田さんと、芝浦工業大学の桑田教授にインタビュー。後編では、70年代後半から盛り上がった日本の「ホコ天」文化を振り返りつつ、日本の都市再生についてお話しいただきました。
戦後日本のパプリックスペースの歴史
――前回からの続きですが、こんどは日本の歩行者空間の歴史と現状についてうかがいたいと思います。
太田:僕は原宿表参道の研究もしているんですが、やはり日本の歩行者空間というと原宿の「ホコ天」を欠かすわけにはいかないと思います。実は、来年が表参道ができて100周年という大事な年なのですが、地元では、それを記念して歩行者天国を復活させたいと言っています。そこで改めて「ホコ天」の誕生と廃止の経緯を調べてみると、「ホコ天」が実にクリエイティブな場所だったことに驚かされます。
桑田:まさに歩行者天国。銀座のほうが歩行者天国の導入は早いですが、原宿のほうが様々な文化の誕生という点で、刺激的で面白いですよね。
太田:廃止になる直前の90年代中ごろは本当にうるさくて、原宿のホームに山手線が着くと騒音が車内まで聞こえてきましたからね。問題があったのは事実です。でもそれを含めて、あれは何だったのか振り返る良いタイミングだと思います。
――断片的には知っていますが、ホコ天とは一体なんだったのかという総括は確かに見たことがないですね。
太田:簡単に第二次世界大戦後の日本のパブリックスペースの歴史を振り返ると、まずは戦後の広場論ですね。羽仁五郎さんなどが民主主義と広場を結びつける視点を出して、1955年に丹下健三さんの「今治市役所市民広場」、1960年に前川国男さんの「世田谷区庁舎広場」などで具現化されます。
その流れのひとつで1966年に新宿駅西口地下広場が生まれるのですが、ここが1969年の学生運動のときにフォークゲリラの集会場所となりました。最初はベトナム反戦の歌を唱う集会だったそうですが、次第に体制批判の色が濃くなって、交番の破壊騒ぎと機動隊の突入に至り、1969年7月19日に新宿駅西口地下「広場」が地下「通路」と名前を変えて、集会ができなくなります。
――「ここは広場ではありません、通路です」という有名なセリフが、当時を記録した映像によく出てきますね。
太田:当時の政治状況やフォークゲリラを主導したベ平連の戦法など、事情がいろいろ複雑なので評価が難しい事件だと思いますが、民主主義と広場、という戦後の理想が崩れた瞬間だったと思います。
それで面白いのは、それから2週間ほど経った8月6日、旭川でホコ天の社会実験が始まるんです。こちらは前回お話ししたような世界的な歩行者空間化の動きと並行したのもので、中心市街のモール化を目指したものだったんですが、これが大成功したんですね。
それが契機となって、翌年の1970年には銀座・上野・新宿・神戸などで歩行者天国が始まります。1950年代、60年代の民主主義と広場という組合せが、70年代、80年代の商業主義とストリートという組合せに切り替わるわけです。当時は交通事故と公害が多かったので、警察も歩行者天国の実施に尽力していました。
――原宿の「ホコ天」のスタートはもう少し後になるのですか。
太田:歩行者天国の代名詞ともいえる原宿の「ホコ天」なんですが、実は銀座に遅れること7年、1977年に始まります。なぜそんなに遅かったかといいますと、ホコ天開始の理由が他と違ったからなんですね。それは、当時の原宿表参道は暴走族のたまり場だったという理由です。中心的な存在が、カリスマ的バイクチームの「クールス」で、メンバーには若き日の舘ひろしや岩城滉一がいました。1976年、岩城滉一が東映映画に出るようになり、クールスの残りのメンバーがバンド活動を始めるようになると、そのファンたちがバイクに乗って表参道に集まるようになった。それがあまりにも危険でうるさいというので、当時の原宿表参道の商店会が動いて、表参道を夜間と週末に車両進入禁止にした。それが「ホコ天」の始まりです。
――歩行者のための道を作るというより、クルマやバイクを締め出すのが目的だったんですね。
太田:そうなんですよ。さらに面白いのはその後で、ホコ天を実施したらこんどは竹の子族やローラー族が踊り始め、次に柳葉敏郎がいた「一世風靡セピア」などのパフォーマーが現れて、85年には「白虎隊」っていうグループがバンドの演奏を始めます。
さらにJUN SKY WALKER(S)、The Boom、Remote、スピッツなどが続きました。彼らは表参道から原宿駅を隔てた「放射23号線」で演奏していたんですが、1989年になるとTBSの「イカすバンド天国」略して「イカ天」のテレビ放送が始まり、路上で演奏していたアマチュアバンドが全国的注目を集め、ホコ天でのバンド演奏はますます過熱化していきます。それが先ほどお話しした、山手線の車内まで聞こえた喧噪の背景です。
歩行者が回遊したくなるルートの完成
太田:1970年代の原宿~渋谷の主要な通りとお店を図にしてみたんですが、渋谷から原宿に行くキャットストリートの入口には、原宿ストリートカルチャーの生みの親とされる、ファッション&音楽プロデューサーの山崎眞行さんが作った「クリームソーダ」という伝説的なお店があって、キャットストリートの表参道側の出口にはカフェドロペという、これも大変有名なカフェがあった。表参道を西に向かうと老舗のカフェのレオン、そしてできて間もないラフォーレ原宿があり、そこから竹下通りに向かうと入口にパレフランス、そしてブティック竹の子、出口に原宿駅がありました。図を見ると、点が線になっているのが分かりますよね。
一方で、駅の西側ではパルコが1973年にでき、区役所やNHKがオリンピックで整備されたことで、公園通りが表参道のライバルとしてぐんぐん成長していく。そして1977年以降のホコ天で、渋谷と原宿を繋ぐ大きな回遊路が完成するわけです。ストリートで流行の服を買い、その服を着てまたストリートを闊歩する。そんな仕組みがあったことが、原宿と渋谷の文化と産業を育てたんだと私は思います。
桑田:原宿では1970年代、地元の不動産会社が、有望な若手のファッションデザイナーを自社不動産に誘致して、「出世払い」を認めたり、事業の保証人を引き受けるなど、積極的に支援したそうです。80年代後半には、ラフォーレ原宿などがファッションのベンチャー企業を育てる事業に取り組み、こういった支援は2000年以降も形を変えて行われているようです。文化を育てていこう、生み出していこうと仕掛ける、地域に根差した企業がもつ力も見逃せないと思います。
――よくテレビで見た竹の子族は、表参道ではなくてもっと代々木公園のほうで踊っていたという記憶があります。
太田:そうなんです。79年ごろ、表参道で何かをやろうとすると、警察に原宿駅の西側の放射23号線に行けと追いやられたらしいんです。
桑田:表参道は商業施設が多いから、苦情も多かったのかもしれませんね。
太田:でも、なぜ表参道はダメで放射23号線ならOKなのか。調べてみると警察の管轄が違うんですね。表参道は原宿署で、放射23号線は代々木署なんです。なぜか代々木署は締め出すことまではしなかった。
太田:しばらくその理由が分からなかったのですが、当時のドキュメンタリー映像を見て、それが分かりました。映像の中で、代々木署の担当者が「子どもがやることですから、代々木署としては大きな問題にならない限り見逃しています」というようなことを言ってる。放射23号線でのパフォーマンスを黙認していたことが担当者の方針だったのか署の方針だったのか分かりませんが、私は歴史的な大英断だったと思います。結果としていろいろな若者たちが集まって様々な自己表現をして、原宿が世界的な文化発信地になったからです。
桑田:映像を見ると「竹の子」はあるグループの固有名だったようですね。
太田:そうなんです。ブティック竹の子のプロモーション舞台だったとも聞いていますが、実際はどうなんでしょうかね。
――そして「竹の子族」として拡大して、次にバンドブームが来て、やがてホコ天文化はとつぜん終わってしまいました。
太田:そこが青春の終わりを見るようで甘酸っぱいですね。当時のホコ天の様子を記録した「原宿サンダー通りホコ天ローラーサウンドムーブメント」という本があります。著者の滝川久さんに話を聞くと、やはりバンドブームが加熱して通りのマネジメントができなくなったということです。
ホコ天があったから原宿界隈の文化集積が進んだ
――集まる人が多くなりすぎたということですか。
太田:そうなんですよ。滝川さんによれば、1989年のバンドブームでホコ天で演奏するバンドが倍ぐらいに増え、ファンの女の子が前の晩から場所取りするなど、問題も増えていたらしいです。
桑田:芸能プロダクションもマーケティングで使うようになって、商業的なお金も入ってさらに人が集まりましたからね。
太田:他にも、犯罪行為もあったなどいろいろな証言があって、本当の理由は分かりません。寛容の態度を見せていた代々木署も、騒音問題ということで1996年に放射2号線のホコ天を廃止することになりました。翌年に表参道でも廃止になります。ホコ天最後の日、古参のローラー族は黙々と路上の清掃をしていたというエピソードが胸を突きます。
ローラー族、竹の子族、パフォーマー、バンドなど、彼らが当時どう考えていたか、どうすればホコ天が存続し得たのか、少しずつインタビューを重ねていきたいと思っています。その上でもう一度、ホコ天がもたらしたものを評価したい。社会的な、文化的な場所としてホコ天を総括しておかないと、日本のパブリックスペースの話が進まないような気がしているんです。
――太田さんの思いとしては、ホコ天を復活させたいのですか。
太田:復活させたいですね。
桑田:当時はあの回遊路を目指して渋谷・原宿に人が集まった。もう一度できたらすごく面白そうですね。
太田:日本での歩行者空間化も、少しずつ事例が出てきているんですけど、原宿ホコ天ほど全世代が歩行者空間のことを身近に考えられる場所はないですからね。
ストリートの時代は、きっとまた来る
太田:令和の最初の一月で報道をにぎわせたのは、自動車の暴走事故、特に高齢者による事故です。自動ブレーキの開発や自主返納など対応も議論されていますが、私はこれを都市計画の問題ではないかと受け止めています。なぜ、街の中心まで自動車が入ってくるか。人と自動車の空間が近すぎるのが問題なのではないかと。だけど何か事件が起きたりすると、廃止されるのは歩行者空間のほうなんですね。自動車を閉め出すという視点もあって良いのではないかと思っています。そうでないと、安心に歩けるのはショッピングセンターのなかだけになってしまう。
桑田:全体的に遊びが室内化してしまっている、
太田:グラスゴーのブキャナンストリートのようにクルマと人を時間帯で分けるのでもいい。バーミンガムやかつての原宿のように、大きな回遊路をつくるという夢を描いてもいい。たとえば表参道では、商店会の欅会が歩行者空間化を目指そうと議論をしています。道でいろいろな人が混じりあって、新しい価値や文化を生み出していく。そういう時代がまた来るといいなと思います。
桑田:歩行者天国は週末など、期間を限定して交通を規制しますが、歩行者空間化といった観点からは「恒常的に歩行者専用化された空間」を、いかに広げていくかが重要だと思っています。さいたま市では最近、氷川神社の参道である氷川参道の一部が歩行者専用化されました。
氷川参道は、ケヤキを中心とした並木が2km弱も続く、日本最長の参道ともいわれています。20年以上前から歩行者専用化の要望が地元から出ていたのですが、当時は参道の通過交通量も多く、簡単ではありませんでした。そこで、区間を区切った一方通行化の社会実験を行い、歩行者のための空間を広げるなど、継続的に少しずつ空間改善に取り組んできました。そして、ようやく周辺の道路整備が進んだこともあり、一部区間ですが、歩行者専用化されました。とても意義深いと思っています。
――日本の各地ですでに動きはあるわけですね。渋谷駅前でも、かなり長く道路を歩行者空間化しようという構想があって、太田さんも関わっていらっしゃるとか。
太田:はい。道玄坂と宮益坂は大山街道という街道の一部なのですが、そこを歩行者空間化しようという試みが進んでいて、その調査を手伝わせていただきました。いまは社会実験を行いながら、具体的に何が可能なのか、目標を模索している段階です。
桑田:これが成功事例になればいいですね。
太田:渋谷区長をはじめとして、「ストリートが街の命だ」と考えている方が渋谷や原宿にはたくさんいらっしゃるので、10年後には何か起きているのではないかと感じます。ストリートの時代は、きっとまた来ます。
――ホコ天時代のお話を聞くと、文化が生まれた瞬間の熱のようなものを感じて、その場所としての街のあり方の大切さに改めて気づきます。東京の都市デザインもまさにいま再構成されようとしているのを知ることができて、これから先が非常に楽しみになりました。ありがとうございました。
※記事の情報は2019年7月5日時点のものです。
【前編はこちら】
参考文献:太田浩史「原宿ホコ天はなぜ消えたのか」(「都市+デザイン」第35号 都市づくりパブリックデザインセンター、2017)
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【PROFILE】
太田浩史(おおた・ひろし)
建築家。博士(工学)。1968年東京都大田区生まれ。1991年東京大学工学部建築学科卒業。1993年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。1993~1998年東京大学生産技術研究所助手。2003~2008年東京大学国際都市再生研究センター特任研究員。2009~2015年東京大学生産技術研究所講師。2015年より株式会社ヌーブ代表取締役。東京ピクニッククラブを2002年より共同主宰。主な作品に「久が原のゲストハウス」「PopulouSCAPE」「矢吹町第一区自治会館」など。著書に「SSD100-都市の持続再生のツボ」(共著)、「シビックプライド」「シビックプライド2」(共著)、「コンパクト建築設計資料集成[都市再生]」(共著)など -
【PROFILE】
桑田仁(くわた・ひとし)
芝浦工業大学建築学部建築学科教授(都市プランニング研究室)。1968年埼玉県所沢市生まれ。1991年東京大学工学部都市工学科卒業。1993年東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程修了。1995年芝浦工業大学システム工学部環境システム学科助手。講師・准教授を経て建築学部教授。日本建築学会、日本都市計画学会、都市住宅学会所属。著書に「まちを読み解く ─景観・歴史・地域づくり」(共著)、「成熟社会における開発・建築規制のあり方―協議調整型ルールの提案」技法 (共著) 「まちの見方・調べ方―地域づくりのための調査法入門」朝倉書店 (共著)など。
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