インカの古都クスコへの旅(ペルー)| 失われた文明の痕跡を求めて

OCT 5, 2021

旅行&音楽ライター:前原利行 インカの古都クスコへの旅(ペルー)| 失われた文明の痕跡を求めて

OCT 5, 2021

旅行&音楽ライター:前原利行 インカの古都クスコへの旅(ペルー)| 失われた文明の痕跡を求めて "創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の内容や画像は2000〜2018年の紀行をもとにしたものです。

南米大陸で生まれた古代文明の完成形とも言えるのが、インカ文明だ。15世紀にアンデス高地の大半を領土としたインカ帝国。その建築物はほとんどが破壊されて今はないが、古都クスコではインカの精巧な石組みを見ることができる。今回は、旧大陸とは違った"創造"が行われていたインカ文明の遺跡が残るペルーのクスコを紹介する。




旅の途中で。アンデス高地の古都クスコへ

インカ時代の石組みが残るクスコのロレト通りインカ時代の石組みが残るクスコのロレト通り


2014年の初秋、私の南米の旅も後半に差し掛かっていた。富士山よりも高い海抜3800m以上の高さにあるティティカカ湖からバスで6時間ほどかけ、標高3399mの都市クスコに到着した。クスコはかつてのインカ帝国の都で、今でも40万人以上の人々が住むペルー有数の都市だ。バスターミナルで市バスに乗り換え、町のほぼ北西の端にあるアルマス広場を目指した。


スペインは、征服した新大陸ではほぼ同じような都市設計をした。町の中心となる広場に面してカテドラルと市庁舎を建て、そこから東西南北に碁盤の目状に道を広げていく。だから初めての町に着くと、中心広場から行きたい場所までの距離を確かめる。広場はその町で一番古いエリアなので、観光名所もほぼそこから徒歩圏内にあることが多いし、たいていの市バスはそこを通る。私はアルマス広場から徒歩3分の小さなホテルに荷を下ろした。高地にも体が順応していたので、高山病の心配もないだろう。


クスコの中心のアルマス広場。街歩きはここから。左に見えるのは17世紀に完成したカテドラルクスコの中心のアルマス広場。街歩きはここから。左に見えるのは17世紀に完成したカテドラル




南米に栄えたインカ文明

ラテンアメリカの古代文明の代表は、メキシコのアステカ文明、中米のマヤ文明、そしてアンデス高地のインカ文明だ。世界史の教科書では同じページで解説しているので、何となく似たようなものと思ってしまうが、あまり関連性はない。アステカ帝国とインカ帝国はスペインによりほぼ同時期に滅ぼされたが、その2つの国に交流があったのかは分かっていない。なにしろ東京とバンコクぐらい距離があるのだから。


インカ帝国は文字を持たない文明だった。そのため歴史については発掘品や伝承、スペイン人の書き記したものなどから類推するしかない。13世紀ごろにクスコを中心に成立したクスコ王国は、その後、200年余りの間に周辺の部族や王国を次々と傘下に収めていき、現在のエクアドルからペルー、ボリビア、チリに至るアンデス高地を版図(はんと)にしたインカ帝国に成長した。スペイン人が新大陸に到達する直前が最盛期で、人口は1000万人ほどいたと推定されている。これは当時の日本の人口とほぼ同じぐらいだ。


クスコのサント・ドミンゴ教会にあるインカの世界観が彫られた金属板(レプリカ)。世界は3層から成り立っているクスコのサント・ドミンゴ教会にあるインカの世界観が彫られた金属板(レプリカ)。世界は3層から成り立っている


インカ帝国は多言語、多民族から成っていた。ジャガイモやトウモロコシを主食とする農耕が行われ、家畜はリャマとアルパカ、そして食用となるテンジクネズミの「クイ」の3種類しかいなかった。土地を耕し、重い荷物を運ぶウシやウマのような動物はおらず、そのためか彼らの文明では「車輪」が生まれなかった。車輪や馬なしに日本の5倍もある広大な領土を維持できたのは、帝国全土に張り巡らせた道路網があったからだ。この道路網には約19kmおきに駅が置かれ、食料の備蓄庫も置かれていた。後にピサロが容易にクスコに侵攻できたのも、この道と途中の備蓄庫があったからだ。




不規則な形の石が精巧に組まれた石壁

なぜわざわざこのような形の石を選んだのか分からない「12角の石」なぜわざわざこのような形の石を選んだのか分からない「12角の石」


クスコはインカ帝国の都で、「クスコ」という名前は地元のケチュア語で「へそ」という意味だ。その中心となるアルマス広場はインカ時代も広場で、周辺には皇帝たちの神殿や宮殿があったが、それらの建築物はほとんど破壊されてしまった。広場に面したカテドラルから脇の道に入ると、次の十字路にかつての旧大司教庁、現在は宗教美術博物館の建物があり、土台部分にインカ時代の石壁が残っている。「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるほど隙間なく石が積み上げられているが、その形は均一ではない。壁の真ん中あたりにある有名な「12角の石」を見れば、それが分かるだろう。その形に石を切り出したのか、それとも意図的に異なる大きさの石を組み合わせたのか分からないが、形はいびつでも周囲の石とピッタリと組み合わさっている。これがインカの美意識なのだろうか。


インカの建築物は、長方形の石壁の上に木製の梁と茅葺き屋根があった。鉄器がないのに石を切り出すのは大変だったろう。重い物を運ぶ車輪もないし、牛馬のような力のある家畜もいない。斜面の多い高地は河川も利用できなかった。旧大陸の古代文明に比べると人力に頼らざるを得ず、同じ規模の石造建築物を造るにはより多くの労働力が必要だったろう。


サント・ドミンゴ教会の裏側。インカ時代の土台部分とスペイン領時代の教会の部分がくっきり分かれているサント・ドミンゴ教会の裏側。インカ時代の土台部分とスペイン領時代の教会の部分がくっきり分かれている




スペイン人のインカ征服

コロンブスが西インド諸島に到達したのは1492年。この旧世界と新世界の出会いは大きな悲劇をもたらした。ジャレド・ダイヤモンドが書いたノンフィクション「銃・病原菌・鉄」では、スペイン人が新大陸に持ち込んだ伝染病がいかにすさまじかったかについても述べている。スペイン人が大陸に上陸してからわずか20、30年で、新大陸の人口は半減した。特に天然痘は、免疫のない現地の人にとっては致死率が90%近かった。


パナマにいたフランシスコ・ピサロは、1526年のペルー探検でインカ帝国の存在を知り、1531年に黄金を求めてインカ帝国の征服に乗り出す。ピサロの兵力はわずか168名、大砲1門、馬27頭から成るものだったが、運は彼に味方した。彼がインカ帝国に到達するより早く、天然痘がインカの人口の半分以上の命を奪っていたのだ。さらにインカ帝国は、皇帝の座を巡る内戦中で弱体化していた。


クスコで見かけた聖像を担いで練り歩くプロセッション(宗教行列)。今では住民のほとんどがカトリックだクスコで見かけた聖像を担いで練り歩くプロセッション(宗教行列)。今では住民のほとんどがカトリックだ


1532年、ピサロはインカ皇帝アタワルパと会見する。内戦に勝利して8万人の軍隊を連れてやってきた皇帝アタワルパだが、わずかな随行員のみで会見に臨んだのをピサロは見逃さなかった。ピサロは随行員を皆殺しにし、アタワルパを捕虜にしてしまう。数百倍の兵士が取り囲むが、神である皇帝を捕虜にされては手も足も出ない。ピサロは大量の金銀を身代金として要求してそれを得たが、翌年アタワルパを処刑してしまう。1534年にインカの都クスコへ入ったピサロは、神殿や多くの建物を破壊して、その上にスペイン風の町を建設した。




クスコをめぐる最後の戦い・サクサイワマン

アルマス広場から徒歩20分。広場からさらに300mほど丘を上がった標高3700mの場所に、サクサイワマン遺跡がある。それほどの急坂ではないが、何しろ富士山よりも高い場所なので息があがる。遺跡に着くと、積み上げられた石の壁が目に入ってきた。この遺跡は南北の丘に階段状になった3段の石組みから成っていた。相変わらず、異なる形の石を積み上げるその技術に唸(うな)らされる。


サクサイワマンの全景。3段の石壁から成っているサクサイワマンの全景。3段の石壁から成っている


この遺跡は、数万人の人間が数十年をかけて15世紀に築かれたという。そしてここで、ピサロと最後のインカ皇帝マンコ・インカ・ユパンキとの戦いが行われた。皇帝アタワルパの殺害後、アタワルパの弟のマンコ・インカはピサロに接近し、皇帝になる。しかし彼はピサロの留守中に数万人の軍を集めて反旗を翻し、クスコに進撃した。そのときに拠点としたのがここサクサイワマンだった。しかし10カ月に及ぶ包囲にもかかわらず、スペイン人はクスコを守り通した。そして反撃が始まった。夜は戦わないインカ兵はここで夜襲にあって敗北し、マンコ・インカは逃げ延びる。この後もインカの人々は抵抗したが、スペイン人の武力と伝染病により、多くの人々が死んでいった。


サクサイワマンの2つの丘の間には、幅数百メートルの広場がある。かつては戦場となったこの広場では、今では毎年6月24日に太陽の祭りである「インティ・ライミ」が行われている。


クスコの町には植民地時代の教会や修道院の建物が多いが、1つでもインカ帝国時代の建物が残っていたらと思う。かつて数千年かけて創造された、旧大陸とは全く異なる文明がここにあった。しかしそれに敬意を示さない文明によって、わずか数十年で破壊されてしまった。ある日、宇宙人がやってきたら、このように我々の文明や創造物も一瞬にして消え去るのかもしれない。そんなことをクスコで考えた。


サクサイワマンの石垣の間の通路。石は発泡体のように内側に少し膨らんでいるように見えるサクサイワマンの石垣の間の通路。石は発泡体のように内側に少し膨らんでいるように見える

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。

連載/まとめ記事

注目キーワード

人物名インデックス

最新の記事

公開日順に読む

ページトップ