純名里沙 | 歌っていない自分は、自分じゃない

SEP 23, 2021

純名里沙さん 歌手・女優〈インタビュー〉 純名里沙 | 歌っていない自分は、自分じゃない

SEP 23, 2021

純名里沙さん 歌手・女優〈インタビュー〉 純名里沙 | 歌っていない自分は、自分じゃない 1990年、宝塚歌劇団に首席入団。1994年、NHK連続テレビ小説「ぴあの」に主演し、一躍国民的な人気を博した純名里沙さん。その後テレビドラマ、映画、舞台など様々なフィールドで活動していましたが、2012年からはオーケストラとのコンサートやギタリスト笹子重治氏とのデュオによるライブを中心とした音楽活動へ転身。その心境の変化や、歌と音楽への想い、そして今後の展開についてお話をうかがいました。

大地真央さんに憧れて宝塚歌劇団へ

――音楽との出合いを教えてください。


小さい頃からピンクレディーを姉と歌ったりはしていましたが、最初に衝撃を受けたのは小学校6年生のときに母と観たアマチュアのミュージカルでした。私の両親は父母ともに中学の教師だったのですが、母の教え子さんがその劇団に入っていたので、お誘いいただき観に行きました。演目は「青い鳥」でしたが、生のステージを見るのが初めてだったのもあって衝撃を受けました。それで「私、ここに入りたい!」って入れていただいたんです。それからはミュージカルの虜になり、初舞台もその劇団で踏みました。


純名里沙さん



――宝塚歌劇団を意識したのはその後ですか。


そうです。入ってから知ったのですが、その劇団は宝塚の作曲の先生が主催されていました。それで宝塚の存在を知り、関西では毎週テレビで宝塚の舞台中継をやっていたのでいつも観ていました。テレビで大地真央さんを見たとき、そのえも言われぬ中性的な魅力と、美しくてきらびやかな世界に、私は一気にファンになってしまいました。それであるとき、チケットも持たずに初めて宝塚の舞台を観に行ったんです。その日たまたまキャンセルがあって手に入れたチケットが前から5列目。しかも大地真央さんの舞台。全身鳥肌が立ちました。それからは月に1回阪急電車に乗って宝塚の舞台を見て、幸せな気分になって帰るみたいな日々でした。大地真央さんは今でも大好きで大ファンです。1度たまたま新幹線でお会いしまして、降りられるまで背中は伸びたままでした(笑)。


――宝塚歌劇団に入ろうと思ったのはどんなきっかけがあったのですか。


宝塚って私にとっては雲の上の存在だったんです。でもあるとき劇団のお友だちが宝塚に入っちゃったんですよ。雲の上にあるはずの入り口が、急に私の隣に降りてきたように感じて「もしかして受けていいの?」って思いました。


ただ私の家は両親ともに教員ゆえの真面目な家庭でして、宝塚を受けるのは高校を出てからと言われました。宝塚は入学できる時期が中学卒業時、高1、高2、高校卒業時の4回あります。でも私の場合、親の言う通りに高卒でしか受けられないとなると、チャンスは1回だけ。せめて2回は受けたかった。それで高2のお正月に1週間かけて両親を泣き落としました。それで何とかOKをもらい試験の4月まで3カ月準備して受けたら、1番で受かっちゃったんですよ。そんな「まさか」で宝塚に入り、その後も「まさか」が続きました。




宝塚入団、そしてNHK連続テレビ小説「ぴあの」のヒロインへ

――宝塚歌劇団に入り、そこから大活躍が始まるのですね。


首席で入団してから、私自身「まさか」と思うようなことが続きました。まず初舞台でエトワールというパレードの先頭歌手としてソロをいただきました。普通はベテランの方がされるのが通例だったので「なんで私が?」というのが正直な気持ちでした。そして2年目には「微笑みの国」 というオペレッタでヒロインに抜擢(ばってき)していただき、その公演の評判が良かったお陰でウィーンまで行ってウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団とレコーディングをさせていただけたり。あまりにもすごいことが次から次へとやってきて、本当に素晴らしい体験でしたが、私自身はかなり必死でしたね。でも、この時のお陰で今もクラシックを歌えているのだと思います。


純名里沙さん



――そして宝塚在籍中にNHKの連続テレビ小説「ぴあの」(1994年)が始まるわけですか。


ちょうど入団3年目の頃でした。当時雪組だったんですけれども劇団から「NHKの朝ドラのオーディションがあるけど受けてみませんか?」とオファーをいただき、面白そうだったので受けてみました。そうしたら受かったんです。そして飛び込んでみたら本当に楽しかったんですよ。NHKの連続テレビ小説のヒロインってとても恵まれていて、スタッフの方々、出演者の方々、みなさん全員で愛してくださる。そして視聴者の方も愛してくださるでしょう? あんなに幸せなお仕事は後にも先にもないでしょうね(笑)。


――そして半年間ドラマで主演を務めた後、宝塚歌劇団に戻られたんですね。


もちろんです。舞台が大好きなので。ただ1年ほど外部出演をしていたため、宝塚歌劇団に戻るときに組が変更になりました。何年もかけて育てていただいた組ではなくなってしまい、本来はありがたい知名度も逆に作用してしまい、何だかひとりぼっち、という環境でトップという路線に乗せていただくことになりました。同じ宝塚だから一緒だと思われるかもしれませんが、自分としては会社が変わるくらいとても大変な出来事でした。若かったこともあり、毎日が精一杯すぎました。結果的に宝塚に戻って1年半で「ハウ・トゥー・サクシード」(邦題「努力しないで出世する方法」)というミュージカル作品をやることが決まった時点で、大好きなミュージカルで辞めようと退団を決意しました。その後、すごく好きなミュージカルが何作も続いたので「早まったかな」と 思いましたけど(笑)、自分としてのタイミングがそこでした。でも、真矢ミキさんという素敵な男役さんとトップコンビを組ませていただけたことや、宝塚の団員だったからこそたくさんの信じられない経験をさせていただけたことは、おばあちゃんになっても自慢したいくらいの人生の宝物です。感謝しかありません。




東日本大震災ではじめて後ろを振り返り、前に進めなくなった

――宝塚退団後はドラマや映画、CMなどで大活躍されました。


NHKの朝ドラの影響もあり、ありがたいことに映像の仕事を中心に数多くのお誘いをいただきました。ただ自分としてはずっとミュージカルをやりたいと思っていました。事務所にも「歌いたい、ミュージカルをやりたい」とお願いしていましたが、なかなかできなかったんです。その当時はミュージカルとテレビのお仕事を両立されているかたも少なかったですしね。このときの「歌いたいのにその機会がない」という思いが、その後の活動につながっていきました。


――宝塚歌劇団を退団した後、歌う機会は減っていたんですね。


ミュージカルの舞台が入っている時はもちろん大丈夫なのですが、映像のお仕事がメインになった時期などは、お仕事の合間に、ごく稀に歌う機会がありましたが、ほとんど歌っていませんでした。歌っていないと喉の筋肉も落ちてしまうので、たまに歌うお仕事をいただいても、自分が納得できるようには歌えません。そんなことが続くうちに、「自分は芸能界にはあまり向いていないんじゃないか」という気持ちになってしまいました。それまでの私は本当に素直に生きていて、社会勉強をせずに宝塚からそのまま芸能界に出てきたので、真っ直ぐすぎてとても未熟な人間だったのだと思います。ちょうどその頃、東日本大震災が起き、それが転機となりました。


――東日本大震災は純名さんにどんな影響を与えたのですか。


私は東京にいましたし、被災者ではありませんでしたが、あれほどの災害が起きれば誰だって「自分にとって大切なものってなんだろう。生きるって何だろう」などと考えますよね。私もそうでした。それまでの私は前しか向いていなかったんですけど、そのとき初めて後ろを振り返ったんです。そして「今、自分はなぜ生かされているのだろう」といったことを考えるようなり、いつのまにか前に進めなくなっていました。結局1年間ぐらいお仕事ができませんでした。そんな中で見えた一筋の道が、笹子重治さんのギターに繋がりました。




笹子重治さんのライブを観に行っていきなり「オーディションしてください!」

――笹子重治さんといえばブラジリアン・スタイルのギターの名手ですが、なぜ笹子さんのギターに惹かれたのですか。


震災前まではミュージカルや派手な音楽が好きでしたが、震災後は笹子重治さんが主宰されているショーロクラブのCDをよく聴くようになりました。その音楽は私に寄り添ってくれて、本当に救われたんです。そして、今まで好きで聴いていた他の歌手の方のCDの曲も並べてみたら、どの曲にもギター、笹子重治って書いてあったんです。それで「このギターの音色とデュオで歌いたい」と思い立って、笹子さんが出演しているライブハウスへライブを聴きにうかがい、アポなしでいきなり「はじめまして、純名里沙というものですが、オーディションしてください!」ってお願いしました(笑)。


笹子重治オフィシャルサイト



――それは笹子さんも驚きますよね。


びっくりしたみたいです。私、帽子をかぶってなかったのに、「あのときの純名さんは帽子をかぶっていた」って今も言い張っていらして(笑)、「だから誰か分からなかった」って。ただ「なんか聞いたことがある名前だ」と思って家に帰って調べて、あらま、どうしようって思ったそうです。


純名里沙さん



――そこから、笹子さんとの演奏活動が始まったんですね。


2012年から笹子さんとの音楽活動を始めました。まったく後ろ盾も何もないまま飛び込んでしまったので、まずは自分で歌う場所を探すところからでした。しかもギターとデュオで歌うってことが何も分かっていなかったんです。私、それまでオーケストラとしか歌ったことがなかったので、ギターの音量がこんなに小さいって知らなかったし、ギターの音がすぐに消えることも知らなかった(笑)。今はギターって伴奏というより会話だし、自分がアカペラで歌えないとギターとは歌えないことが分かっていますが、そのときは何も知らなかったんです。無知って怖いですよね(笑)。


――ライブツアーのブッキングもご自分でされるのですか。


最初は笹子さんに紹介していただきましたが、その後は全部自分でブッキングして、新幹線も宿も自分で取ります。ここで歌いたいと思ったら直談判で「店主の方とお話をしたいんです」から始まります。でも面白いですよ。フェイス・トゥ・フェイスで顔が見えるので。


――小さなライブハウスでも演奏されていますよね。宝塚のステージとはずいぶん勝手が違うのではないでしょうか。


全然違います。まずは目の前にお客さんがいることに驚きました。それって今まではありえなかったんです。スポットライトが当たると客席は見えませんが、ライブハウスではお客さまお一人お一人の顔が近くて、よく見えるわけです。それに衣装やかつらをつけて役になり切って歌うことには慣れていますが、普通のライブって、生身の自分をさらけ出しますよね。もちろんMCは台本がないし、演出家もいない。衣装もヘアメイクも全部自分。司会進行も全部自分で、お客さんに満足していただく......。歌手の方ってすごい!って思いましたよ。


そのあたりも本当に考えないで飛び込んじゃったんです。以前のイメージをお持ちの方もいて、小さなライブハウスで歌っていると「なんで純ちゃんこんなところで歌うの?」と言われたりもしました。そういう方には申し訳ないと思いますが、今の音楽活動を通じて人間的にたくましく成長させてもらえましたし、お客さまの反応を間近で感じることができて良かったと思っています。




囁くような歌い方と、クラシックの発声の両方ができる歌手に

――最新作CD「う・た・が・た・り」を聴かせてもらいました。このアルバムでの純名さんのソフトな歌い方が素敵でした。ギターとのデュオと大きな舞台では声の出し方が全然違うのでしょうか。


喉の使い方が全く違うんです。ですからギター1本の伴奏で歌えるようになるまでに2年ぐらいかかりました。今もオーケストラと歌わせていただく機会がありますが、クラシックの発声法と、ギターで歌うときの囁(ささや)くような声の出し方は本当に違うので、両方ができる歌手でいたいと思ってクラシックの勉強にも取り組んでいます。


「う・た・が・た・り」「う・た・が・た・り」
~言葉を綴る、歌を語りかける。
シンプルで透明なサウンドと共に胸に響くその息づかい~
笹子重治プロデュース。全曲日本語による純名里沙の「声」の魅力にこだわった作品。5曲のオリジナルを加えた、全12曲を収録!



「う・た・が・た・り」

純名里沙 2年半ぶりのニューアルバム「う・た・が・た・り」


――今後の活動の予定を教えてください。


ありがたいことにライブハウスからのオファーもいただける様になりましたし、もちろん新しいCDも出したいと思っています。笹子さんとのライブも続けていきながら、この8年間で学ばせていただいた事がたくさんあるので、一人の歌手として、笹子さんとの音楽世界とはまた違う大きな表現も模索していきたいです。例えば、コンスタントに歌わせていただいているオーケストラとのアルバムも創りたいですね。


それと、今後は原点に帰って、ミュージカルもまた始めたいと思っています。実は笹子さんとの音楽活動を本格的に始めてから、女優のお仕事はお断りしてきました。でも、3年ぐらい前にあるミュージシャン仲間から「なんで女優さんの仕事やらないの? 音楽にもフィードバックできるから絶対にやった方がいいよ」と言われたんです。その声に背中を押されるように、2019年に「トリッパー遊園地」というお芝居に出ました。そうしたら本当に楽しくって。昨日まで舞台に立っていたみたいで「板につく」ってこういうことなのねって(笑)。やっぱり私の生きる場所はステージの上なんだなと思いました。舞台女優としての私の魂がやっと息を吹き返した感じです。


純名里沙 ライブ

純名里沙 ライブ
2021年10月3日 @ビルボードライブ横浜


――今後は音楽活動に加えて、舞台や女優のお仕事もされるということですか。


はい。笹子さんとの活動を含めた音楽の活動と、舞台をはじめとする女優のお仕事の両方をやっていこうと思っています。笹子さんと作ってきた世界をライフワークとして続けつつ、原点であるミュージカルにも改めて挑戦していきたいです。



純名里沙さん衣装協力:エステラK アビステ



――どちらも「歌」ですが、歌うことが純名さんの創造性の源泉ということでしょうか。


やっぱり歌がないと自分じゃないと思います。歌というか、声ですね。 声が自分の命だと思っています。宝塚を卒業する間際に1度喉を壊したことがありましたが、このときは「ああ人生が終わった」と思いました。だから70歳になっても80歳になっても歌える喉でいたいと思っています。


――ありがとうございました。今後のご活躍を期待しています。


※記事の情報は2021年9月23日時点のものです。

  • プロフィール画像 純名里沙さん 歌手・女優〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    純名里沙(じゅんな・りさ)
    1990年、宝塚歌劇団に首席入団。初舞台でフィナーレの先頭歌手、エトワールという異例の抜擢を受け、翌年、抜群の歌唱力を買われてオペレッタ「微笑みの国」で初ヒロインを演じ、ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団とウィーンにてレコーディングを果たす。94年在団中に、NHK連続テレビ小説「ぴあの」に主演、主題歌も歌うなど話題を振りまき、花組トップ娘役就任後、96年に退団。その後、数々のテレビ、映画、舞台、ラジオ、CMと幅広いシーンで活躍する。2007年CDアルバム「ミスティ・ムーン」(BMG JAPAN)をリリース。08年から始まったNHK教育テレビ「リトル・チャロ」では、声優としてチャロ役を好演。また歌手として、オーケストラ・アンサンブル金沢をはじめ、東京シティフィルハーモニック管弦楽団、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演する。11年の東日本大震災が本人の心を大きく動かすきっかけになり、ギタリスト笹子重治氏とのデュオによるアコースティックライブを12年から全国各地で展開。15年に満を持してギターと声だけのデュオアルバム「Silent Love ~あなたを想う12の歌~」(ビクターエンタテインメント)をリリース。最新アルバムは18年春にユニバーサルミュージックより発売した「う・た・が・た・り」。現在はオーケストラとのホールコンサートからギターやピアノとのデュオライブまで、規模を問わない音楽活動を精力的に活動する一方、19年には舞台「トリッパー遊園地」にてユキ役を好演。10年ぶりに大きな舞台で女優業にも復帰した。TOKYO FM 「ありがとう、先生!」にレギュラー出演中。

    純名里沙公式ホームぺージ
    https://risajunna.com

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