吾妻光良|退職後に"プロ入り"したギター人生。理想は低く、できるだけ長く音楽を楽しむ

音楽

吾妻光良さん ギタリスト〈インタビュー〉

吾妻光良|退職後に"プロ入り"したギター人生。理想は低く、できるだけ長く音楽を楽しむ

会社勤めの傍らで日本屈指のブルースギタリストとして活躍し、熱狂的なファンを持つジャンプブルースバンド「吾妻光良&The Swinging Boppers(ザ・スウィンギン・バッパーズ)」のリーダーでもある吾妻光良(あづま・みつよし)さん。2021年にはプロ入り宣言、2024年11月には「吾妻光良&The Swinging Boppers」として9枚目のアルバムを発売するなど、活発な音楽活動を行っています。そんな吾妻さんに、ブルースの魅力、同じ仲間とバンドを続ける楽しさ、そして今後の展望などについてお話を聞きました。


写真:石井 俊

「ブルースを聴かないものは人間ではない」という時代

――吾妻さんはどんなきっかけでギターを始めたのですか。


兄(ギタリストのジョージ吾妻*1)が「ザ・ベンチャーズ」を弾いていて、小学生の頃に兄の真似してギターを弾き始めました。よく兄に「お前、俺のギターいじっただろう!」って怒られて殴られたり、庭に穴を掘って埋められたりしました(笑)。


*1 ジョージ吾妻:カルメン・マキとともに「カルメン・マキ&LAFF」「5X」といったバンドを結成。ラウドネス、アンセムのプロデュースに携わる。


ギタリストの吾妻光良さん


――その後、自分のギターを弾くようになったんですね。


そうです。僕が中学1年の時は1968(昭和43)年。海外のロックがガンガン入ってきた時期で、クリームやレッド・ツェッペリンがAMラジオで普通に流れていた時代です。ラジオでロックを聴いてはコピーしていました。


――ブルースとはいつ出会うのですか。


それまでも白人のブルースは聴いていましたが「黒人のブルースが本物だ」と言われて中学3年の時、B.B.キング*2を見に行ったんです。司会は糸居五郎(いとう・ごろう)さんでした。「おお、これがブルースというものか」と感動しました。


*2 B.B.キング:「キング・オブ・ブルース」とも称されるブルース界の巨人。1950年代から晩年まで活躍しブルース界、ロック界に多大な影響と業績を残した。


――そこから一気にブルースに傾倒したのですか。


B.B.キングは全盛期でめちゃくちゃスゴかった。でもそれですぐに黒人ブルースに傾倒したわけではなくて、しばらくは白人ブルースも聴きつつ、黒人のブルースに惹かれていきました。当時の日本は空前のブルースブームで「ブルースを聴かない者は人間ではない」とまで言われていた時代で、ほかにもいろんなアーティストが来日していました。今思うとすごく短い期間なんですけどね(笑)。そして高校2年の時に「黒人アーティストのレコードしか買わない」と決めました。レコードを聴いてはギターを弾いていて、浪人しつつ毎日エルモア・ジェイムス*3のコピーをしていました。


*3 エルモア・ジェイムス:アメリカの黒人ブルースギタリスト。スライドギターの野性的な音を特徴とし、後のロック・ギタリストたちにも影響を与えた。


――そして大学に入って早稲田の有名な音楽サークル「ロック・クライミング」に入るんですね。


はい。早稲田大学の理工学部にあった音楽サークル「ロック・クライミング」に入りました。部室の前でブルースハープを吹いていた人に「入部金5,000円払えば入っていいよ。スタジオより安いよ」って言われて入ったんです。理工学部だったんですが、出席しないとダメな演習や実験以外は朝10時からずっと部室でギターを弾いていました。あの頃が人生で一番楽器を弾いた時期ですね。


ギタリストの吾妻光良さん




母に泣かれてプロギタリストを断念

――吾妻さんは学生時代からブルース界では有名でしたが、どんなきっかけでプロのバンドに参加することになったのですか。


人前でギターを弾くようになったのは、ブルースハープの第一人者である妹尾隆一郎(せのお・りゅういちろう)*4さんのバンドに入ったのがきっかけでした。当時、高円寺のライブハウス「JIROKICHI」で妹尾さんのライブがあってよく見に行っていましたね。


妹尾さんのライブって2部まで普通にやった後、「楽器弾けるヤツは全員出てこい、セッションだ!」って毎回3部がセッションになるんですよ。それでギターを弾いたら妹尾さんから「お前、面白いな。一緒にやろう」と言われ、妹尾さんのバンドに入りました。そこでしばらくギターを弾いていて、その後、永井隆(ながい・たかし)*5さんから誘われて「永井隆&ブルー・ヘヴン」というバンドに入りました。そのバンドではよくツアーをしましたね。


*4 妹尾隆一郎:別名、ウィーピング・ハープ・セノオ。ブルースハーモニカの分野では日本を代表するミュージシャン。


*5 永井隆:別名、永井"ホトケ"隆。ブルースギタリスト、ボーカリスト。70年代に注目を集めた「ウエストロード・ブルースバンド」のリードボーカルとして活躍。


――そのままプロのギタリストにならなかったのはどうしてですか。


「永井隆&ブルー・ヘヴン」で演奏している時に新聞に載ったりして、その勢いで母に「実はプロになろうと思っているんだ」と言ったら、母がよよと泣き崩れ「女手ひとつでこれまで育てて......。お願いだから就職しておくれ」と言われてしまったんですよ。そこで「試しに1年だけやらせてくれ」と頼み、自主的に留年して1年間プロ生活をしました。


ただここは強調したいんですが、僕は自主的な留年。当時、隣の部室のジャズサークルにいた「The Swinging Boppers」のベースの牧裕(まき・ゆたか)は落第。そこだけは一緒にしないでください(笑)。


ギタリストの吾妻光良さん


そこから1年やったんだけど、食べていくにはちょっと足りなかった。それで永井さんにバンドを辞めさせてくださいとお願いして就職するに至るわけです。


音楽とは異なる道に進むことになるわけですが、卒業記念に留年したベースの牧と「最後の思い出に、ホーンを入れたビッグバンドスタイルで派手なライブをやろう」と。それで1979(昭和54)年11月に早稲田大学大隈記念講堂の小ホールでジャンプブルースの大編成バンドを初めてやりました。それが「The Swinging Boppers」です。




卒業記念のThe Swinging Boppers。45年を経て今なお絶好調

――たった1回だけの卒業記念のはずだった「The Swinging Boppers」が、なぜ終わらなかったのですか。


厳密には1回じゃなくて、卒業の年に東京大学農学部の農学部祭でもやってます。野外のグラウンドみたいなところで20分だけ。途中から雨が降ってきて「やばいやばい、テンポ速めよう」みたいな感じ(笑)。そして本当に卒業の直前にもう1回だけ「JIROKICHI」でもやらせてもらいました。


「The Swinging Boppers」結成当初のころの写真。日付が1979年11月と印字されている「The Swinging Boppers」結成当初のころの写真。日付が1979年11月と印字されている


――そこで解散したんですか。


いったん終わりました。卒業して牧が故郷へ帰るって言うんで、新幹線のホームまで送りに行ったんです。「じゃあな。元気でな」って。でもなぜか新幹線は故障で出なくて、「じゃあ」って飲みに行って。牧は翌日1人で新幹線で帰りました(笑)。で、わりとすぐに牧が東京に戻ってくることになった。「戻ってくるなら、またやんない?」って言って、やっぱり「JIROKICHI」でやるんですよ。そこからですね。


――よくあるストーリーとしては家族の反対で音楽を諦め、卒業コンサートで音楽人生を終え、あとは会社人生まっしぐら、となると思うんです。でもそうならずバンドを40年以上も続けるのってすごいと思います。そこにはバンド継続への強い思いや、続けることができる秘策などがあるんですか。


それはね、単に運が良かったんです、僕たちは。それは力説しますよ。


例えば僕の仕事は、休みの日にゴルフ接待させられる職場でもなかったし、いわゆるブラックではなかった。だから何とか休める。とは言いつつも、何回か葬式を偽装してますよ。「あれ? この前も法事なかったか?」みたいな(笑)。それぐらい何とか、ほんとにギリギリで続けられました。たぶん他のメンバーも同じだと思います。


もうひとつは、大人になってから集めたバンドじゃなくて、みんな学生時代の友達、というのが良かったんじゃないかな。演奏が終わったら飲む。それが何より楽しいですから。それが今も続いている秘訣かもしれません。


――ではメンバーはあまり変わらないですか。


最初のアルバムからカウントすると12人中9人がオリジナルメンバーですから、メンバーの残存率はかなり高いですね。これはありがたいところです。


現在の「吾妻光良& The Swinging Boppers」現在の「吾妻光良& The Swinging Boppers」


――社会人でバンドを継続するだけでも大変なのに、12人の大所帯となるとなおさらですよね。


昭和は遠くなりにけりですが、昔は特に大変でした。パソコンとかメールとかSNSとかないですから。ちょっとした練習の日程も、ライブの日程も、全部電話。電話は地獄ですよ。俺と牧で5人ずつ電話するんだけど、奥さんに嫌がられたりね。ドラムの岡地曙裕(おかち・あきひろ)の家に電話すると、親父によく怒鳴られました。


――いろんな困難を乗り越えてここまできたわけですね。


そのあたりは馬力で乗り越えた感じはありますね。


ギタリストの吾妻光良さん


――ところで「吾妻光良& The Swinging Boppers」は、アマチュアとはいえレコードが今回で9枚目。こんなにレコードを出しているのはすごいですね。


それもラッキーなんですよ。最初にVIVID SOUND(ヴィヴィッド・サウンド)*6からレコードを出した時は社長が昔からの知り合いで、「面白いよ。出そうよ、出そうよ」って言ってくれたのがきっかけでした。


*6 VIVID SOUND:東京にあるレコード会社ヴィヴィド・サウンド・コーポレーションによるインディーズレーベル。


――「吾妻光良& The Swinging Boppers」の曲は日本語の歌詞がユニークですよね。「極楽パパ」とか「おれの家は会社」とか。日本語でブルースを歌うようになったきっかけはなんですか。


昔、優勝するとスイスで開催されるモントルー・ジャズ・フェスティバルに行ける、というコンテストがあって、応募にはオリジナル曲が必要でした。英語に自信がなかったので、日本語で「極楽パパ」という曲を作ったんです。それが最初。コンテストはダメでしたが、ライブでやるとめちゃくちゃウケるので、日本語の曲が増えました。




プロ入り宣言。そして9枚目のアルバム「Sustainable Banquet」のリリース

――2021年には、ついに「プロ入り宣言」をされましたね!


まぁ、単に定年になったからなんですが(笑)。ある人から、退職のあいさつのハガキに「退職後はプロ入りします」って書いてくださいよと言われて、「そんなバカなこと書けるかよ」って言ったんだけど、もし本当に書いてあったらシビれるなぁと思って。そう書いたハガキを300枚くらい出しました。


それとプロ入りのタイミングがコロナ禍で、お世話になっている「JIROKICHI」でライブができないので、いろんな人のインタビューを配信していたんです。それで「吾妻光良 プロ入り宣言」っていう動画を撮ってもらうことになり、所有ギターを10本ぐらい持っていきつつ、プロ入りの話をさせてもらいました。


【ブルーズ界の偉人、会社員時代のトラブル暴露。所有の珍しいギターコレクションも披露】


ギタリストの吾妻光良さん


――「吾妻光良& The Swinging Boppers」のニューアルバムについて教えてください。


また出すのか、と言われつつ(笑)、2024年11月20日に5年半ぶりのアルバム「Sustainable Banquet」を出しました。通算9枚目になります。



アーティスト名:吾妻光良&The Swinging Boppers
タイトル:「Sustainable Banquet」
発売日:2024年11月20日(水)
発売元:Sony Music Labels
通常盤 [CD] MHCL-3059 / 3,300円(税込)
https://www.110107.com/boppers


吾妻光良 & The Swinging Boppers アルバム『Sustainable Banquet』ティザー映像


――レコーディングで心に残っているエピソードはありますか。


昔からそうですけど、我々は理想が低いんですよね(笑)。バーっと全員で一緒にやらないと録(と)れないんです。一発録りで演奏するんですけど、一発で完璧な演奏ができるわけがない。特に管楽器は8人もいるから、誰かが間違える。ミスったら録音後に自己申告するんだけど、みんなでその演奏のプレイバックを聞いて「ああ、このくらいなら雑味、雑味」とか言ってそのままにしようとするんですよ。もう一回録ると、次は自分が間違えるんじゃないかって思うから(笑)。


吾妻光良 & The Swinging Boppers - レコーディング・メイキング映像




最後まで楽しもう、そして打ち上げでまってるぜ!

――「吾妻光良& The Swinging Boppers」としての今後の目標を教えてください。


なるべく長く健康を維持するぐらいですかね。やっぱり健康じゃないと続けられないですから。いつかは辞めざるを得ない時もくるでしょうけど、それまでなるべく楽しもうと。最後まで。


――やっぱり「最後まで楽しもう」がキーワードですか。


いや「打ち上げで待ってるぜ」ですね。最後まで楽しんで、打ち上げをしようという。アルバムタイトル「Sustainable Banquet」も、持続可能な宴会って意味ですからね。バンドでライブやって、終わったら飲みに行く。それ以上楽しいことって、あまりないですから。これをぜひ続けていきたいです。


最後まで楽しもう


こないだメンバーで「打ち上げって葬式のことか」って言ったやつがいて、それは違うだろうって言ったんだけど、それって全くないわけじゃなくてね。不祝儀な話で申し訳ないけど、先日「ロック・クライミング」にいたブルースギタリストで文筆家でもある小出斉(こいで・ひとし)が亡くなって、それがものすごくショックで......。


数カ月前にも会っていたから「なんでいきなり逝っちゃうんだ」って。挨拶もしないで帰っちゃったみたいな。「おい、打ち上げぐらい出ろよ」って気持ちになった。だからみなさん、健康に気をつけて、できるだけ長く音楽を楽しみましょう。そして打ち上げで待ってるぜ!


ギタリストの吾妻光良さん


吾妻光良 & The Swinging Boppers『打ち上げで待ってるぜ』(Full ver.)



――お体をいたわりつつ、今後のさらなるご活躍を期待しています。本日はありがとうございました。


※記事の情報は2024年12月17日時点のものです。

  • プロフィール画像 吾妻光良さん ギタリスト〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    吾妻光良(あづま・みつよし)
    ブルースギタリスト
    1956年、新宿生まれ。高校、大学を通じてバンド活動を行い、永井隆の「ブルー・ヘヴン」や妹尾隆一郎のバンドにも参加。大学在学中の1979年に卒業記念として「The Swinging Boppers」を結成。会社員との二足の草鞋で音楽活動していたが、2021年に晴れてプロ入り。「吾妻光良トリオ+1」やソロでもライブを行っている。文筆家として著書『ブルース飲むバカ歌うバカ』がある。

    吾妻光良&The Swinging Boppers
    公式サイト https://s-boppers.com
    X https://x.com/BoppersStaff

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