反田恭平 | 指揮者になりたくてピアノを極めた

音楽

反田恭平さん ピアニスト・指揮者〈インタビュー〉

反田恭平 | 指揮者になりたくてピアノを極めた

2021年10月、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」(以下、ショパンコンクール)で、日本人として約50年ぶりの第2位入賞を果たした反田恭平さん。日本では"最もチケットの取れないピアニスト"といわれるほど高い人気を誇り、日本のクラシック界をけん引するお一人です。インタビュー前編では、子どもの頃のお話、留学時代の思い出、ショパンコンクールでのエピソードについてお話しいただきました。

友達と会いたいからピアノ教室に通っていた

──子どもの頃はどんな少年でしたか。


母親いわく、お腹にいる頃から元気で活発な子だったそうです。そのせいではないですが、逆子(さかご)でへその緒が三重に絡まり帝王切開で生まれました。1回脈がなくなり、仮死状態にもなったそうです。生まれてからも落ち着きがなかったようで、2歳くらいの時に習っていたバイオリンの先生から、母は「人の話を聞かないし、じっとしていられなくて練習にならないから、他のことをやった方がいいのでは」と言われていたみたいです。


──サッカー少年でもあったのですよね。


サッカーは2歳から始めて、4、5歳の頃に住んでいた名古屋のドームで試合をしたりしました。その時からキャプテンとして、チームのみんなに指示していました。しっかりした子ではあったんです。


──どのようなきっかけでピアノを始めたのですか。


当時の名古屋では社宅住まいで、僕と同い年くらいの子どもたちとみんなでピアノの体験教室に行くことになり、母親に無理やり連れて行かされました。その時はピアノにあまり興味がなくて、友達と一緒にいると楽しいから行くという気持ちのほうが強かったです。友達と会いたいがゆえに通っていました。


反田恭平さん



──コンクールに出場されたのはいつからですか。


8歳の時からコンクールには幾つか出ていたんです。でも、行けても地区予選の「奨励賞」止まり。今振り返れば、あの時はちゃんとピアノを練習していなかったから、当然だよなって思います。周りの子たちは小さい頃から1日何時間も練習してきているけど、僕はサッカーばかりしていて。ピアノは2週間に1回、30分のレッスンから始まり、家で弾くのもせいぜい1日45分から1時間くらいの幼少期でしたから。


──その時はピアノを好きではなかったのでしょうか。


自分が弾くと周りの人が喜ぶから弾いていたという感じで、心の底から楽しいとは思いませんでした。サッカーの方が楽しかったのですが、11歳の時に試合の途中で手首を骨折してしまい、ピアノが弾けない時間が増えたんです。その時、弾けないと意外と寂しいものだなと気づきました。常日頃近くにあったものだからこそ、分からなかった感情が芽生えるわけです。そこでピアノとサッカーのどっちを選ぶかを考え、けがをしないピアノを選びました。


ちょうどその頃、親の転勤のため小学1年生で東京へ引っ越して以来、ずっと習っていた先生に「僕が教えられることはもう何もないから、もっとちゃんとしたところに行った方がいい」と勧められました。普通は良い生徒がいたら自分のところで育ててコンクールに入賞させ、自分の功績にする先生が多いと思いますが、その先生は違ったんです。それで桐朋学園の音楽教室に編入しました。




指揮者を体験し「この世界で生きたい」と決意

──サッカーではなくピアノを選び、本格的に取り組み始めたのはそこからですか。当時の出来事や心境について教えてください。


12歳の時、母親の勧めで指揮者の曽我大介先生による、指揮者を体験する子ども向けのワークショップを受けて、オーケストラを指揮する機会をいただきました。指揮台に上がって、プロのオーケストラ70人くらいを前に、チャイコフスキーの「白鳥の湖」から「チャルダッシュ」という曲を振りました。その時の衝撃がものすごく大きかったんですよね。


子ども相手でも真剣に寄り添ってくれて、指揮を少し変えるだけで大きく音が変わって。僕が振ったらちゃんと音楽になって「できるじゃん!」と自信にもなったし、音圧がピアノよりはるかに大きくて、ホールに鳴り響く音楽にすごく感動しました。その瞬間、この世界で生きていきたいと初めて思ったんです。


曽我先生に指揮者になるにはどうすればいいかをうかがったら、「楽器を1つ極めなさい。君はピアノをやっているのだから、まずはピアノを極めてから指揮をやり始めてみてはどうかな」と言われ、じゃあ自他ともに認められるまで自分の中で極めようと思ったのが、12歳の時の決意でした。そこから本気でピアノに取り組み始めました。


反田恭平さん



──お父様は会社員で、音楽の仕事で生きていけるのかと心配し、その道へ進むことを反対していたそうですね。


そうなんです。父に「音楽の高校に行きたい」と話すと、「コンクールで1位を取ったら通ってもいい」と言われました。その半年間に出場できる全てのコンクールに出て1位を取って、桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)に進学したのですが、大学進学時にも反対され続け、奨学金をとって大学に進学しました。


──ひたむきに努力して夢を実現する強さは、今に通じるものを感じます。その頃から、目標を定めて忍耐強く取り組む性格だったのですか。


相当な負けず嫌いなんですよ。負けず嫌いは父親譲りで、頑固さは母親譲りです。小さい頃からずる賢さも持っていて、中堅向けも上級者向けも関係なく、あらゆるコンクールを全部受けて「取れるもので取っちゃえ! 絶対1位取ってやる!」って。最初に取ったのは1位該当者のいない「最高位」で、父に賞状を見せたら案の定「1位ではないからだめ」と言われ、また別のコンクールを受ける......という繰り返しでした。ただその期間に受けたものは全て1位を取りました。




ヴォスクレセンスキー先生との出会い

──高校卒業後は、2013年に桐朋学園大学音楽学部へ入学するも、その年の9月にロシアへ留学されました。留学を決意したのはなぜでしょうか。


ミハイル・ヴォスクレセンスキー先生の公開レッスンを受ける機会があり、その時に先生から「モスクワで勉強しないか」とお誘いいただきました。留学したいと考えていましたので、その場で「yes!」と即答させていただきました。


──2014年には、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院に首席で入学、2017年からはフレデリック・ショパン国立音楽大学の研究科に在籍されました。留学中の学びや思い出について教えてください。


留学して一番良かったことは、ヴォスクレセンスキー先生と出会えたこと。いつも僕のことを家族のように思ってくれて、週末には先生の車で別荘へ行き、みんなで鶏を炭火で焼いて食べたりお酒を飲んだり。そういう交流もよくやってくれましたし、何かあったらすぐに助けてくれる義理人情に厚い、温かい先生でした。


ある時、先生から「ロシアピアニズム(ロシアの伝統的な奏法)が薄れてきている中、若い世代に教えていくのが僕の役目。君にはそれを教えているから、日本に帰って自分の生徒ができたら伝えなさい」と言われたのがすごくうれしくて、今でもその言葉は心に留めています。責任感も芽生えたし、やらなければならないことの1つだと強く思っています。


反田恭平さん



──留学での経験はショパンコンクールに通じる面もあったのでしょうか。


ショパンコンクールが終わった後、先生がニュース番組の取材で僕のことを自慢してくれて、「このコンクールの結果は少なからず僕のレッスンの影響があると思う」って話していましたが、本当にそう。ロシアの伝統を引き継いだ奏法を、ショパンの音楽に合うように咀嚼(そしゃく)して求めていった結果があのステージでしたから。


ヴォスクレセンスキー先生は今年87歳になります。ショスタコーヴィチ*1と仲が良かったので、ショスタコーヴィチが実際に話した言葉をそのまま伝えてくれることもありました。伝記を読むより圧倒的に重みがありますよね。今思えば運命的なのかもしれませんが、ヴォスクレセンスキー先生の先生が「第1回ショパン国際ピアノコンクール」の優勝者、レフ・オボーリンなんです。その頃からショパンの音楽へのルーツがありましたし、門下にショパン弾きは多いですね。


ちなみにオボーリンの先生の先生がアレクサンドル・ジロティといって、ラフマニノフ*2のいとこです。そうした著名なピアニストが名を連ねる系統の門下だったので、伝統は強く深く刷り込まれました。


*1 ショスタコーヴィチ:ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(SHOSTAKOVICH, Dmitry Dmitrievich)。1906-1975。20世紀の交響曲の巨匠として知られるロシアの作曲家。代表曲に、交響曲 第1~15番、弦楽四重奏曲 第1~15番など。


*2 ラフマニノフ:セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninoff)。1873-1943。ロシアのピアニスト、作曲家、指揮者。代表曲に、ピアノ協奏曲 第1~4番、パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43など。




1回だけでも死に物狂いでやって、そこから出てくる音を聴いてみたい

──ショパンコンクールへの出場を決めたのはなぜですか。


デビューしてから幸いにも、オーケストラともたくさん共演させていただき、自分自身の思い描いていることが少しずつできるようになってきていました。周りに助けられながらも環境が整ってきており、演奏家としてはある意味では恵まれたと思います。ただ、どうしても日本国内ではなく、世界に出ていきたい、世界の一流オーケストラに呼ばれて弾きたいという思いがとても強かったんです。


人生の1、2回はどこかで勝負をかける瞬間が来るだろうと小さい頃から思っていたので、1回だけでも死に物狂いでプレッシャーやストレスを抱えてやって、そこから出てくる音を聴いてみたいという思いもありました。


──ショパンコンクール当日、日本人の本選進出に期待が高まり、日本でもクラシック愛好家を中心にSNSなどで大いに盛り上がりました。振り返ってみて心境はいかがでしょうか。


実感が湧くまで1カ月くらいはかかりました。自分が追い求めていた舞台に上がることすら、まず現実味がなかった。今まで配信で見ていたあの場所がここなのかと不思議な感覚になりました。


▼第18回ショパン国際ピアノコンクール 本選(ファイナル)


当日は日本人の方もたくさん現地時間に配信を見てくださいました。いろんなコンクールがありますが、ショパンコンクールは再生回数がけた違いに多いので、やっぱりどのコンクールよりも特別だなと改めて実感しています。コンクールが終わってから、僕のことを全く知らなかった、ピアノに興味のない方までコンサートに来てくださったり、読めない文字の国の方からコメントをいただいたりして、それはとてもうれしいです。僕が以前から思い描いていた"世界で活躍してなんぼ"という話につながるような、本当に景色が変わったと感じた瞬間があって、それだけ大きな影響力があったんだなと思います。


──6年前から出場を決めていたそうですが、長い期間どのように前向きな気持ちを保っていたのですか。


あまり考えないようにしようと心がけていました。とはいえ考えてしまうこともあって、「他人は他人、自分は自分」と強く思っていましたね。母に昔から言われていたんです。「あの子はあの子、あなたはあなた」って。それが耳に残っていて、それを自分に言い聞かせて、ポジティブに前を向いて生きてこられたと思います。


ポーランドでは、日本にいる時よりもプレッシャーから解放されました。まずSNSが海外時刻設定だと、海外のニュースばかり流れてくるので、ショパンコンクールの話題をあまり見なくてすむ。2つ目に、開催国だからこそ、僕よりもプレッシャーを背負っているポーランド人の参加者を目の前にすると、ポーランド人じゃないだけでも良かったなと思うから。予選の途中で棄権しちゃうくらい重圧を受けている子もいます。そんな人たちを近くで見ていたので、それと比べたら自分の受けているプレッシャーは小さいものだと思うようにしていました。


反田恭平さん



後編はこちら



◆コンサート情報
反田恭平プロデュース Japan National Orchestra 2022ツアー
2022年11月2日 @岐阜 可児市文化創造センター
   11月5日 @岐阜 サラマンカホール
   11月9日 @福島 ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂)
   11月10日 @秋田 アトリオン音楽ホール
   11月11日 @岩手 岩手県民会館 大ホール
   11月15日 @静岡 静岡市民文化会館   他
詳細:https://www.jno.co.jp/

横浜音祭り2022クロージングコンサート 反田恭平&Japan National Orchestra
2022年11月6日 @神奈川 横浜みなとみらいホール 大ホール
https://yokooto.jp/program/22002/

読売日本交響楽団 第623回定期演奏会
2022年12月12日 @東京 サントリーホール
https://yomikyo.or.jp/concert/2022/01/623-1.php



◆著書

初の自叙伝エッセイ「終止符のない人生」

初の自叙伝エッセイ「終止符のない人生」
2022年7月21日発売
出版社:幻冬舎
反田さんのコンサート会場では、会場限定カバー版を販売



◆CD

アルバム「反田恭平 凱旋コンサート サントリーホールライブ」

アルバム「反田恭平 凱旋コンサート サントリーホールライブ」
2022年7月27日発売
iTunes Store / Spotify



◆ラジオ番組
MBSラジオ「反田恭平 Growing Sonority
毎週月曜18時より放送中



【取材協力】
スタインウェイ&サンズ東京

スタインウェイ&サンズ東京:外観

スタインウェイ&サンズ東京:内観スタインウェイ国内唯一の直営店。多くのモデルを試弾できるほか、コンサートやセミナーなどのイベントも開催している(画像提供:スタインウェイ&サンズ東京)


※記事の情報は2022年7月26日時点のものです。

  • プロフィール画像 反田恭平さん ピアニスト・指揮者〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    反田恭平(そりた・きょうへい)
    1994年生まれ。ピアニスト・指揮者。2021年第18回ショパン国際ピアノコンクールで日本では半世紀ぶりの第2位を受賞。2016年のセンセーショナルなデビュー・リサイタル以降、毎年定期的にリサイタルやオーケストラとのツアーを国内外で行っている。2018年からは室内楽や自身が創設したジャパン・ナショナル・オーケストラのプロデュースも行っており、2021年にはオーケストラのための新会社を立ち上げ、奈良を拠点に世界に向けて活動を開始した。2019年にはイープラスとの共同事業でレーベルを立ち上げ、2020年のコロナ禍ではいち早く有料のストリーミング配信を行ったり、ラジオのパーソナリティを務めるなどクラシック音楽の普及にも力を入れている。また若手音楽家とファンをつなぐコミュニケーションの場となる音楽サロン「Solistiade」も運営している。現在 F.ショパン国立音楽大学(旧ワルシャワ音楽院)研究科に在籍。ウィーンでは指揮の勉強を始めている。近著に「終止符のない人生」(幻冬舎/2022年7月21日発売)。

    反田恭平オフィシャルサイト
    https://kyoheisorita.com/

    ジャパン・ナショナル・オーケストラ
    https://www.jno.co.jp/

    オンラインサロン Solistiade
    https://solistiade.jp/

    YouTube
    https://www.youtube.com/channel/UCBnjvF0bRbyP2lX1qYc_aqA

    Facebook
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    Twitter
    https://twitter.com/kyohei0901

    Instagram
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