「政治の季節」のあとの新たな時代の幕開け | 1973年、ニューミュージック「生誕」の年へ【前編】

【連載】創造する人のためのプレイリスト

音楽ライター:徳田 満

「政治の季節」のあとの新たな時代の幕開け | 1973年、ニューミュージック「生誕」の年へ【前編】

ゼロから何かを生み出す「創造」は、産みの苦しみを伴います。いままでの常識やセオリーを超えた発想や閃きを得るためには助けも必要。多くの人にとって、創造性を刺激してくれるものといえば、その筆頭は「音楽」ではないでしょうか。「創造する人のためのプレイリスト」は、いつのまにかクリエイティブな気持ちになるような音楽を気鋭の音楽ライターがリレー方式でリコメンドするコーナーです。

J・POPは、その昔、「ニューミュージック」と呼ばれていた。その言葉の由来には諸説あるが、仮に荒井由実(あらい・ゆみ)が「ひこうき雲」でアルバムデビューした1973年を起点とすると、2023年でちょうど半世紀になる。今回は50年前にタイムトリップし、当時の社会状況とともに、ニューミュージックのどこが「新しい音楽」だったのか、現在のJ・POPとはどこがどう違っていたのか。前編と後編に分けて、時代を象徴する作品とともに考えてみたい。




1.チューリップ/心の旅


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前年の1972年2月に起きた「あさま山荘事件」がとどめとなり、1960年代後半から続いた「政治の季節」は終焉(しゅうえん)を迎えた。"祭り"が終わった後に高校生や大学生となった者たちは、物事を冷めた目で捉える「しらけ世代」と呼ばれるようになった。


だが、彼らを生んだ時代は、それ以上にシビアで残酷だった。1973年1月に公開され大ヒットした映画「仁義なき戦い」は、親分や子分、兄貴や舎弟を平気で裏切る、やくざ社会の現実を描いたもの。そして2月4日には、東京・渋谷のコインロッカーから赤ちゃんの死体が発見された。まさに、義理も人情も、親の愛情すらない時代――そんな1973年の4月20日にリリースされたのが、チューリップ3枚目のシングル「心の旅」である。


この頃まで、日本で売れている音楽の大半は、職業作詞家・作曲家が書いたものを編曲家がアレンジし、歌手が歌う「歌謡曲」だった。いっぽう、「心の旅」はチューリップのリーダーである財津和夫(ざいつ・かずお)の作詞・作曲で、メンバーの姫野達也(ひめの・たつや)が歌っている。


こうした「自作自演」アーティストは、すでに数多くデビューしていたが、オリコン10位以内に入った日本人アーティストは、この時点では1968年のザ・フォーク・クルセダーズと1972年の吉田拓郎(よしだ・たくろう)のみだった。


イントロがなく、いきなりサビから入るという構成は、全体のアレンジともどもビートルズに強く影響を受けてはいるが、当時としては斬新。愛する相手を残して旅立つという内容の歌詞も、新たな時代の幕開けを予感させた。



2.サディスティック・ミカ・バンド/ピクニック・ブギ


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「心の旅」の約2週間後にリリースされたのが、サディスティック・ミカ・バンドの1stアルバム「SADISTIC MIKA BAND」だ。ミカ・バンドは前年の1972年6月にシングル「サイクリング・ブギ/オーロラ・ガール」でデビューしているが、この時のドラムスは角田ひろ(現・つのだ☆ひろ)。その後、角田が脱退し、このアルバムの時点では、今年1月に亡くなった高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)に代わっている。


今回紹介する「ピクニック・ブギ」は、アルバムと同時発売のシングル「ハイ・ベイビー」のB面曲でもあるが、当時米英でヒットを連発していたT・REXに代表されるグラム・ロック*1サウンドを取り入れたストレートなロックンロール。ミカの破壊的ボーカルもインパクト大で、なぜこれがA面でなかったのか不思議に思えるほど、今の耳で聴いても、とてもキャッチーでノリのいい曲である。


メジャー(長調)コードのみで作られており、歌詞の内容ともども、「心の旅」にあったようなウェットさや歌謡テイストは皆無。おそらくそれが理由なのだろうが、当時はシングルもアルバムも数千枚しか売れなかったという。


しかし、イギリスで発売されるや評判となり、1974年のクリス・トーマスプロデュースによる大傑作アルバム「黒船」や、1975年のロキシー・ミュージックとのイギリス・ツアーに結びつくのだった。


*1 グラム・ロック:1970年代前半にイギリスで流行したロックのジャンル。「グラム」は"魅力的な"という意味の「グラマラス(glamorous)」を語源としている。音楽性というより、派手な衣装や化粧といったルックスが特徴のアーティストによる音楽を指すことが多かった。代表的なアーティストは、T・REX、デヴィッド・ボウイなど。



3.細野晴臣/薔薇と野獣


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政治の季節は終わったが、その渦中にいた「全共闘世代」の若者の中には、アメリカのヒッピーのように都会を離れ、自然の中で仲間と小さな共同体(コミューン)をつくることで、静かに社会を変えていこうとする動きもあった。


はっぴいえんど解散後、ソロとなった細野晴臣(ほその・はるおみ)の1stアルバム「HOSONO HOUSE」が発売されたのは1973 年5月25日。これは、細野が前年秋に都心の実家から移り住んだ埼玉県狭山(さやま)市の米軍ハウス(一般に有料で貸し出していた)で録音したものだ。


全共闘世代に属する細野自身は、政治にも学生運動にも無縁だったが、米軍ハウスのあった通称アメリカ村周辺には小坂忠(こさか・ちゅう)や西岡恭蔵(にしおか・きょうぞう)などの音楽仲間も移住してきており、結果的に一種の音楽コミューンを形成していたとも言える。


現在では名盤として語られる「HOSONO HOUSE」も、当時の売り上げ枚数はサディスティック・ミカ・バンドの1stと大差はなく、21世紀を迎えるまでは細野本人の評価も低かった。だが、このアルバムの実質的ラストを飾る「薔薇と野獣」には、細野がのちに語ったような、そうした音楽コミューンがしょせんは幻想でしかなかったことに気づき、都会に戻らなければいけないと感じている心境が、トレモロ*2の効いたローズ・ピアノの旋律とともに表現されている。それは、当時の若者たちが共通して持っていた不安ではなかっただろうか。


*2 トレモロ:「震える音」の意味。ある1つの音、あるいは複数の音を素早く反復させる効果のこと。



4.吉田拓郎/ビートルズが教えてくれた


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「HOSONO HOUSE」発売の1週間後となる1973年6月1日、吉田拓郎4枚目のスタジオ・アルバム「伽草子(おとぎぞうし)」がリリースされた(この時期のアーティスト名は「よしだたくろう」)。


吉田拓郎は、2カ月前の4月18日、小室等(こむろ・ひとし)や柳田ヒロ(やなぎだ・ひろ)らと結成した新六文銭(しんろくもんせん)の金沢公演の際に女子大生へ暴行したとして、5月23日に逮捕されている。その後、その暴行が被害者とされた女性のうそと分かり彼は釈放されたが、それが「伽草子」のリリース翌日のこと。1973年は自身最高のセールスとなるアルバム「元気です」を出した翌年であり、吉田拓郎の存在自体が社会現象となっていた時期ゆえの「事件」だったと言える。


「伽草子」は、そうした人気絶頂時にしては地味な内容で、のちに代表作と称される曲もないものの、当然のようにオリコンのチャート1位を獲得している。


吉田拓郎については2022年限りで音楽活動を引退したこともあって、改めていろいろな場所で語られており、筆者が今さら付け加えることはないが、アイドルが歌っても、「ああ拓郎だ」と感じさせる、唯一無二のメロディーメーカーだと思う。


今回、「ビートルズが教えてくれた」を選んだ理由は、歌詞である。作詞は、70年代を通じて拓郎のよきパートナーだった岡本おさみだが、解散から3年、ようやくビートルズを振り返る作品が生まれた。それは、前の時代=60年代を対象化(当時の言葉で言えば「総括」)できたということにほかならない。



5.キャロル/ファンキー・モンキー・ベイビー


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1973年6月25日に発売された、キャロル7枚目のシングルが「ファンキー・モンキー・ベイビー」である。


キャロルは前年の12月にシングル「ルイジアンナ」でデビューしたので、この1973年が実質的なデビュー年ということになるが、この「ファンキー・モンキー・ベイビー」は実に30万枚を売り上げ、彼らの最大のヒットとなった。


前述のように、サディスティック・ミカ・バンドの「ピクニック・ブギ」はわずか数千枚。同じようなロックンロール・スタイルなのに、この落差はなんだろうか。それは「分かりやすい」かどうか、だったと思う。ミカ・バンドは、当時は一部の音楽ファンしか知らなかったグラム・ロックスタイルだが、キャロルはビートルズのハンブルク時代、つまりシンプルなロックンロール・スタイルで、歌詞は若い男女のラブソング。見た目も黒の革ジャンにリーゼントと誰もがまねしやすく、なんでも形から入る日本人にはうってつけだったと言える。


目を転じるとこの時代は公害の時代でもあった。1960年代に起こった水俣病やイタイイタイ病、そして1970年代には光化学スモッグや田子の浦のヘドロの問題、東京湾の魚介類から基準値を上回るポリ塩化ビフェニール(PCB)が検出されるなど、全国各地で公害による惨状が日常的にニュースで報じられていた。1964年の東京五輪の頃のようなバラ色の未来はもはや描けず、先の見えない不安が、澱(おり)のように時代を覆っていた。


キャロルを熱狂的に受け入れた若者たちは、無意識のうちに、そうした不安から逃れようとしていたのかもしれない。



6.りりィ/なぜ


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「ファンキー・モンキー・ベイビー」発売から10日後、7月5日にリリースされたのが、りりィの2ndアルバム「Dulcimer(ダルシマ)」である。りりィの母は日本人だが、父は朝鮮戦争で戦死したアメリカの空軍将校だという。彼女は、前年の1972年2月にアルバム「たまねぎ」でデビューしているが、これは後編で紹介する荒井由実(1972年7月にシングルでデビュー)や五輪真弓(いつわ・まゆみ:1972年10月にシングル・アルバム同時デビュー)よりも早い。


そして、2ndアルバムとなる「Dulcimer」は全曲りりィの作詞作曲。元ジャックスの木田高介(きだ・たかすけ)による編曲、ギターの水谷公生(みずたに・きみお)や石川鷹彦(いしかわ・たかひこ)らのプレイも冴え、彼女自身の最高傑作というだけでなく、ニューミュージック~J・POP史上に残る名盤となった。


りりィは、自分で歌うつもりではなかったという翌1974年の「私は泣いています」で一般に知られている。だが、自分の悪いところは直します、といった演歌的な女性像が感じられるこのヒット曲よりも、あなたのために私が悩み苦しまなければならないのは嫌だ、好きな相手がほかの女と遊ぶなら私も同じことをする、という本音が、16ビートのリズムで切り裂くようなギターソロと交互に歌われる「Dulcimer」のラストチューン「なぜ」の方に、りりィらしさ、新しい女性の姿が表現されている。



7.ガロ/ロマンス


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1973年8月25日に発売された、ガロ6枚目のシングルである。
約1カ月前の7月20日、日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線による、「ドバイ日航機ハイジャック事件」が起きる。そして8月8日、金大中氏(のちの韓国大統領)が東京都内のホテルで誘拐される「金大中事件」が発生。不穏さが世の中を覆っていた。


ガロは、「和製CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)」とも呼ばれる、美しいコーラスワークが特徴の3人グループとして1971年にデビューした。1972年6月にシングルB面として発売された「学生街の喫茶店」が、1973年になってオリコン1位を7週連続で獲得。人気沸騰の渦中で発売された「ロマンス」はオリコンチャート最高3位、28万枚を売り上げる。


「学生街の喫茶店」も「ロマンス」も、作詞は歌謡曲畑の作詞家・山上路夫(やまがみ・みちお)によるものだが、前者が終わった恋愛を60年代の思い出とともに感傷的に振り返っているのに対し、後者は大恋愛のさなかに未来を夢見る、60年代ポップス的な歌詞。一見、時系列的には逆ではないかと思うが、メンバーの堀内護(ほりうち・まもる)によるメロディーはマイナー(短調)というところが、詞の内容を遠い日の夢のように印象づけている。


批評的な現実世界が60年代的な明るさから離れていけばいくほど、せめて歌には理想を――という大衆、特に女性たちの願望が、ヒットにつながったのかもしれない。


※記事の情報は2023年4月4日時点のものです。


後編へ続く

  • プロフィール画像 音楽ライター:徳田 満

    【PROFILE】

    徳田 満(とくだ・みつる)
    昭和映画&音楽愛好家。特に日本のニューウェーブ、ジャズソング、歌謡曲、映画音楽、イージーリスニングなどを好む。古今東西の名曲・迷曲・珍曲を日本語でカバーするバンド「SUKIYAKA」主宰。

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