クリエイターたちが旅に出て手にしたもの

【連載】創造する人のための「旅」

旅行&音楽ライター:前原利行

クリエイターたちが旅に出て手にしたもの

"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。何不自由のないコンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが海外旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の記事で書かれている内容や画像は2018年以前の紀行をもとにしたものです。

時代もジャンルも異なるクリエイターたちが、それぞれ自分自身のターニングポイントとなった異国への旅を紹介します。パリというモダンシティに刺激を受けたヘミングウェイ、キャリアの転換となったデヴィッド・ボウイのベルリン行き、そして"脱サラ"してイタリアへ向かったゲーテです。


カフェで過ごす青春/ヘミングウェイのパリ

「幸運にも若い頃にパリですごすことができたなら、どこですごそうともその後の人生にパリはついてくる」(『移動祝祭日』より ヘミングウェイ)

1920年代、ヘミングウェイのほかサルトルやボーヴォワール、画家のピカソ、モディリアーニ、藤田嗣治、詩人のコクトー、写真家のキャパなどが集っていたモンパルナスのカフェ・ル・ドーム。1920年代、ヘミングウェイのほかサルトルやボーヴォワール、画家のピカソ、モディリアーニ、藤田嗣治、詩人のコクトー、写真家のキャパなどが集っていたモンパルナスのカフェ・ル・ドーム


1918年に第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの列強は軒並み没落しアメリカが唯一の超大国になっていました。世の中の価値観も大きく変わりましたが、その頃アメリカの若手作家たちの間では、パリを訪れるのが流行していました。戦争によって青春を奪われた「ロストジェネーレション」と呼ばれる人々です。


アーネスト・ヘミングウェイは第一次世界大戦に従軍した後、戦後の1922年に特派員としてパリに渡ります。翌年、スペインのバンブローナで闘牛に魅了されたヘミングウェイは、その後も友人たちと何度もスペインを訪れ、その時の体験を基に1926年に初の長編小説「日はまた昇る」を発表し、一躍注目を浴びます。ヘミングウェイ27歳の時でした。このパリ行きがなかったら、スペイン行きもなく、そして作家として成功することもなかったかもしれません。若きヘミングウェイは"行動派"の作家としてスペイン内戦にも身を投じ、後に事故で心身が不調になるまで、世界各地への旅を続けました。


ここも同じく1920年代にピカソ、モディリアーニ、藤田嗣治、コクトーなどが集っていたモンパルナスのカフェ・ラ・ロトンド。レーニンやトロツキーも常連だったという。ここも同じく1920年代にピカソ、モディリアーニ、藤田嗣治、コクトーなどが集っていたモンパルナスのカフェ・ラ・ロトンド。レーニンやトロツキーも常連だったという


ヘミングウェイがパリで出入りしていたのは、モンパルナスやサン・ジェルマンのカフェです。そこで彼は同じアメリカ人作家のフィッツジェラルドや画家のピカソ、マティスなど時代の寵児たちに出会いました。このあたりのことは、ヘミングウェイの死後に発表された「移動祝祭日」に生き生きと描かれています。


パリはフランスであってフランスではない、コスモポリタン的な、特別な場所です。それはパリ以外のフランスに行った時によく分かります。私が初めてパリを訪れたのは、革命200年祭に沸く1989年の6月末。私は28歳で、最初に勤めた会社を辞め、次の仕事に就くまでの空き時間を利用しての旅でした。その時泊まっていたのは、モンマルトルの丘の中腹にある「オテル・デザール (Hotel des Arts)」というホテルです。 "芸術ホテル"という名のその安宿には、画家の卵や近くのバレエスタジオに通う日本の若者も多く泊まっていました。


そんな彼らと話をし、近くにあるカフェを毎日訪れて地元気分を味わううち、ふだんは眠っている自分の中のクリエイティブな部分が引き出されていくのを感じました。カフェに集う人たちもそこにいる自分も、物語の登場人物のような気がしてくるのです。物語の人物なら、ふだんはできないこともできそうに感じませんか? パリのカフェにはそんな魅力があるのです。ヘミングウェイたちが夜な夜なカフェに集ったのも、いつかは自分たちが伝説になることを望んでいたのかもしれません。


デヴィッド・ボウイとベルリン

1989年7月のブランデンブルク門。ベルリンのシンボルともいえる門だが、東西ベルリンの境界線が門のすぐ西側にあったため、通行が再びできるようになったのは、壁崩壊後のことになった。1989年7月のブランデンブルク門。ベルリンのシンボルともいえる門だが、東西ベルリンの境界線が門のすぐ西側にあったため、通行が再びできるようになったのは、壁崩壊後のことになった


1976年、ロックスターのデヴィッド・ボウイは、それまで拠点にしていたロサンゼルスからベルリンへ移住します。長年の薬物中毒がたたり、ボウイは肉体的にも精神的にも疲労が極限に達していました。ボウイはドラッグや享楽的な人間関係を絶とうと決意したのです。それはボウイ29歳の時でした。


当時のドイツは冷戦体制のもと東西に分断されており、その象徴がベルリンの壁でした。この頃、ボウイの音楽的関心は、それまでの黒人音楽から電子音を使ったジャーマンロックに変化していました。プロデューサーとして起用したブライアン・イーノの影響も大でした。1976年9月から11月にかけてベルリンの壁近くにあるハンザ・スタジオで、ボウイはインストも多い実験的な野心作であるアルバム「ロウ」を録音します。当初その内容に関してレコード会社は難色を示したものの、翌年1月に発売されると全英2位のヒットとなります。5月には同スタジオで「ロウ」の姉妹作とも言える「英雄夢語り(ヒーローズ)」の録音も行われ、10月に発売されました(全英3位)。


デヴィッド・ボウイ「ロウ」



デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」


アルバムのタイトルトラックの「ヒーローズ」は、ボウイがベルリンの壁のそばで落ち合う若い男女の姿を見たことにインスピレーションを受けて作られた曲です。ベルリンの壁の向こうは東ドイツ(ドイツ民主共和国)で、銃を持った警備兵が目を光らせています。そんな緊張感と恋人たちの対比が想像力をかきたてたのでしょう。「ヒーローズ」はボウイの代表曲になりました。


ボウイの長いキャリアの中でも、このベルリン時代の作品が一番好きというファンは多いです。自由と抑圧のせめぎ合いの緊張感、希望と諦めが入り混じる街。そんな時代のベルリンだからこそ、ボウイをはじめとするクリエイターたちは刺激されて、彼らの分岐点とも言える傑作を生み出したのでしょう。

1989年7月、西ベルリンから東ベルリンへの国境検問所。国旗から、西ベルリンがまだ米英仏の共同管理下だったことがわかる。1989年7月、西ベルリンから東ベルリン市への国境検問所。国旗から、西ベルリンがまだ米英仏の共同管理下だったことが分かる


私が初めてベルリンを訪れたのは、パリを訪れたのと同じ欧州旅行中のことでした。1989年7月、革命200年祭が終わり、パリを出発した私はベルギーやオランダ、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)を観光しながら、西側の飛び地である西ベルリンに向かいました。当時はまだ冷戦の最中でドイツは東西2カ国に分かれ、東ドイツの領土内にあるベルリン市も"ベルリンの壁"が市を東西に分断していました。西ベルリンは、東側の海の中にぽっかりと浮いた小島のように存在していたのです。東ドイツの領土を夜行列車で抜け、西ベルリンのツォー駅に着くと、目の前にベルリン空襲で破壊されたままのカイザー・ヴィルヘルム記念教会の鐘楼が見え、ここがナチスドイツの終焉の地であることを思い出しました。


宿に荷を下ろすと、私はベルリンの壁を見に行きました。壁を上から見下ろすと、壁の向こうに東ベルリンが見えます。冷戦時代に育った私には"東側"は異世界ですが、むしろ印象に残ったのは、その手前にある緩衝地帯でした。無人の空間に、何匹もの野ウサギが自由に飛び跳ねていたのです。人なら命を狙われますが、ウサギは自由。そのギャップに、人が作ったルールがいかに自分たちを不自由にしているかを感じました。


翌日、私は東ベルリンの半日観光へ行ってみました。当時東ドイツ(ドイツ民主共和国)は東ベルリンの一部区域に限り、日中のみ訪問できるビザを出していたのです。東ベルリンで何を見たのかもはや覚えていませんが、強く記憶に残っているのは強制両替で得た東ドイツの硬貨でした。日帰り観光には30マルクの強制両替が必要だったのですが、西ドイツのマルク硬貨が日本の100円玉のように立派なものだとしたら、東ドイツのそれはまるで1円玉のように軽かったのです。それが経済の差を表すことは誰の目にも明らかでした。


その4か月後の11月9日、壁にある国境検問所がなし崩し的に開放され、翌日から壁の撤去が始まりました。ベルリンの壁が崩れたのです。そのニュース映像を日本でテレビを見ながら、私が気になったのは緩衝地帯にいた野ウサギたちでした。人々が往来の自由を手にしたように、ウサギもどこか好きなところに旅立ってほしいと願いました。

ハンザ・スタジオ

ハンザ・スタジオでは加藤和彦「うたかたのオペラ「(1980)、BOOWY「BOOWY」(1985)、U2「アクトン・ベイビー」(1991)など、多くのミュージシャンのキャリアの分岐点となったアルバムが作られている。

デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」 (公式ビデオ)




将来への危機感 ゲーテのイタリア旅行

「人が旅をするのは、目的地に到着するためでなく、旅をするためである」(ゲーテ)


ローマにある古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」。私が訪れたのは12月で、空はどんよりと曇っていた。ゲーテが訪れたのも冬。きっとこんな天気だったのかもしれない。ローマにある古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」。私が訪れたのは12月で、空はどんよりと曇っていた。ゲーテが訪れたのも冬。きっとこんな天気だったのかもしれない


1774年、25歳で「若きウェルテルの悩み」を発表し、青年作家として一躍人気が出たゲーテですが、その後、生活の安定を求めてヴァイマル公国の宮廷顧問に就職し、10年ほど公務を勤めます。しかし37歳になった時、ゲーテは「このままだと詩心が枯れてしまう」という危機感から無期限の休暇をとり、長年の夢だったイタリア旅行に出ます。


ゲーテはローマからナポリ、シチリアへと渡り、結局2年もイタリアに滞在してしまいました。ローマ時代の遺跡やルネサンス期の芸術に触れ大きな刺激を受けたゲーテは、やがてドイツ古典主義を代表する作家になります。古代ギリシャ・ローマに影響を受けたゲーテの「古典主義文学」は、イタリア旅行によって生み出されたと言っていいでしょう。

ゲーテがローマに向かう途中で滞在したヴェネチア。運河や街の様子は、当時とさほど変わっていないだろうゲーテがローマに向かう途中で滞在したヴェネチア。運河や街の様子は、当時とさほど変わっていないだろう


1989年の欧州旅行の後、私は旅行会社に再就職し、2度目の社会人スタートを切りました。しかし30代前半になると、人生に少し焦りを感じ始めます。友人たちが次々と結婚して家庭を持ち、仕事と家庭に専念する中、私はそのまま会社でがんばるか踏ん切りがつかなかったのです。1年半ほどもやもやが続いた後、仕事を辞めて、帰りを決めない旅に出ることにしました。35歳で、海外一人旅に出たのです。


シルクロードを横断して中央アジアを越えてインドへ。中近東の砂漠を越えてヨーロッパへ。紛争が終わったばかりの中東やバルカン半島、そしてアフリカ。30カ国以上を熱病に浮かされたように旅しました。


その旅は私に大きな刺激を与え、37歳で帰国すると現在も続くフリーライターの道を歩み始めました。自分のやりたいこと、できることが見つかったのです。会社員時代にすでに「これじゃない」感はずっとありましたが、旅に出ることで自分をリセットすることができました。その時は旅先に何か目的があったわけではありません。ゲーテの言うように、旅に出ること自体が目的だったのです。

いかがでしたか? 旅は単なる遊びではなく、知的好奇心を刺激し、新しい発想を得られる場所でもあります。次回も、そんな"ここではないどこか"へ、あなたをお連れしたいと思います。

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。

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