ギリシャへの旅(アテネとミコノス島)| 見知らぬ人々との出会いを求めて

【連載】創造する人のための「旅」

旅行&音楽ライター:前原利行

ギリシャへの旅(アテネとミコノス島)| 見知らぬ人々との出会いを求めて

"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。

新しいものを生み出し続けるのは大変だ。最初は自分でも新鮮に思えることでも、気を抜くとすぐにルーティーン化してしまう。旅行ライターの場合、取材旅行ではしなければならないことが多く、ある意味ルーティーンの旅になりやすい。だからそれから抜け出るためには、旅行前にはあまり決め事を作らず、現地での自由時間を増やしておくしかない。そこでたまたま興味を示し、脇道に入って行くのは大歓迎だ。それが後に記事になることもあるし、ならないこともある。運任せと言えば運任せだが、それも含めて旅なのだ。今回はそんな旅からギリシャの話を。




通り過ぎたギリシャ/コルフ島

歴史好きな自分がギリシャを旅するのは当然のことだった。世界史で慣れ親しんだ歴史や文化ももちろんだが、子どもの頃から読んでいたギリシャ神話やホメロスの叙事詩、古代を舞台にした映画の影響もあった。それらへの憧れが私を惹きつけたのだろう。それに写真や映画で見てきた、"青い海と白壁の町"を実際に目にしたかったこともある。


冬のコルフ島。観光客もおらず、寂しい感じだ冬のコルフ島。観光客もおらず、寂しい感じだ


最初にギリシャを訪れたのは1990年代半ばのこと。当時30代の私は、仕事を辞めて出た世界周遊の旅の途中だった。夏にヨーロッパ入りする予定が、遅れに遅れてイスタンブールに到着したのはもう冬の11月だった。冬のヨーロッパは天候が悪く日も短い。旅には向いていない季節だ。そこでこのときは、アドリア海の出口にあるコルフ島に寄るだけでギリシャはほぼ素通りし、翌年にまたリベンジすることにした。


コルフ島は当時愛読していた塩野七生の「海の都の物語」に登場する島だ。長い間ベネチア共和国領やイギリス領だったので、2つある城塞もベネチア時代のもの。ギリシャらしさは感じられなかったが、それが自分の初ギリシャだった。




旅人との出会い/ギリシャへの2度目の旅

アフリカやイタリアで冬を越し、再びギリシャを目指したのは翌年5月。ローマでアテネ経由カイロ行きの航空券を買い、途中降機しての1週間ほどの滞在だった。


スパルタの円形劇場の跡。古代はアテネと並ぶ強国だったが、今では小さな村にスパルタの円形劇場の跡。古代はアテネと並ぶ強国だったが、今では小さな村に


アテネからは日帰り、あるいは1、2泊で回れる半島部のスパルタやミケーネ、オリンピア、デルフィ、コリントスなどの古代遺跡へ足を延ばした。それらの都市国家が栄えたのは二千年以上前とあまりにも古く、当時を想像するのは難しい。きれいに復元された箇所もあったが、修復が雑なので公園に置かれた真新しいオブジェのように見えてしまう場所もあったのは残念だった。


5月のアテネの町は初夏の装いで、知り合った旅人たちと夜までカフェテラスで過ごすのが気持ちよかった。日本を出て1年。将来は白紙だったが自分も若かった。バブルは弾けていたとはいえ、当時それに気づいていた人がどのくらいいたのだろう。世の中もまだ楽観的な雰囲気だったのだ。


アテネのプラカ地区アテネのプラカ地区


アテネで泊まっていたユースホステルには何人か日本人がいたが、なかでも目を引いたのが大正生まれで当時70代の日本人Sさんだった。旅行者の間では有名な年金で旅するバックパッカーで、1人で世界をずっと回っていると言う。話していると最近の記憶は時々怪しいが、身体は健康そうだ。自分がその歳になっても旅行をしているというイメージを、私は彼からもらった。若くなくても一人旅ができるということを。


もう1人、アテネで出会った印象深い日本人にアリスさんがいる。本名は知らない。アテネ在住の女性で、年齢は当時40代後半から50代。街中で出会ったときは、中南米の先住民のようなファッションで、最初は日本人なのかも分からなかった。アテネに住んでいた理由は分からないが、70年代初頭に学生運動に参加し、その後ヒッピートレイルを通ってアフガニスタンに行ったと言うから、海外生活は長いのだろう。アフガニスタンで山賊に囲まれたこと、南仏でアフリカ行きの貨物船を何日も待ち続けたこと、ニューヨークでボブ・マーリーのライブを見たことなどの話は、まるで映画の一場面のようだった。


90年代半ば、インターネットはまだ普及途上だったが、ガイドブックならたいていの国の本が出ていた。だから世界放浪をしても冒険という感じでもない。それでも彼女のひと昔前の体験談は、自分にはとても刺激的だったのだ。




再びアテネにて/3度目のギリシャ

アテネのアクロポリスアテネのアクロポリス


3回目のギリシャの旅はその4、5年後。すでに私はフリーランスの旅行ライターで、結婚をして子どももいた。カメラマンの友人からイスタンブールでの仕事の依頼があったので、日本に帰る前にお隣の国ギリシャへ寄ってみることを思いついたのだ。時期は5月下旬だからホテル代もまだ安く、交通機関もそれほど混んではいない。そこで仕事終了後に友人とイスタンブールからアテネへ飛び、船でエーゲ海の島々に渡ってから帰国することにした。


アテネではアリスさんと再会した。電話もメールもない人との待ち合わせは大変だったが、運よく連絡が取れたのだ。そのときの会話の多くは忘れてしまったが、今も印象に残っている言葉がある。「この国の人間は働かないし、仕事も適当だよ。失業者や貧乏人も多い。だけどね、何か不満があればデモをして自分たちの意思を政府に突き付けることはする。元気があるじゃない。人間らしいよ」。


欧州では、デモは選挙と並ぶ国民の意思表示だ(次の選挙までの間に状況が変わることもあるので)。それはデモが革命になり、政権を倒してきたという歴史があるからだろう。




リラックスが疲れた頭を活性化する/ミコノス島

アテネからフェリーで、エーゲ海に浮かぶミコノス島へ向かった。ギリシャの中でも特に観光客に人気の島だ。島の唯一の町となるミコノスタウンでは、細く曲がりくねった迷路のような路地を曲がるたび、洒落たカフェやショップが現れる。白い壁の家々は空や海の青と強いコントラストを作り、我々外国人がギリシャの島に抱くイメージを裏切らなかった。観光シーズン間近とあり、町ではペンキを塗り直したり開店準備をしたりしている店も少なくない。ともあれ、ようやく念願のエーゲ海の島にたどり着いたのだ。白い壁の家も青い海もある。


作家の村上春樹氏が、このミコノス島に滞在していたことがある。1986年から1989年にかけての3年間、村上春樹は奥様と共にイタリアやギリシャの島々などに滞在し、その間に「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」という2つの長編小説を書いていた。1990年に発行された旅行記「遠い太鼓」は、その頃の生活を書いたエッセイ集だが、そこにミコノス島も出てくる。私もそんな作家生活ができたらと夢見ているが、そんな日々が来ることはないだろう。


丘の上から夕景を撮影。この頃はポジフィルムで写真を撮っていたので三脚を持ち歩いていた丘の上から夕景を撮影。この頃はポジフィルムで写真を撮っていたので三脚を持ち歩いていた


友人のカメラマンは、ミコノス島では1日数時間、自分のストック用の写真を撮りに出かけ、仕事ではなかったが私もそれに同行した。ライターを始めてまだ数年の、私の写真撮影は完全に自己流だったので、ここでプロの仕事から役立つヒントを得たかったからだ。写真の主流はまだフィルムの時代で、現像してみるまでは写真の仕上がりは分からなかった。このとき学んだのは、まずは構図が決まる撮影場所を探すこと。あとはそのフレームの中で時間の変化とともに何枚も撮り、写真の精度を高めていくことだ。文章で言えば、推敲(すいこう)の度合いがプロとアマチュアでは違うようなものだろう。プロの撮影に付き合い、自分の撮影の粘りのなさに気づかされた。


他の時間は、1人で島をふらふらしていた。仕事中は海外でもひたすらアウトプット状態になるが、こうした自由時間には逆に自分のインプットの弁が全開になる。街を歩けば建物のデザインや店の中身が気になるし、カフェにいればそこにいる人々の様子が気になり、料理もチェックする。目に映る全てのものが、自分の創造力を刺激する時間になるのだ。


ミコノス島の港に面したカフェテラス。後ろの風車は島の名物ミコノス島の港に面したカフェテラス。後ろの風車は島の名物


船着場の近くのカフェテラスは、観光シーズンにはまだ早いせいか昼間の席は半分ぐらいしか埋まっていなかった。しばらくして観光客に混じっている地元の男たちの一団に気づいた。最初は近所の知り合い同士かと思っていたが、よく見ればテーブルの上に案内板やホテルのパンフレットの類がある。彼らはホテルの客引きや出迎えで、ここで船の到着を待ち、降りてきた旅行者たちに営業をするのだ。


ただし、旅行者に声をかけている者はやる気のある方で、ただそばでぼーっと立っている者もいる。5分もすれば下船した人々は散ってしまい、客引きたちはまたカフェに戻ってビールやコーヒーを注文し、おしゃべりの続きをする。そのアバウトな仕事ぶりを見て、日本とは違う時の流れがあるように感じて新鮮だった。今では宿泊はほぼインターネット予約だから、こんな風景はもう見られないだろう。


ミコノス島はどこにでもネコがいたミコノス島はどこにでもネコがいた


夜は1人でバーに行き、何杯かお酒を飲んで帰った。バーで働いている親父と話すと、彼は別の島から働きに来ているのだと言う。「今度、ギリシャへ来るときは、こんな観光客だらけの島じゃなくて俺の島へ来いよ。静かでいいぜ」。


そこに何があるのだろうか。別に何もなくてもいいのかもしれない。ともかくバカンスシーズンが終わると、彼は自分の島に帰る。そこでようやく彼のバカンスが始まるのだ。私は逆にバカンスが終わり、仕事に戻る。真逆の2人の人生がここで交錯し、また離れていく。それがあるのも旅だからだ。


あれから20年近く経った。周辺国までは何度か行くことはあったが、ギリシャを再訪することはなぜかなかった。年金パッカーのSさんは数年後、日本で亡くなった。アリスさんはまだアテネにいるのだろうか。連絡を取る方法はもはやない。そのときは時の流れが違うように感じたギリシャも、インターネットでつながる今は同じ時間が流れているのだろうか。


今回この記事を書きながら、忘れかけていた当時のギリシャの旅がしっかりと現在の自分につながっていることに気がついた。ルーティーンから外れて違う世界を知り、違う生活をしている人に出会う。それが旅の醍醐味で刺激であり、自分のクリエイティブの源泉になっている。だから早く、今の籠の鳥の生活から抜け出したいものだ。


エーゲ海の島エーゲ海の島

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。

人物名から記事を探す

公開日順に記事を読む

ページトップ