【連載】創造する人のための「旅」
2022.02.01
旅行&音楽ライター:前原利行
大洋の中の島々への旅。北大西洋のアソーレス諸島(ポルトガル)
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の内容や画像は1999~2017年の紀行をもとにしたものです。
「地の果て海の果て」という言葉を聞いたとき、どんな場所をイメージするだろうか。そこは別に物理的に遠い場所ではなく、また人のいない秘境でなくてもいい。自分の心の中のイメージの問題だからだ。ただし、そんなことが言えるのは、インターネットで瞬時に世界のどこにでもつながれる現代だからだろう。北大西洋に浮かぶアソーレス諸島(英語名はアゾレス諸島)は、飛行機が発明されるまでは船で何日もかけて行くしかなかったし、電信が発明されるまでは連絡にも時間がかかった、まさに「涯(は)て」の場所だった。今回は文字通り、そんな大洋の中に浮かぶ孤独な島々への旅を紹介する。
大西洋に浮かぶ9つの島々
世界地図を広げて海の部分を見てみると、あらためて陸地よりも海の部分が多いことに気付かされる。そんな大洋の中に、時おりけし粒のように小さな島々がある。アソーレス諸島は北大西洋にある、そうした島々だ。東のユーラシア大陸からは約1,000km、西のアメリカ大陸から約3,900kmも離れた場所に、なぜ島々があるのか。それはここが、地球の表面を移動しているユーラシアプレートと北アメリカプレートがぶつかる場所だから。この9つの島々は、プレートの衝突が生み出す火山活動によって誕生したのだ。
この島々に行くことになったのは、スペインに住んでいる友人夫婦に誘われてのことだった。その前に南米を旅していていた私は、日本に帰国する前に彼らの家で2週間ほど過ごす予定だった。ところがその間に、「せっかくだから一緒に旅行に行こう」と誘われたのだ。それまで存在も知らなかった場所だが、「周囲と隔絶され、大洋にポツンと浮かぶ島々」と聞いて興味が湧いた。まさに「地の果て海の果て」の場所ではないか。
アソーレスの島々は東西500kmほどの海域に広がり、東部3島、中部4島、西部2島のグループに分かれている。諸島全体の人口は約24万5,000人。ポルトガル人によってアソーレス諸島が発見されたのは、新大陸発見よりも70年前の1427年のことだった。その後は大西洋横断の水の補給基地として、のちには捕鯨や遠洋漁業の基地として使われるようになっていく。緯度は日本なら佐渡島あたりになるが、暖流のメキシコ湾流の影響で冬でも平均気温が10度を下回ることは少ない。原住民はおらず、動物も大きなものは人が持ち込んだものだ。火山島なので土壌が一般的な農業には向いておらず、島の主産業は家畜の放牧やワイン造りになっている。
牧草地が広がるテルセイラ島
リスボンを発った飛行機は、2時間半ほどかけてアソーレス諸島中部のテルセイラ島に到着した。テルセイラ島の人口はこの諸島では2番目の約5万6,000人。町と言えるのは南部にあるアングラ・ド・エロイズモと、東部にあるプライア・ダ・ヴィクトリアの2つしかない。私たちが宿泊したアングラ・ド・エロイズモは、19世紀までアソーレス諸島の中心都市であり、そのため16~19世紀の教会や修道院など古い建物が残っている。1980年に起きた地震では多くの建物が倒壊するが、住民の力によって町は以前の姿に復興。今ではその景観は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
初日は島に着いたのがすでに夕方だったので、そのままホテルに泊まって1日が終了。翌朝にアングラ・ド・エロイズモの町を観光し、その後レンタカーで島の内側に向かった。アソーレスの島々では公共交通機関の便が悪い。島民の多くは自家用車で移動するので、路線バスは1日数本、それも主要道路しか走らない。ただし道は舗装されているので、観光客はレンタカーや旅行会社のツアー、体力に自信があるなら自転車で回ることもできる。今回は、友人がレンタカーを運転してくれるのでずいぶんと助かった。
高台となっている島の中央部へと車で行く。丘の斜面には牧草地が広がり、あちこちで乳牛や肉牛が放牧されていた。牧畜が盛んなこともあり、チーズやバターなどの乳製品がアソーレス諸島の特産品だ。また、牛といえば、この島の伝統行事に牛追いの祭りがある。
ポルトガルの闘牛はスペインの闘牛と違って牛を殺さないが、この牛追いもスペインの牛追いのように激しいものではない。町の通りにひもを付けた牛を放ち、一般の人々が傘でつついたり、コートであおったりして逃げ回る程度。危険になったら牛に付けたひもを引っ張って引き離すのだそうだ。祭りが終われば牛は牧草地に戻されるのだが、島民にとっては大きな娯楽でも、牛にとってはかなり迷惑な話だろう。
今も火山活動を感じるサン・ミゲル島
夕方、飛行機でアソーレス諸島最大の島のサン・ミゲル島に向かった。この島の面積は奄美大島より少し大きいくらいで、人口は諸島の全人口の半分強を占める約14万8,000人。その夜は、その最大の町で人口約7万人のポンタ・デルガダに宿泊した。バカンスシーズンにはクルーズ船も寄港し、観光客でにぎわうという大きな町だが、私たちが訪れた10月はすでにシーズンオフ。海沿いのプロムナードも歩く人はまばらで、閉まっているカフェやレストランも多く、寂しい雰囲気だった。
このサンミゲル島は、他の島に比べ今でも活発な火山活動を続けている。島内には3つの火山、カルデラ湖、地熱帯、温泉などがあり、それを目当てにヨーロッパからやって来る観光客もいる。翌日、レンタカーで島の中央部にある地熱帯を訪れた。硫黄の匂いが漂い、水蒸気が漂う地熱帯は、日本なら「〇〇地獄」と名付けられるだろう。地熱を利用した植物園やスパ施設はあるが、日本のように立ち寄り湯があるわけではないのが残念だ。
観光地には名物料理がつきものだが、ここでは「コジード・ダス・フルナス」という地熱料理がある。「コジード」は煮込み料理のことで、この料理は肉や野菜などの具材を土の中に5~6時間埋めて、地熱を利用して作るという。ただし、味はふつうの煮込みとそう大差があるわけではなかった。レストランで出される名物料理というものは、どの国でもそんなものだろう。
ブドウ畑と捕鯨のピコ島
翌朝、飛行機で次の島のピコ島へと向かった。諸島の中では2番目に大きな島で、西部がふくらんだおたまじゃくしのような形をしている。その部分にポルトガル最高峰というピコ山(2,351m)がある。周りに高い山がない独立峰なので、見た目は小さな富士山といった感じだ。
この島にも世界遺産がある。ピコ島も火山島で野菜を育てるような農業には向いていない。そこでここではワイン造りのためのブドウ栽培が広く行われている。その方法がこの島独特のもので、それが「ピコ島のブドウ畑文化の景観」として世界遺産に登録されたのだ。ブドウ畑は、溶岩のかけらを積み上げて1~1.5mほどの高さの石垣を格子状に作ったもの。その石垣の間にブドウの木やつるを這わせて育てているのだ。海から近い場所でブドウ栽培が行われているため、強い海風を避けるために石垣で囲んだのだろう。
ブドウの粒は食用のものに比べると随分と小さい。これを手作業で収穫し、足で踏んで搾り出すという伝統的な製法が今も行われている(博物館にワイン造りの道具が展示されている)。牧畜といいワイン造りといい、人が暮らしにくい環境でも、そこに適応して生きていく人の能力には驚く。
ピコ島でもう1つ印象に残ったのは、港にある「捕鯨博物館」だ。島では19世紀末から20世紀にかけて捕鯨が盛んだった。それも大洋に乗り出す大きな捕鯨船ではなく、島民が岸から船を漕ぎ出して沖で鯨を捕るという方法だ。この島々はクジラの回遊ルートにあり、季節になるとクジラが沖にやってきた。
博物館には鯨油(げいゆ)を採る機械やそれを溜めていたタンク、漁に使うボートなどのほか、湾で解体されているクジラの写真も展示されていた。捕鯨はそんな大昔のことではなく、1980年代まで行われていたという。この島の捕鯨が終わりを迎えた理由は、世界的な反捕鯨運動ではなく、鯨油の需要がなくなったことだった。エネルギー資源がより安い他のものに置き換わったことで、1つの産業が無くなったのだ。
大西洋横断ヨットが停泊するファイアル島
夕刻、ピコ島からカーフェリーで、今回の島巡り最後となるファイアル島へと渡った。島の人口は約1万5,000人。その夜はこの島唯一の町、オルタに泊まった。オルタの港は大西洋を横断するヨットの寄港地で、ヨット競技の国際大会も行われている。大型船は入港できないが、ヨットハーバーには多くのヨットが停泊していた。港を囲む遊歩道を歩くと、さまざまな国の国旗がペイントされている。描き方はバラバラで名前や年が書かれているので、ここに立ち寄ったヨットの持ち主たちが描いたのだろう。日本の国旗も描かれており、どんな人がここに来たのだろうかと想像してみる。
そんな場所のせいか、オルタの町にはどこか無国籍なの雰囲気がある。ヨットハーバーに面して立地する老舗のパブには、夜になるとさまざまな国籍のヨットマンたちが集っていた。ここはどこの国にも属さない、物語の中の「涯て」の場所のように思えた。
翌日、ポルトガル本土へ戻る飛行機から島々を見下ろしたとき、もし将来、自分が文筆家として大成したら、ひと冬をここで過ごして執筆活動ができたらと夢想したことを覚えている。もちろんそんな夢はとうてい叶えられそうにもない。ただし、人生はまだ続くのだ。不可能ではないだろう。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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