ヨーロッパの中のアラブ。イスラム建築の傑作、グラナダのアルハンブラ宮殿(スペイン)

【連載】創造する人のための「旅」

旅行&音楽ライター:前原利行

ヨーロッパの中のアラブ。イスラム建築の傑作、グラナダのアルハンブラ宮殿(スペイン)

"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。

ヨーロッパの中でもスペインはお気に入りの国のひとつ。その中でも旅をしていて特に居心地よく感じるのが、南部のアンダルシア地方だ。この地方は長い間イスラム教の支配下にあったことや、地理的にアフリカに近いこともあり、ヨーロッパにはないエキゾチックさを感じるところでもある。今回は、アンダルシア地方でアラブ時代の雰囲気を今に残す世界遺産、グラナダのアルハンブラ宮殿の旅だ。




ヨーロッパの片隅で華開いたイスラム文化

アルハンブラ宮殿を私が初めて訪れたのは、真夏の1989年8月だった。この最初の印象は残念ながらあまり覚えていない。というのも、その後3回もこの宮殿を訪れているので、印象が上書きされてしまったからだ。もちろん行くたびに前回と変わったものを感じるが、その新鮮さもすぐに失われてしまう。それはこの宮殿の建築や装飾の素晴らしさに、毎回引き込まれてしまうからかもしれない。


「アンダルシア」の語源は、ローマ帝国滅亡後にこの地を支配したヴァンダル族の「ヴァンダル」からといわれている。その後711年にこの地方は、アフリカを西進してきたアラブ人のウマイヤ朝の支配下に入った。そのときにアラブ人は、イベリア半島一帯を「アル・アンダルス」と呼んだという。以降、700年にわたりこのスペイン南部ではイスラム教徒のアラブ人やアフリカ系ベルベル人、ユダヤ教徒などが民族の血と多様な文化を混血させていった。特にコルドバやセビリアといった都市では、当時の最先端文化だったイスラム文化が華開いた。繁栄は数百年続いたが、やがてキリスト教徒が北から徐々にイスラムの王国を滅ぼしていく。


アルハンブラ宮殿内にある城塞「アルカサバ」の跡アルハンブラ宮殿内にある城塞「アルカサバ」の跡


13世紀に入り、キリスト教国のカスティーリャ王国がコルドバ、そしてセビリアを陥落させると、イベリア半島に残るイスラム教国はこのグラナダを都とするナスル朝(グラナダ王国)しか残っていなかった。キリスト教徒の脅威に備えるため、ナスル朝初代の王ムハンマド1世はグラナダの丘の上にあった城塞「アルカサバ」を拡張し、宮殿を建設する。これがアルハンブラ宮殿だ。この宮殿は王の住まいとしての役割だけでなく、城塞都市でもあった。軍人たちの宿舎、官庁、住宅、庭園、モスク、墓地、神学校などもあり、城壁内には2000人余りが暮らしていたという。


その後、ペストの大流行やカスティーリャ王国の内紛でキリスト教徒の侵攻が一時期止まり、14世紀に入るとナスル朝の全盛期が訪れる。ユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代に、現在にも残る宮殿の建物が次々と建てられた。こうしてイスラム文化の極上のものがここに残されたのだ。




アルハンブラの中心のナスル宮殿へ

観光シーズンの夏にアルハンブラを訪れるなら、なるべく早い時間、あるいは人が少ない夕方がいい。アルハンブラ宮殿(城塞といった方が雰囲気は近い)の中心は王の住居である「ナスル宮殿」だが、敷地内には他にも城塞のアルカサバ、スペイン時代に建てられたカルロス5世宮殿、バルタル庭園、宮殿ホテルのパラドール、そして隣の丘に夏の離宮のヘネラリフェもあり、かなり広い。


それほど広くもなく眺めもないメスアールのパティオ。ここはまだお仕事エリアそれほど広くもなく眺めもないメスアールのパティオ。ここはまだお仕事エリア


ナスル宮殿は3つの宮殿の集合体だ。入り口にあるのが接見や応接に使われていた「メスアール宮」で、ここは公務エリアだから装飾も簡素になっている。ここを抜けると最初の中庭である「メスアールのパティオ」に出る。四方を高い壁に囲まれたここでも、仕事が行われていたという。この先からが王のプライベート空間になり、上級貴族や外国の公使しか入ることができなくなる。


パティオ(中庭)から見たコマレス宮。塔の部分は、中に入ると高い天井になっているのが分かるパティオ(中庭)から見たコマレス宮。塔の部分は、中に入ると高い天井になっているのが分かる


次にあるのが「コマレス宮」だ。ここは王の謁見スペースで、3つの部分からなっている。まず目を引くのが中央に長方形の池がある「アラヤネスのパティオ」だ。池に逆さに映るコマレス宮の塔が美しい、絶好の写真スポットでもある。王に謁見するために訪れた者は、ここで高台にまで水を引ける王の力を知り、控室となる「船の間」を通って、その奥にある「大使の間」へと通された。外から見えたコマレス宮の塔部分は、中に入ってみると2階ではなく天井を高くするために造られたのだと気づく。その天井は寄木細工による細かい内部装飾が見事で、大使たちは圧倒されながら王と謁見したことだろう。




鍾乳石飾りなど、イスラム装飾が残る

20年ほど前に撮った獅子のパティオの写真。このときは水路の部分以外は砂利が敷かれていた20年ほど前に撮った獅子のパティオの写真。このときは水路の部分以外は砂利が敷かれていた


最後に、これもアルハンブラのハイライトともいうべき「ライオン宮」に出る。ここもパティオを中心に建物が囲む造りで、王や王妃、その家族たちの居住スペースだった。中央の「獅子のパティオ」にはライオンの噴水があり、水盤から水が四方に流れ水路を通って、各部屋の中まで続いている。


30年前からの変化を一番感じるのはこの中庭かもしれない。20年ほど前までは、この中庭は砂利が敷き詰められていた。それが今ではツルツルの大理石の床になってしまったのだ。もともとこの中庭には花が咲き乱れていたというから、下は土だったのだろう。管理が大変だからとは思うが、味気なく感じる。


ライオンの噴水から四方に水路がのびている。この写真では中庭はすべて大理石の床になっているライオンの噴水から四方に水路がのびている。この写真では中庭はすべて大理石の床になっている


噴水からの水路のひとつは中庭の南にある「アベンセラヘスの間」へと続いている。夏のアンダルシアの日中の外気温は40度を超す。エアコンや扇風機がないこの時代には、王侯貴族でもその暑さを免れることはできなかった。そこで少しでも涼しくなるようにと、建物の中に水を通り抜けさせ、その帰化熱で室温を気持ち下げていたのだ。それに水の流れる音を聴くだけでも、気分は涼しくなるだろう。「アベンセラヘスの間」の名の由来は、ここでアベンセラヘス家の一族36人が殺されたという伝説からだが、それが本当かどうかは今では誰も知ることはできない。


中庭を挟んで反対側にあるのが「二姉妹の間」だ。ここは宮殿の中でも最も美しい部屋だろう。天井の鍾乳石飾りは、その細やかさ、全体のバランス、どれをとっても素晴らしく、鍾乳洞の中にいるような気分になる(特に夜はロウソクに照らされて)。この部屋はハーレムの一部で、さらに奥にはリンダラハのパティオを見下ろす「リンダラハのバルコニー」がある。ハーレムから外に出られない女性たちにとっては、このバルコニーから眺める庭と遠くの景色が息抜きになっていたはずだ。


宮殿の中でも最も美しい部屋の「二姉妹の間」。装飾が素晴らしい宮殿の中でも最も美しい部屋の「二姉妹の間」。装飾が素晴らしい


リンダラハのパティオに面した小部屋のひとつに「アーヴィングの小部屋」と呼ばれている部屋がある。アメリカ人作家のワシントン・アーヴィングは、アメリカ公使の書記官としてスペインに赴任中、ここに滞在してアルハンブラやこの地方にまつわる伝説を集めた。のちにそれは「アルハンブラ物語」となって出版され、ベストセラーになる。当時、宮殿は荒廃して浮浪者が住み着くような状態だったが、アーヴィングは月夜の晩にその宮殿の中を歩き回ったという。


ここまで足を延ばす人は少ないが、世界遺産の「ヘネラリフェ」ではイスラム庭園の美を堪能できるここまで足を延ばす人は少ないが、世界遺産の「ヘネラリフェ」ではイスラム庭園の美を堪能できる


ナスル朝の宮殿を出て、斜面に階段上に続く庭園を降りて谷まで降り、そこから今度は向かいの丘を登っていくと、王たちの夏の離宮「ヘネラリフェ」に着く。ここでの見どころは水路が張り巡らされた花と緑に覆われた庭園だ。水が重要なのは、イスラム文化共通の水に対する憧れからだろう。




アルハンブラの落日

1492年1月2日、カスティーリャとアラゴンの連合王国の前にグラナダは無血開城をする。これによりスペインにある最後のイスラム教国が滅び、レコンキスタ(国土回復運動)が完成した。グラナダ陥落と同じ年、コロンブスはスペイン王室の援助を受け西インド諸島に到達した。新大陸のアステカやインカ帝国の文化はその後スペイン人によって破壊し尽くされたが、この宮殿を破壊しなかったのは、素晴らしいと認めたからだろうか。アルハンブラ宮殿はそのまま宮殿として使われるようになった。


アルハンブラの雰囲気にそぐわない西欧的な「カルロス5世宮殿」アルハンブラの雰囲気にそぐわない西欧的な「カルロス5世宮殿」


そんなスペイン人がアルハンブラ宮殿に残した唯一の汚点と言えるのが、16世紀に建てられた「カルロス5世宮殿」だ。当時のスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)がグラナダでの住まいとして建設を命じたが、資金不足で1568年に中断。結局建物は未完のままになり、ようやく1950年代に現在の形で完成した。これが無粋な建物で、全体の雰囲気にまるで調和していない。この建物がここにあると西欧の傲慢ささえ受けるのは、僕だけではないだろう。


アルハンブラ宮殿は、ヨーロッパの中のアラブであり、異国情緒を感じる場所だ。前述のように作家アーヴィングはここで伝説を集めるうちに創作意欲が高まり、「アルハンブラ物語」を書いた。スペインの作曲家・ギタリストのフランシスコ・タレガは、トレモロの旋律が印象的なギターの独奏曲「アルハンブラの思い出」を作曲した。この場所には、何か人々の創作意欲をかき立てるものがある。それは単に建物の見た目のデザインからだけでなく、そこに染み付いた過去の記憶によるものも大きい。創造に行き詰まったら、アルハンブラを訪れてみてはいかがだろうか。


宮殿の各所には、イスラムの文様がデザインされている宮殿の各所には、イスラムの文様がデザインされている

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。

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