【連載】創造する人のための「旅」
2021.06.04
旅行&音楽ライター:前原利行
20世紀ダンスの革新者たち(パリ)| イサドラ・ダンカンとニジンスキー
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。
20世紀初頭、ダンスの世界に大きな変革をもたらした人物が2人いた。技巧を重視したクラシックバレエとは異なり、感情を芸術的に表現して「モダンダンスの祖」と呼ばれたイサドラ・ダンカン、そして女性中心だったバレエの世界に生まれた初の男性スターのヴァーツラフ・ニジンスキー。アメリカ人とポーランド人と国籍は異なるが、ともに20世紀初頭のパリで活躍し、パリの墓地に葬られた。今回はこの2人の革新性と、創造したものをたどってみよう。
モダンダンスの祖、イサドラ・ダンカン(1877-1927)
何年か前、20世紀を映像で振り返る「NHK特集 映像の世紀」という番組があった。その第1回の冒頭が、1人の女性が踊る映像だった。そこに「現存する唯一の動くイサドラ・ダンカンだ」というナレーションが入る。この番組を見ている人のうち、いったいどのくらいの人がイサドラ・ダンカンの名を知っているのだろう。しかし、私はそのとき、その数年前に訪れたパリのイサドラの墓のことを思い出していた。
のちに「モダンダンスの祖」とも呼ばれたイサドラ・ダンカンは、1877年にアメリカのサンフランシスコに生まれた。幼い頃に両親が離婚し、母と3人の兄姉とともに貧困の中で育つが、母親は幼いイサドラに古典舞踊を教えた。10代になるとイサドラ自身がダンスを教えるようになり自立する。ニューヨークに移ったイサドラは、劇団に参加する一方、バレエクラスも受講するが、すぐに古典バレエは自分の望むものではないと感じる。1898年、21歳のとき、イサドラは自分のダンスの評価を求めてロンドンに渡った。
当時のヨーロッパは帝国主義の時代で、植民地では古代文明の芸術品が発掘されていた。中でも人気が高かったのが、古代ギリシアとエジプトの発掘品だ。イサドラは大英博物館に飾られていた古代ギリシアの壷の人物にインスピレーションを受け、古代風のチュニックを着て裸足で踊るという創作舞踊をロンドンで披露するようになる。イサドラは他にもパリのルーブル美術館などを訪れ、古代の壁画に描かれた人物像を研究し、自らの踊りに取り入れていった。
イサドラのダンスは当時の上流階級に受け、彼女はサロンを中心に活動を始めた。近代ヨーロッパ、特にフランスでは上流階級や知識人たちが「サロン」と呼ばれる私的な社交場で交流を図るという文化があった。サロンの主催者は自宅などを開放し、芸術家を呼んでコンサートなどを行った。イサドラもそこで踊ることによって、上流階級や知識人たちと強いコネクションを作り、やがて話題の人となっていく。
イサドラはコルセットとトゥシューズの着用をやめ、「軽さ」と「激しさ」を含むそれまでにない革新的な舞踊で後世のダンスに大きな影響を与えた。例えば現在のモダンダンスでは当たり前となった、床に寝そべったり倒れ込んだりする動きはそれまでになく、著名な舞踊家のマーサ・グラハムはイサドラのことを「床を発見した舞踊家」と言った。ただし、イサドラは映像を撮られることを嫌ったため、彼女の踊る姿は「映像の世紀」で放映された隠し撮りのものしか残っていない。
イサドラが目指したのは、自由な動きと感情を表現する高い芸術性だった。それはのちに「モダンダンス」と呼ばれるものになっていく。その対極にあるのが高度な技術を前提とした古典バレエだ。しかし、古典といっても当時は「白鳥の湖」が発表されてからまだ20~30年なので、ダンスの世界でも目まぐるしい進化が続いていた時代なのだろう。
注目を浴びたイサドラだが、家庭では不幸に見舞われた。ミシンで有名なシンガー家のアイザックとの間に生まれた2人の子どもを、1913年に事故で亡くしている。2020年に日本でも公開された映画「イサドラの子どもたち」は、イサドラが亡き子どもたちに捧げるソロダンス「母」をめぐる物語だった。ある振付師が「母」の振付譜をもとに踊りを再現しようとする。子をなくした母の想いをどう表現するのか。それはエンディングで踊りを見た観客によって完結するというものだ。
映画『イサドラの子どもたち』予告編
晩年のイサドラはすっかり人気も落ち、借金を抱えて過ごしたという。1927年9月14日、ニースにいたイサドラは、オープンカーの助手席で首に巻いた長いスカーフが車輪に引っかかり、首の骨を折って命を落とした。享年50歳。私は、ヴァネッサ・レッドグレイヴがイサドラを演じた映画「裸足のイサドラ」(1968年)で彼女のことを知ったが、映画の中のこの最期が強い印象に残っている。それ以来、イサドラの名は心に刻まれ、パリへ行ったときの墓参りにつながった。
近年ではイサドラのダンスを再現する試みが行われ、YouTubeなどでも観ることができる。長い間、誰もその踊りを再現していなかったのに、その名は残ったイサドラ。それはイサドラに影響を受けた"イサドラの子どもたち"が、彼女の遺伝子を後に伝えたからだろう。
神の道化 ヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)
私がバレエに関心を持つようになったのは、映画によるところが大きい。1975年日本公開の映画「ザッツ・エンタテインメント」という往年のハリウッドミュージカルのダイジェスト集にすっかり魅せられたのがきっかけだ。当時のミュージカルのダンスには、クラシックバレエの技術が入っているのは当たり前だった。
ヴァーツラフ・ニジンスキーの名を知ったのも映画だ。ケン・ラッセル監督の映画「バレンチノ」(1977年)は、当時のバレエのトップスターであるルドルヌ・ヌレエフが往年のハリウッドスター、バレンチノを演じた映画で、その中で印象に残ったのがバレンチノとニジンスキーがタンゴを踊るシーンだった。
ニジンスキーは1890年、キエフでポーランド人ダンサーの両親のもとに生まれた。成長するとマリウス・プティパやミハイル・フォーキンといった偉大な振付師たちに見出されていく。転機となったのは、有名な興行師であるセルゲイ・ディアギレフが創設したバレエ団「バレエ・リュス」に参加するようになったこと。ディアギレフは、革命前で政情不安定なロシアを離れ、主な活動を当時の芸術の最先端であるパリで行うことにした。フォーキンの振り付け、ニジンスキーとアンナ・パブロワの共演による1909年の「バレエ・リュス」パリ公演は大成功を収めた。そのとき、ニジンスキーはまだ19歳だった。
ニジンスキーはその後、1911年にフォーキンの振り付けで踊った「薔薇の精」と「ペトルーシュカ」が好評を得た。この2作品は、今でも世界のバレエ団の人気レパートリーだ。1912年、22歳の時には自ら振り付けをした「牧神の午後」が性的過ぎると物議を醸す。当時「バレエ・リュス」の公演は、バレエばかりか音楽や衣装を含む芸術の最先端で、何かと注目の的だったのだ。
1913年、イーゴリ・ストラヴィンスキー書き下ろしの曲にニジンスキーは自ら振り付けをした「春の祭典」を発表する。その初演には、カミーユ・サン=サーンス、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラベルが客席にいたというから、今でいう"業界大注目" だったのだろう。しかし不協和音に満ちた音楽と斬新な振り付けを見た観客が騒ぎ出し、観客席の賛成派と反対派で殴り合いが起きる騒ぎになってしまう。ニジンスキーの振り付けは、それまで観客が見たことがないものだったのだ。これが「20世紀バレエの幕開け」と呼ばれている。またバレエ音楽「春の祭典」自体も、それまでにない音楽であり、20世紀近代音楽の傑作との評価が定着している。
順調だったニジンスキーだが、「春の祭典」初演から4カ月後の南米公演中、ブエノスアイレスでダンサーと結婚式を挙げたため、ディアギレフは怒って彼を解雇してしまう。ニジンスキーはバイセクシュアルで、それまでディアギレフとは愛人関係にあったからだ。
その後、ニジンスキーは自分のバレエ団を旗揚げするが、興行的な才能はなく、成功を収めることはできなかった。1919年、精神衰弱に陥り、精神病院に入院。以降は復帰することなく、1950年にロンドンで死去。その後、1953年にパリのモンマルトル墓地に埋葬された。その名声とは裏腹に、全盛期はわずか5年ほどと短いものだった。
ニジンスキーの革新性は、バレエ界ではそれまで女性のサポート役だった男性が主役になったことにある。そして空中で静止したような驚異的な跳躍、中性的な身のこなしなど、当時のバレエ界にはなかった動きを生み出したことだ。さらにその映像がないことにより、早くから伝説化されていた(イサドラと同様だ)。
ニジンスキーがいなければ、のちの有名な男性ダンサーたちは生まれなかったかもしれない。「ニジンスキーの再来」と呼ばれたルドルフ・ヌレエフ、演目「ニジンスキー・神の道化」を踊ったジョルジュ・ドンなどのダンサーの名前は聞いたことがあるだろう。彼らにニジンスキーの遺伝子は受け継がれ、バレエの変革は続いていった。
20世紀初頭、のちのダンスの世界に大きな影響を与えた2人のダンサー。共にその活動期間は長くはなかったが、その遺伝子は受け継がれて華開き、その創造や革新が忘れられることはなかった。2人が活躍したパリの墓地を訪れて、その偉業を思い出すのも旅の目的の1つになるだろう。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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