【連載】創造する人のための「旅」
2021.02.24
旅行&音楽ライター:前原利行
世界遺産・石見銀山遺跡(日本・島根県)| 技術革新と銀の需要が世界経済を活性化した
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の記事で書かれている内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。
島根県大田市(おおだし)の山中に、戦国時代後期から江戸時代前期に最盛期を迎えた日本最大の銀山の跡がある。16世紀末に日本は世界の銀の1/3を産出しており、中でもこの銀山からの割合は大きかった。この時代、世界は「銀」という"通貨"によって経済的につながった。「世界経済」の誕生だ。「創造」は何も芸術の分野だけではない。技術の革新や、それまでにない新たなネットワークも「創造」と言えるのではないだろうか。今回は世界へ影響を及ぼした、その石見(いわみ)銀山を訪ねてみよう。
16世紀後半、銀が世界を結んだ
貨幣として昔から世界的に流通していた金、銀、銅(初期には貝貨も)。しかし、中世までは技術的な問題から金属の産出量には限界があり、それに伴う貨幣経済の浸透にも限界があった。それを最初に打ち破ったのが、アメリカと日本で産出された銀だった。
15世紀末、新大陸とインド航路の発見によりヨーロッパ人が直接アジアに到達し、世界的な交易ネットワークのインフラが整った。ただしヨーロッパにはアジアが欲しがる輸出品があまりなく、アジアでの物産の購入には大量の金や銀が必要になった。当時、ヨーロッパでは銀は慢性的に不足していたが、スペイン人にとって幸いなことに(原住民にはとんだ災いだが)、新大陸で次々に銀山が発見される。メキシコのグアナファトとサカテカス、そしてボリビアのポトシは中南米の三大銀山と言われ、原住民の犠牲の上に大いに繁栄した。さらにスペインは1521年に世界周航を達成し、太平洋航路を開拓する。
中国や日本ではもともと銅銭が流通していたが、明の時代になると軍資金の運搬や商業活動の活発化により、大量の銀が必要になる。貨幣の運搬には少量で高額の銀が便利だったからだ。ただし当時の中国は銀の生産量がまだ少なかったので(現在は産出量世界2位)、まず朝鮮で銀山が開発され、次に日本が注目された。日本の銀の産出量はそれほど多くはなかったが、16世紀半ばになると生産量を一気に押し上げる新しい精錬法が日本に伝わる。
銀の生産を高めた"灰吹法"
石見銀山で大がかりな採掘を始めたのは、博多の大商人・神谷寿貞(かみや・じゅてい)だった。神谷はおそらく密貿易で明の銀不足も知っていたのだろう。1533年、朝鮮で行われていた銀の精錬法である「灰吹法(はいふきほう)」を知る技術者を石見銀山に送り込んだ。
「灰吹法」とは、まず銀鉱石を細かく砕いて銀が多い部分をより分ける。それに鉛を混ぜて一緒に焼くと、鉛と銀が結合して「含銀鉛」という金属が生まれる。次にそれに灰をかけてふいごで加熱。銀と鉛では溶解温度が異なるので(銀は962度、鉛は327.5度)、先に鉛が溶け出して灰に染み込む。その結果、灰の上に銀だけが残るのだ。石見銀山の周囲は森林が覆う山々なので、燃料となる木材にも困らない。灰吹法は後に日本全国に広まり、日本の銀の産出量を大きく高めた。技術の革新が眠っていた資源を掘り起こしたのだ。
戦国時代、日本が銀と引き換えに輸入したものは
16世紀の日本は戦国時代の真っ最中だった。1543年には西洋人が初めて種子島に漂着し、「鉄砲」という新兵器が伝来。火力の差が戦国の勝者を決めるようになる。日本各地で、鉄砲やその材料となる鉄、そして黒色火薬の原料である硝石の需要が急増した。日本でも鉄は採掘されていたが足りず、スペインやポルトガル商人から南蛮鉄を購入。硝石は主に東南アジアから輸入された。その購入に充てられたのが銀だった。
石見銀山は戦国大名の争奪戦の的となった。銀山を開発したのは周防(山口)の大内氏だが、それを出雲の尼子氏が奪い、また大内氏が奪い返すということが続いた。やがて大内氏に代わり台頭した毛利氏が、尼子氏を滅ぼす。16世紀後半に毛利氏が信長に対抗できたのも、この銀山の富の力が大きかったという。スペインやポルトガルは日本やアメリカで仕入れた銀で、中国の絹織物や陶磁器を買った。豊富な銀を得た明では銀が基本通貨となり、税制も1580年に銀納に一本化した「一条鞭法(いちじょうべんぽう)」が施行される。
幕府の直轄地となった江戸時代
17世紀に入り江戸時代になると銀山は江戸幕府の直轄地になった。山には多くの坑道が掘られ、町や村が生まれた。当時の銀山の人口は20万人と伝えられているが、これはずいぶん誇張された数字だ。ただしそれを割り引いても1万人ぐらいの人口はあったことだろう。
幕府にとってこの銀は朱印船貿易やオランダ貿易の重要な財源となった。一説によれば、最盛期には石見銀山から得られる富は100万石の領地に匹敵したという。こうした大量の銀の流通は世界的な経済活動を活発にした。それを示すものに銀価格の下落がある。16世紀前半は1:5程度だった世界の金と銀の価格比が、17世紀には1:10~13にまで下がったのだ。
繁栄を極めた石見銀山だが、次第に地表に近い銀坑は掘り尽くされ、江戸末期には銀の採掘は採算が取れなくなる。やがて銀は枯渇し、第2次世界大戦中に完全閉山となった。その後は人口も減り、銀山周辺は過疎地域になっていく。2020年現在、石見銀山がある大森町の人口はたった400人しかいない。
世界遺産の石見銀山遺跡を訪れる
JR大田駅からバスで石見銀山の中心地だった大森町へ向かう。町の入口となる「大森代官所跡」バス停で下車するが、晩秋の平日の朝とあり、降りる観光客は他にいなかった。かつて幕府の代官が職務をしていた建物は、現在は「石見銀山資料館」になっている。そこで銀山の予習をしてから大森の町並み保存地区を歩いた。ほとんどが民家で、土産物屋や飲食店はわずか。あとは武家屋敷や商人の家がいくつか公開されているくらいで、いわゆる観光地のにぎわいはない。ただし江戸時代の面影が感じられる町並みの雰囲気はいい。
古い木造家屋の多くは過疎化で荒廃していたものを1970年代に修復・修景したもので、「アダプティブユース」(文化財などの建築物を用途変更して保護と商業利用を両立させる)の代表例の1つになっている。
15分ほど歩くと町並みが途切れた。そのまま真っ直ぐ行くと山中の銀山地区、左に折れると石見銀山世界遺産センターへと続く道になっている。この分岐近くの崖には、1776年に完成した五百体の羅漢像を安置した石窟がある。銀山で亡くなった坑夫たちをしのぶために作られたものだ。人けのないお堂で、死者の冥福を祈った。
銀山地区に入り一本道をぐんぐん進んでいくと人家は次第にまばらになっていく。ただし、時おり立派な寺院や墓所があり、かつての繁栄がしのばれた。徒歩30分ほどで一番奥にある「龍源寺間歩」に到着した。
「間歩(まぶ)」とは銀を掘るための坑道のことで、この龍源寺間歩は代官所直営の坑道だった。全長は600mあるが、公開されているのはそのうちの手前の157mだけ。坑道を歩くと、手作業で掘られたノミの跡が壁に見える。石見銀山には数百に及ぶ坑道があるが、自由見学できる間歩はここだけしかない(大久保間歩はツアーでのみ見学可能)。
銀の積み出し港として栄えた温泉津
夕方、日本海に面した温泉地の「温泉津(ゆのつ)」へ移動した。温泉津は今では小さな港だが、仁摩(にま)の鞆ケ浦(ともがうら)と共に銀の積み出し港として開発され、ここも石見銀山の世界遺産登録物件の1つになっている。日本には現在23の世界遺産があるが、温泉が登録されているのはここだけだという。
銀が枯渇した江戸後期も温泉津は廃れなかった。日本海を行き来する北前船が全盛を迎え、温泉津はその寄港地になっていたからだ。温泉街を歩くと、町の規模に不釣り合いなほど立派な神社と寺院があるのはそのためだろう。しかしそのにぎわいも戦前までだったようだ。
温泉街には大正期の風情を残す、「薬師湯」と「元湯」という有名な外湯があった。湯温はかなり高いが、共に薬効が高いという。その夜は温泉津の温泉宿に泊まった。湯に浸かりながら、銀山で働いていた人々もこの温泉で癒されていたのだろうかと空想し、銀山の旅を終えた。
歴史的にはその役目を終え、今は過疎となった村が残る石見銀山遺跡。しかしそこは、かつて現在に通じる世界経済が始まった場所の1つだった。16世紀後半から17世紀にかけて成立した地球規模の経済圏。その「創造」の一端を担った場所と知って訪れると、国内旅行でも世界規模のスケール感を体験できるだろう。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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