【連載】創造する人のための「旅」
2021.07.06
旅行&音楽ライター:前原利行
想像から創造へ。西欧の技術をかたちに | 集成館事業(鹿児島県)
鹿児島の錦江湾に面した磯地区にある庭園「仙巌園(せんがんえん)」。観光客でにぎわうこの大名庭園に入ってすぐに、幕末に鉄を精錬していた「反射炉」の跡がある。世界遺産にも登録されている遺構だが、それが果たした意義を知る人は多くはない。今回は鎖国の日本で、人々がいかに想像力を働かせて西欧の技術を「創造」していたかを、薩摩藩が日本初の近代洋式工場を設立していった集成館(しゅうせいかん)事業を通して探ってみたい。
幕末の日本と薩摩藩
19世紀も中頃になると長く続いた幕藩体制は疲弊し、諸外国の脅威に対応できず、武士たちの間では尊王攘夷運動が広まりを見せていた。この頃の日本近海には外国船が出没しており、1840年から2年間続いたアヘン戦争で大国・清がイギリスに敗北したというニュースが衝撃をもたらした。「次に狙われるのは日本かもしれない」という危機感が武士たちの間で広がっていたのだ。
そんな中、1853年にアメリカのペリーが浦賀に来航する。開国を迫る米国に幕府は対応できず、諸藩に意見を求めた。さらに当時の幕府は、将軍家の後継問題も抱えていた。こうした激動の時代に薩摩藩主になった島津斉彬(なりあきら)は、水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)らと共に斉昭の実子である一橋慶喜を将軍に推す。
薩摩藩は琉球を通して清国と貿易をしており、アヘン戦争や西欧諸国によるアジアの植民地化などの海外情報をいち早くつかんでいた。藩主の島津斉興(なりおき)の嫡男で蘭学好きで知られた島津斉彬は、早くから日本の将来に対して危機感を持ち、富国強兵や産業の振興などを訴えていた。ただし赤字続きだった薩摩藩では財政再建が先という派閥もおり、斉彬の藩主就任には反対派も多かった。
1851年、ようやく斉彬が藩主になる。この年に、土佐の漂流民でアメリカで暮らしていたジョン万次郎が琉球に上陸をはかり、薩摩に送られてきた。万次郎はアメリカの学校で航海術や造船技術を学んでおり、斉彬は万次郎を江戸へ送る前に、海外の情報を得る。また万次郎を講師として藩士に英語や造船技術を学ばせたりもした。
藩主になった斉彬は、さっそく藩の富国強兵政策を始めた。島津藩主の別邸があった鹿児島市の北東、錦江湾に面した磯地区にある「仙巌園」に隣接して、日本初の近代洋式工場を設立したのだ。これらの工場群のことを「集成館」事業と呼ぶが、その手始めとなったのが「反射炉」の建設だった。
反射炉建造の意義とは?
反射炉は、石炭などの燃料を燃焼室で燃やしてその熱を壁に反射させ、溶解室の銑鉄を溶かして鋳型に流し込むという炉で、主に鉄の精錬に使われる。当時の日本では青銅製の大砲が使われていたが、諸外国との戦争では飛距離が長い洋式の鉄製大砲が有利だった。そこで幕府のほか、薩摩藩や水戸藩、佐賀藩などの有力藩が、鉄製の大砲造りのために反射炉の建造を始めたのだ。
斉彬は佐賀藩から反射炉の製造方法を記したオランダ語の本を譲り受け、その製造を命じた。鎖国の時代だから現物を誰も見たことがない。それを想像力で補い、書物を頼りに当時の日本人が自力で反射炉を造り上げたのだ。ただし最初からうまくいったわけではない。最初の反射炉は耐火レンガが熱に耐えきれず崩壊。そこで熱に耐える耐火レンガ造りと、銑鉄作りのための溶鉱炉も造られた。試行錯誤の末に反射炉が完成したのは、5年後の1856年だった。
仙巌園の反射炉は、現在はその基礎部分しか残っていないので往時の様子を知るのは難しい。幕末に造られた反射炉で現存するのは、静岡県伊豆国市にある韮山反射炉と荻の反射炉だが、荻の反射炉は実験的に試作されたもので、実際に稼働していた現存する反射炉は韮山反射炉だけになる。仙巌園のものも含め、これらは「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
斉彬から久光へ。引き継がれる集成館事業
島津斉彬は、それまでの日本になかった新産業の育成にも目を向けていた。集成館事業は、明治政府が近代化のために取り入れた「殖産興業」の先駆けになった。近代工業化と言っても規模から言えばまだ実験に近いものだったが、磯地区には製鉄や蒸気機関、造船、紡績、ガラスなどの近代工場が建設され、一時は1200人もの人々が働いていたという。また、島津斉彬は人材登用にも優れており、下級武士である西郷隆盛や大久保利通を抜擢している。
造船では、1854年には洋式帆船「昇平丸」を建造している。これは大砲を備えた本格的な洋式軍艦で、外国船と区別するために日の丸を掲げ、これが日本の国旗の始まりとなったという(異説あり)。また、蒸気機関にもいち早く注目し、オランダの技術書を見本にして蒸気船「雲行丸」を完成させ、1855年に試運転をしている。
しかし、将軍家の相続問題では、1858年に大老の井伊直弼が推す直系の徳川家茂が将軍になり、一橋慶喜を推した斉彬は敗れてしまう。収まらない斉彬は抗議のために上洛しようとするが、その準備中に病気にかかり1週間ほどで死去してしまった。享年50歳。その急な死には毒殺説もある。斉彬を慕っていた西郷は、その死を聞いて殉死しようとしたという。斉彬の死により、集成館はほぼ閉鎖の状態になる。しかし異母弟・島津久光が実権を握ると、久光は集成館事業を再興させた。
1863年、薩英戦争が起き、錦江湾に侵入したイギリス艦隊7隻の砲撃を受けて、集成館は焼失してしまう。武力の差に攘夷は無理と判断した薩摩藩は以降、イギリスに接近。軍艦購入の斡旋をイギリスに頼み、イギリスも幕府に取り入るフランスに対抗するために薩摩に接近した。こうした攘夷からの転換は組織内に反対者も生むが、薩摩藩はうまく藩内をまとめ上げていく。
1865年には西洋の最先端技術を学ぶため、薩摩藩からイギリスに19名の「薩摩スチューデント」が派遣された。ただしこれは幕府には秘密の密航だった。メンバーの中には、のちの文部大臣になる森有礼、東京国立博物館の設立者・町田久成、サッポロビールの前身となる開拓使麦酒醸造所の創設者・村橋久成らがいた。
明治の文明開化につながる
仙巌園に隣接して、薩摩藩の歴史や集成館事業に関する博物館の「尚古集成館」がある。この建物は、現存する日本最古の石造り洋式機械工場で、かつて集成館で使われたさまざまな機械を整備・補修していた場所だ。
その隣には、現在は薩摩切子の工場がある。鹿児島の特産品として知られるガラス器・薩摩切子の製造を始めたのは、斉彬の父・島津斉興だった。彼は長崎から伝わった西洋ガラス製造の書物をもとに、江戸のガラス職人を呼んでこのガラス製品を開発した。厚みのある色ガラスの層に切子を施し、グラデーションを作るぼかしの技法が使われているのが特徴だ。輸出用を目指していたともいわれる。
その後、明治に入ると薩摩切子の継承者はいなくなり、1980年代に入ってようやく復刻が試みられた。そのため現在販売されている薩摩切子は、伝統工芸ではなく復刻品という方が正しいようだ。
ほかにも近くには、1867年に建てられた日本初の紡績工場の「鹿児島紡績所」があった。工場では、薩摩スチューデントがイギリスで買い付けた蒸気機関の機械を使い、綿花から綿を打ち、糸を紡ぎ、100台の織り機で織物を織っていた。この工場で指導していたイギリス人技師たちが住んでいた木造洋館(異人館)は、今も保存されている。
明治期の日本は、世界では西洋地域以外においていち早く短期間で工業化と産業化を進めた。西洋の知識や技術がゼロに近い環境から、書物をヒントに想像力を働かし、産業を生み出そうとした努力は並大抵のものではなかったろう。集成館は西南戦争で失われたが、人々の中にその経験の蓄積は残り、やがて明治の日本の工業化は進んでいった。その足跡をたどりに鹿児島を訪れてみるのもいいかもしれない。
※記事の情報は2021年7月6日時点のものです。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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