【連載】創造する人のための「旅」
2021.11.24
旅行&音楽ライター:前原利行
世界遺産・白川郷と五箇山|養蚕と焔硝(えんしょう)作りから生まれた合掌造りの集落
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
山の谷間に点在する、大きな茅(かや)ぶき屋根の合掌(がっしょう)造りの風景。国内有数の観光スポットで、世界遺産にも登録された「白川郷・五箇山(ごかやま)の合掌造り集落」だ。しかしそのフォトジェニックな姿が、どうして生まれたのかを知っている人は少ないだろう。今回は歴史をさかのぼり、貧しい地域だったからこそ行われていた産業とそこから生まれた建築を知り、不利をプラスに変えた昔の人々の発想や革新を感じてみたい。
冬は雪に閉ざされる山間の地
もしこの地域が米や農作物の生産に適していたら、あるいは人々の往来が盛んな交通の要衡(ようしょう)だったら、このような合掌造りの家屋は生まれていなかったはずだ。雪が多い地方では屋根の傾斜が急な家屋が多いが、この合掌造りの家屋ほど屋根は広くはないし、家屋も大きくはない。それではなぜこの地域だけ、このような建築様式の家屋が発達したのだろうか。
現在、これらの合掌造りの家屋があるのは、庄川(しょうがわ)*1上流域の岐阜県にある白川郷と、そこから約30km離れた庄川中流域にある富山県南砺市の五箇山の2カ所だ。庄川は高山市の飛騨高地を水源とし、北へ流れて富山県射水市の新湊で日本海に注ぐ。その上中流域は険しい谷が続き、広々とした耕作地がない。さらにこの地域は冬に雪が2mも降り積もるため、春先まで外界からの交通が途絶する秘境のような地域だったのだ。今では100軒あまりに減ってしまったが、かつてはここに約1000軒もの合掌造りの家屋があった。
*1 庄川:岐阜県高山市の飛騨高地から岐阜県、富山県を経て富山湾に流れ込む、長さ約115 kmの一級河川。
今では水田もあるこの白川郷・五箇山エリアだが、明治時代になり品種改良が進むまでは米の生産は難しかった。穀物はヒエやアワ、ソバなどが作られていたがほとんどが自給分で、人口も増えなかった。だがここが農業に不向きで、不便な場所だったからこそ、換金するために家内制手工業が発達したともいえる。それが「養蚕(ようさん)」と火薬の原料となる「焔硝(えんしょう)」作りだった。
養蚕の発達と共に合掌造りの家屋が大型化
今年の11月、白川郷と五箇山を訪れた。五箇山には合掌造りの集落が2カ所あり、相倉(あいのくら)集落に20棟、菅沼集落に9棟の合掌造り家屋がある。今回寄ったのは相倉の方で、白川郷に比べると観光客はかなり少ないが、それでも食堂や民宿もある。集落は小さく、ゆっくり歩いても30分もあれば見て回れる広さだ。この集落でも養蚕や焔硝作り、和紙作りが行われていた。
庄川の上中流域でいつから養蚕が行われていたかはハッキリしないが、養蚕と共に合掌造りの家屋の規模も大きくなっていったので、建築物の遺構などから推測はできるようだ。それまで日本でも養蚕は行われていたが中国産が好まれ、江戸時代初期までは中国から多くの生糸を輸入していた。しかし鎖国が始まると共に輸入生糸は減り、代わりに幕府や各藩は養蚕を奨励するようになる。これといった換金作物がなかった白川郷・五箇山地域でも養蚕が始まった。ただし耕作地に限りがある地域なので、養蚕のための建物を別に作るほどの土地はない。そこで住居の中で養蚕を行うようになったのだ。
養蚕が盛んになるにつれ、そのスペースを作るために家屋が大型化していった。床下で焔硝が作られ、1階部分が住居、2階から3階で養蚕が行われた。耕地の分割を避けるため家長を中心とした大家族制が行われ、結婚できるのも長男だけだった。1軒の家には、ひと家族だけでなく未婚の親族や使用人も暮らしていた。つまり大きな合掌造りの家は、それ1つが住居、工場、従業員寮も入ったビルのようなものだった。
住居と仕事場が兼用の合掌造りの家屋
白川郷・五箇山では、合掌造りの家が何軒か公開されている。中に入ってみると、これらの家がただフォトジェニックなだけではなく、実に機能的に建てられていたかが分かる。ここでは白川郷の荻町で公開されている和田家や神田家などの家屋の代表的な間取りを紹介してみよう。
玄関は切妻造(きりづまづくり)*2の「妻(つま)」の部分ではなく、細長い「平(ひら)」側にある。玄関の床には石が敷かれているが、石と石の間には少し隙間がある。これは落とした雪がここで溶け、水が岩の割れ目から沁み込むようにするという雪深い地方ならではの知恵だ。家屋に入ってすぐ目の前にあるのが、リビングスペースに当たる囲炉裏(いろり)部屋。1階部分には他にもふすまで仕切られた畳敷きの部屋が複数あり、そこが住居スペースになっていた。
*2 切妻造:屋根の形状のひとつ。屋根の最頂部の棟(むね)から地上に向かって本を伏せたように2つの傾斜面を持つ山形の屋根。棟と直角な面(三角形の面がある側)を妻(つま)と呼び、棟と平行な面(長方形の面)を平(ひら)と呼ぶ。
2階以上では養蚕が行われていた。囲炉裏の真上にあたる部分は、囲炉裏の煙を排出し、暖められた空気を家屋全体に回すために吹き抜けになっている。煙には建物の防虫・防腐効果があったという。2階の柱を見ると、長年にわたる煙で燻(いぶ)され黒ずんでいた。現在このスペースは、古い農具や養蚕用具の展示室になっている。窓は建物の妻の部分にしかないので、天気が悪いと昼間でもこの階は薄暗い。
白川郷の荻町にある合掌造りの家屋の「妻」の部分はみな一様に南北を向いているが、それには理由がある。1つは屋根に満遍なく日が当たり雪を解けやすくするため。もう1つは、風が谷に沿って南北に吹くので屋根が受ける面積を少なくするためだ。それと南北にある窓を開ければ風が入り、夏場は蚕が暑さで弱らずにすむ。内側からは屋根を支える柱が見えるが、釘を使わずに木材を組み合わせ、縄で固定しているのがよく分かるだろう。3階はもっと狭くなるが、ここも養蚕スペースに使われていた。
現在残っている合掌造りの家屋は、養蚕業が最盛期を迎えた江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたものがほとんど。合掌造りの家屋は、住居と手工業の場を兼ねて独自に大型化していったのだ。
火薬の原料となる焔硝とは?
養蚕が日本各地で行われていたのに対し、土地ならではの"特産品"ともいえるのが火薬の原料となる焔硝だった。日本に火薬が伝わったのは12世紀の元寇の時だが、大量に必要となってくるのは、16世紀に鉄砲が伝来してから。当時、火縄銃に使われていた黒色火薬は、硝石(しょうせき)と硫黄(いおう)、木炭を混ぜて作られていたが、硫黄や木炭はともかく、硝石は日本ではほとんど産出しなかった。というのも硝石は湿気に弱く、雨の多い日本では自然にはほとんど存在しなかったからだ。そのため、戦国時代には硝石は海外からの輸入に頼っていた。
江戸時代に入り鎖国が始まると、硝石の輸入は難しくなるが、日本には硝石の代わりになるものもあった。それが「焔硝(焔硝土)」だ。成分は硝石と同じ硝酸カリウムで、土壌の有機物と動物の糞尿などが窒素化合物に変わり、それが分解してできたもの。ただし肥料にも使われるように、植物に養分として吸収されてしまうし、雨が降ると溶けて染み込んでしまう。だから焔硝が自然にまとまって残るのは、家屋の床下のような乾燥した場所や家畜小屋、コウモリが住む洞窟といった、雨に当たらない場所になった。焔硝は、もともとは自然に任せて家屋の軒下などで作る「古土(こど)法」で作られていたが、それではできるまでに何十年もかかってしまう。そのため、この地域では「培養(ばいよう)法」という焔硝作りの方法が開発された。
軍事機密だった焔硝作り
記録では、戦国時代末期にはすでに白川郷・五箇山地方で焔硝が作られ、一向一揆や石山合戦ではそこから作られた火薬が使われていたという。鎖国後、焔硝の需要が高まると、この地でも再び焔硝作りが盛んになった。白川郷の合掌造りの家屋で最大規模を誇り、公開もされている「和田家」はその焔硝作りで栄えた名家で、そこを訪れると焔硝作りについての細かい説明がある。
白川郷・五箇山地方での焔硝の製法は、家屋の床下を掘り、そこに畑の土、ヨモギなどのカルシウムを含む野草、養蚕から出た大量の蚕(かいこ)のフン、人間の尿などをかけて、4、5年かけて発酵させて作る。この焔硝の製造は江戸幕府には秘密にされた藩の軍事機密だった。その点、交通が不便で、冬季には雪で数カ月も外界から閉ざされてしまう白川郷と五箇山は焔硝製造に最適な場所だった。当時、白川郷は高山藩領(後に天領)、五箇山は加賀藩領に分かれていたが、共に焔硝の製造が行われ、加賀藩では「塩硝」と呼んで他藩への販売を禁止していた。幕末には加賀藩だけで年間39トンも生産していたという。
今回の白川郷訪問では、前回訪問した和田家よりもひとまわり小さな「神田家」を見学したが、ここでは床の一部にガラスが張られて、焔硝作りを行っていた床下がよく見えるようになっていた。ブロック型の石で囲まれた焔硝作りのスペースは、深さ1mほどある。その上は囲炉裏部屋なので、冬の間でも床下はそれほど冷たくならず発酵が進んだ。しかしその上に住んでいた住民は相当臭かったに違いない。
観光資源として合掌造り家屋が注目
明治に入り日本が開国すると、海外から再び安価な硝石が輸入されるようになり、国内の焔硝作りはあっという間に廃れた。白川郷・五箇山でも、焔硝作りの歴史は忘れ去られていった。一方養蚕は明治時代にピークに達し、大型の合掌造りの家屋が引き続き建てられた。しかし戦後になると生糸の需要が減っていく。養蚕が行われなくなれば、合掌造りの家屋は非経済的なものになる。戦後は次々に現代風の住宅に建て直されていった。さらに1961年の庄川のダム建設では、全体の3分の1近い約300戸の合掌造りの家屋が湖底に沈んだ。こうして「養蚕と焔硝作り」という時代のニーズによって"創造"された合掌造りの家屋も、次第に姿を消すようになっていった。
時代とともに、世の中のニーズはさらに変わっていく。1995年に白川郷が世界遺産に登録されると、今度は合掌造りの家屋そのものが資源となり、観光客を呼び込むようになった。コロナ禍以前の2019年には観光客は過去最高の約215万人(うち約半数が外国人)が白川郷を訪れた。観光という新しい資源から、また新しい何かが生まれていくのだろうか。
※記事の情報は2021年11月24日時点のものです。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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