【連載】創造する人のための「旅」
2022.06.14
旅行&音楽ライター:前原利行
伊豆から鎌倉へ/挙兵から鎌倉入りまでの源頼朝の足跡をたどる(静岡県・神奈川県)
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の内容や画像は2020~2022年の紀行をもとにしたものです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみにしている。毎週なんて多分自分が高校生の時以来だろう。きっかけは、2年前に取材で行った伊豆の国市。そこで2022年の大河ドラマが「鎌倉殿」に決まり、その舞台になると知ったことだった。旅行ライターになって20年以上になるが、それまで出かけるのは海外ばかり。自分の住む県内ですらほとんど観光に出かけたことがなかった。
しかしコロナ禍になり、海外の代わりに国内旅行記事の依頼が増えてきた。そして国内の旅に出てみると、それまで知らなかっただけにすべてが新鮮に感じられた。この伊豆の旅以来、源頼朝や鎌倉幕府に興味を持ち、自宅から日帰りも可能な伊豆や鎌倉を訪れるようになった。今回紹介するのは、「鎌倉殿の13人」が好きな人へ贈る、源頼朝の挙兵から鎌倉入りまでの足跡をたどる旅だ。
流人として暮らした伊東の地
平安時代末期の「平治の乱」で、源頼朝の父・源義朝は敗者となり、東国へ逃亡する途中で誅殺(ちゅうさつ)されてしまう。頼朝には2人の兄がいたが、頼朝の母親が熱田神宮大宮司(あつたじんぐうだいぐうじ)の娘と家柄が上だったため、義朝の嫡男(ちゃくなん)として見られていたようだ。
13歳の時には父の力で、「従五位下(じゅごいげ)・右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」に任官している。「従五位下」以上は貴族になり、「兵衛権佐」は宮廷の護衛次官の役職なので、武士としてはかなり上の地位と言えよう。近代以前の日本では相手を本名で呼ばない習慣があった。ドラマで頼朝が「すけどの」と呼ばれていたのはこの階位からで、のちに「鎌倉殿」と呼ばれるのも同じ理由だ。
父と2人の兄は平治の乱で死んだが、頼朝は死罪を免れ、伊豆国へと流罪になる。頼朝が預けられたのは、現在の静岡県伊東市を拠点とした豪族・伊東祐親(いとう・すけちか)のもとだった。ここで少年・頼朝は成長し、祐親の娘・八重姫との間に千鶴丸(せんつるまる)をもうける。しかしこれが祐親の怒りを買い、千鶴丸は川に沈められ、命を狙われた頼朝は伊豆の北条氏のもとに移る。頼朝29歳の時だ。
伊豆半島の東の付け根にある熱海から電車で20分強。頼朝が十数年を過ごした伊東の地がある。温泉地として名高いが、コロナ禍の夏に訪れた時は海水浴場も閉鎖され、町なかに観光客の姿はほとんど見られなかった。町を流れる伊東大川沿いにある「音無神社(おとなしじんじゃ)」は、訪れる人も少ない小さな神社だが、頼朝と八重姫が人目を忍んで逢瀬を重ねていたと伝えられている。
縁結びのご利益がある神社で、奉納されている穴の空いたひしゃくは、「水が通りやすい」ということから安産につながる願掛けなのだそうだ。神社は、伊東家の屋敷があった物見塚公園からは700mほど。屋敷から抜け出て待ち合わせするにはちょうどいい距離だろう。境内には、頼朝と八重姫の物語を綴った絵巻風の展示があった。
頼朝が北条氏の元に行くまでの十数年間の青春期をどう過ごしていたのかはよく分からない。源氏再興を密かに願っていたのか、それとも流人としての生活をそれなりに受け入れていたのか。それに八重姫の話は創作度が高いとされる「曽我物語」に登場するので、本当の話かは分からない。ただ、それが本当なら、政子を含め頼朝の女性関係は、以降の日本の歴史に大きく影響を及ぼしたと言えよう。
挙兵の拠点となった伊豆の北条郷(韮山)
現在の静岡県は、平安時代には遠江、駿河、伊豆の3つの国に分かれており、伊豆国の国府は現在の三嶋大社の近くにあった。その9kmほど南に、北条氏の地盤だった北条郷(現在の伊豆の国市韮山)や伊豆の目代(国司の代理人)だった山木兼隆の屋敷があった。
現在はいちごのビニールハウスなどが目立つ農村地帯だが、江戸時代まではこの辺りは軍事的にも重要な拠点だった。西から東海道を通って関東に入る場合、三島から御殿場方面へ抜けるか、韮山付近を通って熱海の方へ抜けるかの2通りになる。戦国時代の秀吉の小田原攻めの際、韮山城は10倍以上の秀吉軍を前に3カ月も籠城したという。江戸時代には伊豆国は天領とされ、韮山には代官所も置かれたほどだ。
頼朝はここで北条時政の娘である政子と結婚し、北条一族との関係を深めていく。源氏三代の後に鎌倉幕府の最高権力者となる北条氏だが、この頃は、集められる兵力はせいぜい200、300人ほどのまだ中級クラスの地方豪族だった。それでも自分の部下がほとんどいない頼朝が頼れるのは北条氏しかいなかった。
韮山には北条氏ゆかりの寺院がいくつかあるが、もっとも有名なのは「願成就院(がんじょうじゅいん)」だ。北条時政が1189年に建立し、その後、次々に伽藍(がらん)が増築され、全盛期には伊豆屈指の大寺院になったという。だが幾度かの戦乱により伽藍は焼失し、現在の本堂は18世紀の再建によるものだ。しかしあなどってはいけない。この寺院には国宝の運慶作の仏像があるのだ。
運慶の「真作」は全国にわずか19体しかなく、そのうちの5体がここにあると知れば、その重要度が分かるだろう。このお寺には、ほかにも「北条時政の墓」と伝えられている五輪塔がある。鎌倉時代には現在のような墓石を立てる習慣はなく、土葬で土饅頭を作る程度だったが、その代わりに供養塔を立てることがあった。これもそうした供養塔だろう。
頼朝とは関係ないが、韮山には世界遺産もある。1840年に清国で起きたアヘン戦争と1853年の黒船来航は幕府に衝撃を与え、それを受けて韮山代官所の代官が鋳鉄造りのために反射炉建設を幕府に提案する。当時、世界で最も威力を発揮する兵器は大砲だった。大砲は射程距離が長いほど有利だが、そのためには精度の高い鋳鉄技術が必要になる。
幕府はオランダから反射炉の文献を手に入れて、西欧並みの性能を持つ大砲を造ろうとした。1857年に完成したこの韮山反射炉は、2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産に登録された。ただし観光地としては地味なので、その歴史的意義などを少し勉強して行くといいだろう。
頼朝の挙兵と石橋山の合戦
さて、頼朝の話に戻ろう。1180年8月17日、頼朝と北条氏は伊豆の目代である山木兼隆(もちろん平家側)の屋敷を襲撃する。北条館と山木館は互いに目視できるほどの距離(約3km)にあり、前から仲は良くなかったらしい。その後、頼朝はすぐに父・義朝が拠点としていた鎌倉を目指して東進する。鎌倉入りは、「源氏再興」をアピールするのに欠かせない場所だった。
しかし頼朝挙兵の情報をつかんでいた相模国の実力者・大庭景親(おおば・かげちか)は、3,000の兵力で頼朝討伐に向かい、両軍は石橋山で対峙した。石橋山は現在の神奈川県小田原市にある。頼朝(北条氏)の兵力はわずか300で、三浦半島に勢力がある三浦一族の応援が頼みの綱だった。しかし合流前の8月23日、大庭景親は夜襲をかけ、頼朝軍は壊滅。頼朝はひとまず自分をかくまってくれる箱根権現を目指し、山中を逃げた。
私が韮山の次に向かったのは、現在の湯河原町の山中にある頼朝が隠れていたという洞窟「しとどの窟」だ。湯河原と芦ノ湖を結ぶ県道75号沿いの駐車場から、20分ほど山道を歩く。途中、今では営業していないレストハウスや、石灯籠の参道があったので、観光地として整備されたことがあるのだろう。行き着いた洞窟には多くの石仏が並び、神聖な空気が漂っていた。ひとりでここへ来たら、怖さを感じるかもしれない。
大河ドラマでは、中村獅童演じる追手の武将・梶原景時(かじわら・かげとき)がここで頼朝を見つける。しかしその時、雷鳴が轟き、兵士たちはそばにいる頼朝を見つけられない。そのことに頼朝の"運"を感じた景時は、頼朝を見逃した。理性的に物事を考える現代とは異なり、この時代の人は信心(迷信も含む)深かった。吉兆を占うだけでなく、自然や偶然の出来事も意味があるとして考えていた。その時、梶原景時が感じたものも、今の人間には分からないことなのかもしれない。
真鶴から安房へ。態勢の立て直しをはかる頼朝
8月25日、箱根権現(現在の箱根神社)にかくまってもらっていた頼朝だが、ひとまず安全な安房国(現在の千葉県南部)に逃れることを決め、頼朝一行は山を降りて現在の真鶴岬(まなづるみさき)へと向かう。ここにも船出前に頼朝たちが潜んでいたとされる同名の洞窟「しとどの窟」がある。ところが私が見た真鶴港にあるこの洞窟は、とても人が隠れることができない小さなものだった。
それには訳があり、この洞窟は頼朝の時代には130mの奥行きがあったらしい。それが波によって次第に削られ、江戸末期には奥行きは11mになっていた。さらに関東大震災による土地の隆起や資材として石の切り出しもあり、今のような姿になってしまったのだという。
8月29日、頼朝一行は船で安房国にたどり着いた。安房では地元の豪族の安西氏が味方につき、三浦一族も合流する。9月13日に頼朝一行は安房を出発し、途中で上総広常(かずさ・ひろつね)、千葉常胤(ちば・つねたね)を味方にし、武蔵国の豪族も味方にした頼朝軍は大軍に膨れ上がり、鎌倉へと向かった。
鎌倉政権の第一歩が始まる
10月6日、頼朝は鎌倉に入った。頼朝はすぐに鎌倉を自身の本拠地とし、大倉に自分の御所を建て始める。当初、御所の場所に父・義朝の屋敷があった鎌倉北西部の亀ヶ谷(現在の扇ガ谷)を推す意見もあったという。現在の扇ガ谷には北条政子が創建したという寿福寺がある。寺の拝観は中門までだが、時間があれば裏の崖沿いにある墓地に行ってみるといい。
崖に掘られた「やぐら」と呼ばれる横穴式の供養堂のひとつに「北条政子の墓」とされているものがある(実際には江戸期に建てられた供養塔という)。この崖を登った頂上は源氏山公園になっており、そこには1980年に建てられた頼朝像があった。
頼朝は鎌倉に入ってすぐの10月12日に、材木座付近にあった源氏ゆかりの神社を移し、鶴岡八幡宮の建設を始めた。当時は、何事をするにも神事が大事だったのだ。16日には平家軍を迎え討つために頼朝は鎌倉を出発。18日に大庭景親、19日には伊東祐親を破り、20日には平家軍が布陣する駿河の富士川に達した。その夜、平家の軍勢は戦わずして撤退した。危機はひとまず回避され、12月12日には鎌倉の大倉御所が完成し、頼朝の家人となった有力御家人たちの屋敷もその周囲に建てられていく。こうして鎌倉政権の第一歩が始まった。
遠くへ行くのもいいが、近場でこんな歴史をめぐる旅も面白い。遠い過去の人々の営みが身近に感じられていくからだ。この後も頼朝関連で面白い話が続くのだが、それはまた別の機会に。私は年内は引き続き、大河ドラマとそのゆかりの地めぐりを楽しもうと思っている。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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