【連載】創造する人のための「旅」
2022.11.01
旅行&音楽ライター:前原利行
倭から日本へ。遣隋使が国家の自覚をもたらした飛鳥の地(奈良県)
"創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。
※本文の内容や画像は2022年の紀行をもとにしたものです。
「日本」という国はいつから始まったのだろう。その人の思想や立場によってもその起源は分かれるところだが、現在の日本の多くを束ね、対外的にも対等な国として認識される「くに」になったとすれば、それは飛鳥時代ぐらいからなのかなと思う。
「人は他者を見て己を知る」というが、「くに」も同じ。大和の天皇家や有力豪族たちが、自分たちを「くに」として意識したのも、朝鮮半島や中国の国々と接するようになってからで、そこから世界に通用する「国づくり」という創造が始まったのではないか。「律令制度」が機能するのはもっと後の奈良時代のことだが、そのきっかけとなった飛鳥時代を感じに、奈良県を訪れた。
日本史上初の女性天皇
夏はとても暑く冬はとても寒い奈良盆地。久しぶりに、奈良市内から電車で45分ほどの飛鳥(現在の明日香村)を訪れた。その日は9月に入っても日中の気温は30度を超える残暑で、湿気を帯びた熱気が日没まで続き、汗をかきつつの飛鳥巡りとなった。
平城京が都になるまで、日本の都は数年からせいぜい十数年程度で遷都されていた。その頃は日本の人口が300万~500万人とまだ少なく、貨幣経済もようやく始まる頃。都市機能はあまり必要とされず、「都」といっても天皇が住む宮殿と有力貴族が住む屋敷があればよかったのだろう。
593~694年にかけての約100年を「飛鳥時代」と呼び、主に現在の明日香村に宮廷が置かれた(短期間だが大阪や大津が都の時期も)。この時代に起きた主な出来事には、聖徳太子の活躍、仏教の興盛、白村江(はくすきのえ)の戦い、大化の改新と壬申の乱、遣隋使や遣唐使の派遣などがある。また、この頃に天皇家の地位が揺るぎないものになり、国家を統治する法制度が少しずつ整えられていった。
593年、日本史上最初の女性天皇である推古(すいこ)天皇が即位する。その前の崇峻(すしゅん)天皇は、飛鳥の有力豪族である蘇我馬子(そがのうまこ)と対立し暗殺されてしまった。天皇が臣下に殺されるという異常事態だが、その後も馬子はそのまま権力者の座に。新たに即位した推古天皇は、馬子の姪で蘇我氏との関係も良好だったことから天皇家を巻き込んだクーデターだったのだろう。
39歳で即位した推古天皇を補佐したのは、甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)。厩戸皇子も蘇我氏と強い血縁関係(父方の祖母も母方の祖母も蘇我氏)にあり、将来の天皇候補の1人だった。ただ、この時点では19歳でまだ若く、活躍するのは数年後になる。ちなみに推古天皇の時代はまだ「天皇」という号は称されず、「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。
隋との交流がもたらした国家の基盤づくり
バス停「甘樫丘(あまかしのおか)」でバスを降り、ツクツクボウシの鳴き声を浴びながら、標高148mの甘樫丘へ登った。高くはないが、周囲が平らな田園なので、展望台からは北に香具山などの大和三山、東南に飛鳥寺(あすかでら)のある飛鳥の中心地を見渡せる。1,400年前も同じような風景が見えたのだろうと想像すると感慨深い。
飛鳥時代の人物で、「小野妹子(おののいもこ)」という人名を覚えているだろうか。小野妹子は607年の遣隋使だが、実はその前の600年には、すでに最初の遣隋使が送られていた。ただし、これは隋の歴史書「隋書」には記されているが、「日本書紀」には記載されていない。それはなぜか。
581年、およそ300年ぶりに中国は隋によって統一された。それを知った倭(やまと)政権は、その技術や制度を学ぶだけではなく、朝鮮半島において優位に立つ野心もあり、遣隋使を送る。国を代表する正式な使者であればそれ相応の身分が必要だが、当時の倭国(わこく/「日本」と自称するのは後の時代)にはそれに当たる位階がなかった。また、隋の皇帝が倭国の政治のあり方に「道理がない」と言ったというように、明文化された政治システムもまだ倭国にはなかった。
挨拶に行った倭政権だが、礼儀やしきたりを知らずに恥をかいたような形になったので、この第1回の遣隋使は日本では記録されなかった。その代わり次回の遣隋使までに、隋に倣って政治や統治のシステムを整えることになったのだろう。
603年、隋の使者が来ても恥ずかしくないようにと小墾田宮(おはりだのみや)を造営。この年はまた、日本で初めての冠位・位階の「冠位十二階」も定められている。これにより、対外的にもどのレベルの者が使者として来ているのかを示せるようになった。604年には日本初の憲法とされる「十七条憲法」が施行される。これは「和を以(も)って貴(とうと)しと為す」のように、法律というよりは道徳的な訓戒のようなものだが、一定のルールを成文化したことは大きい。
こうして統治の体裁を固めた後の607年に第2回遣隋使が派遣された。この時、国書を持って隋に渡ったのが小野妹子だった。第3回の608年には妹子は皇帝の勅使を伴って帰国する。隋の勅使には、推古天皇または厩戸皇子が小墾田宮で謁見(えっけん)したという。
日本最古の仏像が残る飛鳥寺
飛鳥を見渡す甘樫丘の展望台を下り、徒歩10分ほどで住宅や水田に囲まれた飛鳥寺に着く。今では小さなお寺だが飛鳥時代には「法興寺(ほうこうじ)」と呼ばれ、現在の20倍という広い境内を持っていた。倭国は国外の最新文化や技術、制度を得るためにも、流行していた仏教を取り入れる必要があった。推古天皇政権の中でも蘇我氏と厩戸皇子は熱心な仏教徒で、この寺も飛鳥の中心地に蘇我氏の氏寺として建てられたのだ。
この寺の本堂にあるのが「飛鳥大仏」とも呼ばれる銅製の「釈迦如来坐像」だ。609年完成と伝えられる現存する日本最古の仏像だが、その後火災などの被害を受けて表面を覆っていた金はもうなくなっている。後世の修復も多く、オリジナル部分は少ないという。とはいえ、デザインは創建時のものだろうし、創建時から大仏が動かされていないことも調査により分かっており、飛鳥時代の面影を残す貴重なものと言えよう。都が平城京に移るとこの寺も奈良に移転し(現在の元興寺=がんごうじ)、残ったこの寺は次第に衰退。室町時代には大仏も野ざらしになっていたという。現在の飛鳥寺は、正式には江戸時代の再建による「安居院(あんごいん)」だ。この飛鳥寺は、奈良県の寺としては珍しく堂内撮影がOKだった。
聖徳太子ゆかりの斑鳩の地
私たちが教わった日本史では、推古天皇のもとで多くの改革を行ったのは厩戸皇子(聖徳太子)の印象が強い。これは後の「聖徳太子信仰」の影響が大きく、同時代の手柄の多くが太子のものとされてしまったからだという。それに対し、当時、厩戸皇子以上に力のあった蘇我馬子に対する評価は、後に「乙巳(いっし)の変」で孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が殺されたこともあり、かなり低い。
しかし近年では考古学的な発掘も進み、実際には厩戸皇子と蘇我馬子の2人はむしろ協調して政務を行っていたという。今回調べて知ったが、最近では「聖徳太子虚構説」のように実際の厩戸皇子と伝説の聖徳太子は別という説もあり、現在の中学校の教科書では「聖徳太子」は記述されない方向になっているという。時代は変わったものだ。
さまざまな改革を行った厩戸皇子だが、605年に飛鳥の北20kmにある斑鳩宮(いかるがのみや)に移り住む。その後も厩戸皇子は政治に関わっていたが、蘇我氏の勢力から離れたかったのかもしれない。607年には、斑鳩宮に隣接した場所に斑鳩寺(いかるがでら:現在の法隆寺)も建てられた。
その斑鳩宮で厩戸皇子は622年に49歳で亡くなる。推古天皇が長生きしたため、厩戸皇子が天皇になる機会は訪れなかった。蘇我氏全盛期を築いた蘇我馬子は626年、推古天皇も628年に亡くなり、日本の政治は次の世代へと引き継がれていく。
斑鳩の地は、飛鳥からよりも奈良市内から行く方が近い。法隆寺は天智天皇の時代(670年)に一度焼失するが、まもなく再建された。「世界最古の木造建築」であり、1993年に日本の寺としては初めて世界遺産に登録された。最も古いのは西院伽藍(さいいんがらん)にある金堂だが、隣の五重塔も日本最古の五重塔という。修復はまめにされてきたようなので、それほど古い建物には見えないかもしれない。
斑鳩宮があった場所には、奈良時代の739年に夢殿を含む法隆寺の東院伽藍(とういんがらん)が建てられた。法隆寺は、安置された仏像も素晴らしいものが多く、訪れがいのある場所だ。
再び飛鳥へ
さて、再び飛鳥へ。飛鳥寺付近からバスに乗り、南へ1.5kmの丘の斜面にある「石舞台古墳」を訪れた。これは巨石で造られた横穴式石室で、現在は石室が露出してしまっているが、もともとはその上に土が盛られた墳丘墓(ふんきゅうぼ)だった。この墓は現在では、ほぼ「蘇我馬子の墓」と見られている。蘇我氏の全盛期だから、これほどの巨石を使った墳墓を造ることも可能だったのだろう。やがて特権階級の埋葬は火葬が主流になり、天皇陵を除き大きな墳墓は造られなくなっていく。
推古天皇崩御後は、馬子の子の蘇我蝦夷(そがのえみし)とその子の入鹿(馬子の孫)の親子の力が強くなり、その反発から645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や藤原鎌足(ふじわらのかまたり)によるクーデター「乙巳の変」が起きている。正史である「日本書紀」ではこのクーデターを正当化するために蘇我親子の悪行を書いているが、現在はそれに対して否定的な学説も多いという。後から歴史を改変することは世につきものだ。
対外的に国家としての体裁を整えた推古天皇の時代だが、天皇の権力は後の時代に比べるとまだまだ弱かった。「中央集権国家」になるのは、およそ半世紀後に天武天皇が現れるのを待たねばならなかった。しかし「国のあり方」をどうするか、そんな「創造」が始まるきっかけになったのはこの時代だ。
現在の明日香村は、観光客がいなければ静かな農村で、かつてここに日本の都があったとは想像しにくい。稲穂がたなびく水田と自然豊かな景観が残されているのは、その後、大きな開発や発展を免れたためだろう。これからも今ぐらいののどかな観光地であってほしいと思うのはぜいたくだろうか。
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【PROFILE】
前原利行(まえはら・としゆき)
ライター&編集者。音楽業界、旅行会社を経て独立。フリーランスで海外旅行ライターの仕事のほか、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に関心を持ち執筆活動。訪問した国はアジア、ヨーロッパ、アフリカなど80カ国以上。仕事のかたわらバンド活動(ベースとキーボード)も活発に続け、数多くの音楽CDを制作、発表した。2023年2月20日逝去。享年61歳。
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