関東大震災から100年! 隅田川復興橋梁を巡る〈後編〉

【連載】ドボたんが行く!

三上美絵

関東大震災から100年! 隅田川復興橋梁を巡る〈後編〉

遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は今回何を見つけたのでしょうか!

前編はこちら

復興のシンボル「帝都のツインゲート」、永代橋と清洲橋


今回のツアーで巡った隅田川周辺のスポット今回のツアーで巡った隅田川周辺のスポット
出典:国土地理院ウェブサイト 「地理院地図」に加工(番号表記)して作成




中央大橋(④)のたもとからは、隅田川の右岸(上流から見て右側)の新川公園を歩きます。午後の日差しがじりじりと暑い時間帯でしたが、川沿いの高層マンションがちょうどよい日陰をつくってくれて、涼しい川風が吹いてきます。

上流に、「隅田川六大橋」のひとつである永代橋(えいたいばし、⑥)が見えてきました。永代橋は明治時代、すでに木橋から鉄橋に架け替えられていたので、関東大震災の揺れでは大きな損傷を受けず、発災直後には渡ることができたそうです。ところが、路面はまだ木造だったため、橋の下を通る船や通行人の荷物から火が移り、燃え広がってしまったのです。永代橋以外の橋もほとんどが焼け落ち、逃げ場を失った多くの人命が失われました。

復興事業で架け替えが決まった永代橋は、「帝都の門」として雄大なアーチがデザインされました。当時、隅田川本流にはそれより下流に橋はなく、東京湾から隅田川へ入る最初の橋が永代橋だったのです。

設計を手掛けたのは、当時内務省に設置された復興局土木部長の太田圓三(えんぞう)と橋梁課長の田中豊。復興橋梁はいずれも耐火耐震構造とされ、都市の美観にも配慮がなされました。永代橋には「タイドアーチ」という構造形式を採用。弓の両端に弦を張るように、アーチの両端を桁で結んだ構造です。その後の第2次世界大戦で空襲を受け、上部の横架材に焼夷弾の跡がありますが、橋自体はびくともしませんでした。


「あそこに見えるのが永代橋ですよ~」と説明するワタクシ(撮影:宮田太郎。以下、特記以外は三上美絵)「あそこに見えるのが永代橋ですよ~」と説明するワタクシ(撮影:宮田太郎。以下、特記以外は三上美絵)


現在の永代橋は、帝都復興事業により1926(大正15)年に竣工したもの。創架は元禄時代で、明治時代のトラス鉄橋が関東大震災で被災し、架け替えられた。右奥に東京スカイツリーが見える現在の永代橋は、帝都復興事業により1926(大正15)年に竣工したもの。創架は元禄時代で、明治時代のトラス鉄橋が関東大震災で被災し、架け替えられた。右奥に東京スカイツリーが見える


「あっ、あそこだ!」。みんなで横架材に残る焼夷弾の痕を見つけた(撮影:宮田太郎)「あっ、あそこだ!」。みんなで横架材に残る焼夷弾の痕を見つけた(撮影:宮田太郎)



さらに上流に向かうと、永代橋の先で、日本橋川が隅田川に流れ込んでいます。その日本橋川に架かっているのが、「豊海橋(とよみばし、⑦)」です。2本のはしごを横にして、上でつないだようなこの構造は「フィーレンデール」。これも関東大震災後の復興橋梁のひとつです。

豊海橋を渡り、隅田川沿いを上流へ向けて少し歩くと、今度は隅田川六大橋のひとつ、「清洲橋(きよすばし、⑧)」に出ます。ドイツの「ケルンの吊橋」をモデルにした優美な吊橋で、凹型の曲線が永代橋の凸型のアーチと対になっていることから、両方を合わせて「ツインゲート」とも呼ばれます。これぞ、ドボたん三上の一番の"推し橋梁"!

遠くからの姿は繊細に見えるものの、近くで見る清洲橋は、どっしりして迫力満点。2つの塔からゆったりと曲線を描いているケーブルは、通常の吊橋と違ってワイヤーではなく、鋼板を何枚も張り合わせた「アイバーチェーン」と呼ばれる部材です。これは当時の最先端技術であり、復興事業のチャレンジでした。


1927(昭和2)年に竣工した復興橋梁・豊海橋。日本橋川の第一橋梁で、形式は下路式フィーレンデール1927(昭和2)年に竣工した復興橋梁・豊海橋。日本橋川の第一橋梁で、形式は下路式フィーレンデール


清洲橋は2本の門柱から吊り下げた「アイバーチェーン」で桁を支える吊橋。凹型の曲線が美しい(撮影:宮田太郎)清洲橋は2本の門柱から吊り下げた「アイバーチェーン」で桁を支える吊橋。凹型の曲線が美しい(撮影:宮田太郎)


清洲橋のアイバーチェーン。鋼板を張り合わせて鎖状につないでいる清洲橋のアイバーチェーン。鋼板を張り合わせて鎖状につないでいる




江戸の風情が残る柳橋から両国へ

清洲橋を渡り、ここからは左岸側を北上。すぐに、小名木川(おなぎがわ)が隅田川に合流する場所に出ます。小名木川の河口に架かっている第一橋梁が「萬年橋(まんねんばし、⑨)」です。小名木川は江戸時代に、千葉・行徳(ぎょうとく)の塩などを城下へ運ぶために設けられた掘割です。震災当時は木造の橋が架かっていましたが、復興事業で現在の鋼製のアーチ橋に架け替えられました。

隅田川本流の次の橋は、「新大橋(⑪)」です。現在の橋は、1977(昭和52)年に完成した比較的新しい橋。でも、だから"新"大橋なのではありません(じつは、私はそう思っていたのですが 笑)。初代の新大橋が架けられたのは、元禄時代の1694年でした。当時、このあたりの隅田川下流は「大川」、お隣の両国橋は「大橋」と呼ばれていたことから、その次にできた橋として新大橋と名づけられたのだそうです。

江戸時代に木橋だった新大橋は20回以上架け替えられ、1912(明治45)年に鉄橋となりました。隅田川のほかの橋とは違って路面がコンクリートだったため、震災の時も焼失をまぬがれ、避難路として役に立ちました。多くの人命を救った新大橋、震災後は「お助け橋」と呼ばれたといいます。

今回のツアーの下見で新大橋を渡った時、橋詰に古い街灯のような柱があることに気づきました。調べてみると、なんと、これが先代の新大橋、つまりお助け橋の親柱(橋の欄干の両端に設置される柱)だったのです。尖塔のような形の美しい親柱でした。


萬年橋。形式は、アーチリブがトラス状になった「ブレースドリブアーチ」。角度によって、左奥の昭文社ビルの屋根のカーブが橋のアーチの延長のように見えて楽しい萬年橋。形式は、アーチリブがトラス状になった「ブレースドリブアーチ」。角度によって、左奥の昭文社ビルの屋根のカーブが橋のアーチの延長のように見えて楽しい


新大橋の東橋詰に遺されている先代・新大橋の親柱。現在の橋に架け替えられた時、先代の橋の一部は愛知県の「明治村」に移築された(写真:宮田太郎)新大橋の東橋詰に遺されている先代・新大橋の親柱。現在の橋に架け替えられた時、先代の橋の一部は愛知県の「明治村」に移築された(写真:宮田太郎)



新大橋を渡り、再び右岸のほとりを歩きます。震災復興事業で防火帯と避難地を兼ねて設けられた浜町公園(⑫)の脇を通り、「両国橋(⑭)」のたもとに到着。1657(明暦3)年の「明暦の大火」の後に架けられた、隅田川で2番目に古い橋です。震災当時、すでに鉄橋に架け替えられており、木造の路面など一部は焼けたものの、構造には大きなダメージがなかったため通行が可能で、しばらくは応急復旧工事のために使われました。その後、復興事業でほかの橋の架け替えに合わせて、東京市が架け替えました。

訪問時は、拡幅工事中で養生シートが架けられており、全体を見ることができませんでした。少し残念。

両国橋のすぐ先で、神田川が隅田川に合流しています。その神田川の第一橋梁が「柳橋(⑬)」です。最初の橋が架けられたのは江戸時代の中頃といわれ、当時からこの界隈は隅田川の船遊びの船宿が軒を連ねていたそうです。明治時代には鉄橋に架け替えられましたが、震災で焼け落ち、復興橋梁として現在の橋が架けられました。

ん、この形、どこかで見たような......と思ったら、そう。サイズ感は全然違いますが、永代橋と形が似てる。プチ永代橋と呼んでもいいくらいです。それもそのはず、現地の説明板には「永代橋のデザインを採り入れた」とありました。周辺には今も屋形船などが停泊しており、江戸情緒を味わうことができます。


さて、この日の復興橋梁めぐりはここまで。両国橋を渡り、JR両国駅(⑮)で解散しました。隅田川六大橋のうち、今回訪れたのは河口から相生橋(③)、永代橋、清洲橋の3橋。次回のツアーではさらに上流へ向けて蔵前橋、駒形橋、言問橋を訪れる予定です。お楽しみに!


復興事業で1932(昭和7)年に完成した両国橋。現在は拡幅工事中(写真は2023年2月頃に撮影)復興事業で1932(昭和7)年に完成した両国橋。現在は拡幅工事中(写真は2023年2月頃に撮影)


神田川の第一橋梁の柳橋。色も大きさも異なれど、デザインはプチ永代橋神田川の第一橋梁の柳橋。色も大きさも異なれど、デザインはプチ永代橋


柳橋から神田川の上流を見る。両岸に屋形船が係留された風景は、江戸のにぎわいを思わせる柳橋から神田川の上流を見る。両岸に屋形船が係留された風景は、江戸のにぎわいを思わせる


※記事の情報は2023年7月28日時点のものです。

  • プロフィール画像 三上美絵

    【PROFILE】

    三上美絵(みかみ・みえ)

    土木ライター
    大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
    著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
    建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp

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