映画を作りたいからやっている。やらないと、近づかない。

JAN 24, 2020

犬童一心さん 映画監督〈インタビュー〉 映画を作りたいからやっている。やらないと、近づかない。

JAN 24, 2020

犬童一心さん 映画監督〈インタビュー〉 映画を作りたいからやっている。やらないと、近づかない。 犬童一心監督のインタビュー③。今制作中の田中泯さんのドキュメンタリー映画についてお話をうかがいました。

田中泯さんとの衝撃的な出会い。そしてドキュメンタリー制作へ。

――次回作についてうかがいたいと思います。次に私たちは、犬童監督のどんな作品を見られるのでしょうか。

今進行中の、田中泯さんのドキュメンタリー映画が今年、できます。あと海外での2回ぐらいで撮影が終わります。他のものが先になっちゃうかもしれないですけど、でもいま作っている最中なのはこの作品です。

――田中泯さんは「メゾン・ド・ヒミコ」の他にテレビ版の「グーグーだって猫である」にも出演されていますが、そもそも田中泯さんと監督はどのような出会いだったのですか。

田中泯さんは、実は、僕はよく知りませんでした。「たそがれ清兵衛」を見てすごくカッコいい殺陣だな、いい俳優だなと思っていただけで、その俳優さんがダンサーだということも知らなかったんです。

それがどうして泯さんと一緒にやるようになったかって言うと、「メゾン・ド・ヒミコ」の柴咲コウさんの父親役が見つからなかったんです。プロデューサーから提案される人たちがことごとく違うなと思って、見つかるまで一度企画を止めたほうがいいぐらいに思ってました。

「黄泉がえり」のシナリオを書いて日本アカデミー賞にノミネートされたときに、会場に行ったんです。そうしたらずっと離れた前のテーブルに、ジャケットを着て下向いたままじっとしている人がいた。ずっと黙って。むちゃくちゃかっこいいなと思って見ていたんです。会場は俳優だらけだけど、僕から見ると一番目立っている。圧倒的なんですよ。その存在している「居かた」が。

その「居かた」は俳優じゃない、どっかの映画会社の偉い人とか、プロデューサーとか、とにかく素人だと思ったんです。何ていうか超強力な素人。「この人って人間なのか?」ぐらいの勢いで座っている。なんかその会場にまったく合っていない。

でも、俳優じゃないけどこの人が「メゾン・ド・ヒミコ」の父親にぴったりだと思ったんです。そしたら会場で「田中泯さん」って呼ばれてその人が舞台に上がった。前年に「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞の助演男優賞を受賞していて、プレゼンターで来ていたんですよ。前年の人が渡すから。

え、この人って俳優なの? 「たそがれ清兵衛」のあの俳優なの? ってなって。それで絶対に父親はあの人しかいないなと思って、プロデューサーに父親は田中泯さんがいいって話して、泯さんに会いに行きました。でも踊りはまだ一回も見ていないんです。

田中泯さんとの衝撃的な出会い。そしてドキュメンタリー制作へ。

周囲の空間を変容させる、田中泯さんの踊りの力。

それから僕の映画に出てもらうようになって、そのうちダンス公演も観に行くようになって、泯さんがポルトガルのフェスティバルに踊りに行くから、一緒に来ないかって誘われて、せっかくポルトガルで踊るのに撮影しないともったいないなと思って、スタッフを連れて、行って撮ったんです。

泯さんは、ポルトガルの路地とかを二人で散歩していて「この路地いいね」ってなると、「ここで踊ります」って即興で踊るんです。それを撮った。

ポルトガルだけで8つくらい踊りを撮って、東京に帰ってそれを「るろうに剣心」とかを編集している今井さんに預けて18分くらいに編集してもらった。それがすごく良くて。ずっと踊りだけがつながっているんですけど、あっという間に見ちゃったんですよ。

それで、帰ってきてからもスタッフを連れて、日本中で泯さんが踊っているところを撮っていったんです。その流れでフランスまで撮りに行ったり。

フランスに行くと分かりますが、泯さんはすごく有名です。パリで海外デビューしたころの話とか写真とかがいっぱい残っています。本にもなっているし。

共産圏時代のチェコで、後に革命を起こす側の主要人物の人たちが秘密警察に隠れてやっていたクラブがあるんですけど、泯さんは革命前にそこで何度も踊っているんですよ。それを撮影していたカメラマンが、革命が終わってから泯さんの写真集をチェコで出しています。その秘密クラブで踊っていたときに見に来ていた人の中のハヴェルさんが後に大統領になるんです。そういう面白い話がたくさんある。

夢の島のゴミの中で踊っている写真集が出ていたり、有名なミュージシャンとも共演していたり。そういう歴史と、今世界中で旅をしながら踊っている姿をミックスして、旅の最中のダンサーの内面について行く。そういう感じで編集しているんです。

初めて「メゾン・ド・ヒミコ」の出演依頼に行ったとき、泯さんは、すごくいいシナリオだって言ってくれたんです。だけど、「僕は『たそがれ清兵衛』に出たけれども、実は全く演技をしていない」って言うんですね。自分としては踊りだと思ってやったみたいなことを言うわけですよ。

だからセリフとかは上手に言えないし、演技もできないけど、撮影している最中にその場所に、どう居たらいいかっていうことだけは、ちゃんと考えることができる。それはずっとやってきたからできるけど、それでいいかって言われたんですよ。

どう居たらいいか。僕はそれまで考えたこともなかったけど、言われたときに、そうなんです、それが一番重要なんですって自然に思ったんです。俳優は本来、どう居たらいいかから始めなきゃ。

泯さんの踊りを見ていると、それをやっているのが分かるんですよ。泯さんの踊りってストーリーが知らされないんですね。音楽がないときもあるし、設定もわからないし。だけどいきなり踊り出すわけです。ところがそれをずっと見ちゃうんですよ。

僕だけじゃないです。通りがかりの人もじっと見ちゃう。子供も泯さんが踊ってると、ずっとついて来ちゃって見る。これはどういうことなのか。

僕からすると、ストーリーから離れられるっていうのが、すごく自由に見えるんです。僕は普段ストーリーと設定で2時間どうしようかって言っているけど、そういうの全部なしでいきなり始めても、見せちゃう。たぶん見ているほうが、惹きつけられて自分で何かを見出してるんです。普段出会えないものが現れて、その場所が変わっていることも感じている。

フランスのポワチエっていう街で、いきなり泯さんが踊り出す。みんな見ちゃうんですね。それでそこの市長が泯さんに勲章をあげたんですけど、市長は挨拶のなかで、ふだん自分たちが接しているポワチエの街が、田中泯さんが踊ることによって、変容するみたいなことを言ったんです。今まで見たこともない空間になって、みんながじっと見ていたその時間が素晴らしかったと。

泯さんの力と見る人の力で周りを変えてしまう。そして踊りのなかで、見ている人が勝手にストーリーを作る。これを長い映画にできないかなと思って、泯さんの人生を語ることで物語を作ることはできないかなと思っています。

周囲の空間を変容させる、田中泯さんの踊りの力。



とにかく映画が好きで、作ってみたかった。その欲求があるだけ。

――映画も含め、さまざまなことで創造にチャレンジしている人、特に若者たちに、何かメッセージをいただけないでしょうか。

あくまで僕の場合ですが、僕は映画を作りたかったんであって、映画監督になりたかったわけじゃないんです。とにかく子供のころから映画が好きで、一回試しに作ってみたかったんです。作ってみたかったから作って、面白くて、次はこういうのが作りたいとなって、また作って。

CMの仕事を始めたら、アニメが作ってみたくなって、それで次に映画を作れることになったら、漫才に興味があって、それを映画にしてみたかったから映画にした。僕はそっちのほうが自然なんです。

だから今も泯さんの映画を作りたいからやる。そっちが主体です。まず自分が何をやりたいか。実は作品を作り、考えることが人生において重要だとも思っていなくて、人生において重要なことはもっと他にある。ただやりたかっただけなんです。

――それが続いているわけですね。

ずっと続いている感じなんですよ。やっていると、頼まれる仕事があって、それもやっているとすごく勉強になる。その中に、自分がやりたいこともつぎ込んでいくんですけど。

映画を見ているだけ、撮り方の本だけじゃ分からないということがあるんですよ。ロケハンしていたら、こう撮ったらここに俳優がいてカメラ位置はここっていうのが、肉体的にできるようになることが重要。それは映画の仕事だけじゃないような気がします。

やっていないとそれは身につかない。たとえばすごく才能のある画家が急に映画を撮ってもいい映画が撮れる。いいスタッフがいるから撮れるということもありますが、その人のビジュアルの才能でいい映画は撮れる。ですが、たぶん僕が好きな映画は、そういうことじゃないんです。

職人的っていう言い方をする人もいるかもしれない。ここは望遠レンズだなとか、ロングショットだなとか、カットバックだなとか肉体で感じ、測って組み立てるもの、そういうものに憧れがあるんです。頼まれた仕事をやっているうちに、肉体的に映画っていうものを把握していくっていうことにもなる。

脚本もそうなんです。頼まれた脚本を書くと、締め切りがあるからやる。30分ドラマの一本を書くのも、忙しいし、夜中やらなきゃいけないから嫌なんですけど、仕方なく最後まで書くと、分かってくることがある。

面倒くさい。けどやるんですよ。シナリオを書いたりとか、コンテもCMのコンテとか書くのはすごく嫌だけど、描いているうちに、だんだん描けるようになる。コンテは描いていくときのスピードと頭が一致してきたほうが、いいんです。最初は手が追いつかなくてできない。頭のなかの画の流れと同じスピードでコンテを描けるようなると、すごくコンテが立てやすくなる。

でも、シナリオというものはどういうものか知りたいとか、編集を知りたいとか、頭で考えてすごく知りたいと思っているのとも違うんですよ。そういういわゆるセミナーで言ってる成長とか成功の秘訣かじゃない、欲求があるだけなんです。

欲求として、パズルを完成させるみたいなものに近いと思うんですけど、パズルを組み合わせていったら分かるところに近づいていくみたいなことです。映画というパズル。やらないと近づけないですよね。ルービックキューブだって、やっていたらいつかできるかもしれない。でもやらないで見ていてもそれは絶対完成しない。湧き出る欲望がなかったら、できないかな、とも思います。


やりたいという欲求があるからやる。やらなければ行きたいところに近づけない。シンプルで強いメッセージが心に響く、素敵なインタビューでした。犬童監督の映画への深い愛情、映画を作る人が考えていることや、作られかたの実際もお話しいただき、一映画ファンとしても、とても楽しい時間になりました。犬童監督、お忙しいなか本当にありがとうございました。


※記事の情報は2020年1月24日時点のものです。

  • プロフィール画像 犬童一心さん 映画監督〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    犬童一心(いぬどう いっしん)
    1960年生まれ。高校時代より映画製作を行い、「気分を変えて?」(78)がぴあフィルムフエスティバル入選。大学時代、池袋文芸座と提携して16mm作品「赤すいか黄すいか」(82)、8mm作品「夏がいっぱい物語」を発表。大学卒業後CM演出家としてTV-CMの企画・演出を手掛け、数々の広告賞を受賞。
    その後、インディーズ作品「二人が喋ってる。」(95)が、映画監督協会新人賞、サンダンスフィルムフェスティバルin東京グランプリを受賞。1998年に市川準監督の「大阪物語」の脚本執筆を手がけ、本格的に映画界へ進出。
    1999年に「金髪の草原」で商業映画監督デビュー、夕張ファンタスティック映画祭グランプリを受賞。2003年には、「ジョゼと虎と魚たち」にて第54回芸術選奨文部科学大臣新人賞。2005年「メゾン・ド・ヒミコ」で56回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。「眉山 びざん」(07)、「ゼロの焦点」(09)、「のぼうの城」(13)で日本アカデミー賞優秀作品賞・監督賞。「黄泉がえり」(03)、「ゼロの焦点」(09)で日本アカデミー賞優秀脚本賞。テレビドラマ「グーグーだって猫である」(16)放送文化基金賞。

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