アート
2022.02.15
杉原裕明さん インテリアデザイナー〈インタビュー〉
砂漠で遊ぶ。地球と遊ぶ。
砂漠に魅せられた男がいる。インテリアデザイナーの杉原裕明さんだ。きっかけは大学3年生のとき、当時住んでいたアパートの下にあった喫茶店で見た週刊誌だった。パラパラとページをめくると、砂漠を激走するクルマの写真が目に飛び込んできた。クルマで砂漠、走れるの!? まさかその10年後、世界一過酷なモータースポーツ競技といわれているパリ-ダカール・ラリー(現在はダカール・ラリー)に出場し、アフリカの砂漠に挑み、クラス優勝するなど知る由もない。
パリ-ダカへの想い、原点は小学5年生で覚えたクルマの運転
世界を相手に活躍するインテリアデザイナー、杉原裕明さんは40年のキャリアを持つベテランだ。生まれは瀬戸内海に浮かぶ淡路島。人生の大半を兵庫県で過ごしているにもかかわらず、関西弁ではなく標準語を操る。ダンディな風貌と相まって、とてもとても砂漠で砂まみれになるようなお方には見えない。なにゆえ杉原さんは砂漠に、パリ-ダカ*1に魅せられたのか? その疑問を晴らすためには、時計の針をかなり巻き戻す必要がある。
クルマの運転は小学5年生のときに覚えました。父親に廃車寸前の軽自動車を与えられ、野っ原を走り回っていたのですね。おおらかな時代の話だし、もう50年以上も経っているので時効でしょう(笑)。クルマの運転に慣れてくると、ついついスピードを出したくもなる。路面は土。当然、ハンドルを切るとタイヤがスリップして、走行するラインがどんどん外側に膨らんでしまう。そんなとき、滑ってる方向とは逆側にハンドルを切ると、横滑りが抑えられることを自然に学んだんですね。(杉原さん)
これは逆ハンドル(逆ハン)、もしくはカウンターステアというテクニック。レースの世界では当たり前のように使われるテクニックだが、まだ免許もない小学5年生のときにこのテクニックを体得したとは驚きだ。その甲斐もあり(?)、中学生になると乗り回すクルマは軽自動車から1,600ccの乗用車にランクアップした。
*1 パリ-ダカール・ラリー:砂漠や山岳地帯などを走り、総合タイムを競う、世界的な自動車ラリー競技大会。通称「パリ-ダカ」。1979年に創始し、当初はフランスのパリからセネガルのダカールまでを走破することから、「パリ-ダカール・ラリー」と呼ばれていたが、アフリカの治安悪化により、2009年から南米大陸に舞台を移し、現在は「ダカール・ラリー」と称される。
あるデザイナーとの出会いが人生を変えた
杉原さんの実家はペンションを経営しており、将来は2代目として継ぐことに何の疑問も抱いていなかったという。高校は簿記を学べるからと実業高校に進学。卒業後は京都の料亭で修業するというレールが敷かれていた。
そんな折、ペンションを改装することになり、大阪からインテリアデザイナーが打ち合わせにやってきた。ロン毛に髭(ひげ)という風貌に、杉原さんはやられた。
カッコイイ! と思ったんですね。猛烈に憧れました。その方は鈴木さんとおっしゃるのですが、「どうしたら鈴木さんのようになれますか?」と質問したら、「大阪芸大に進学して設計事務所に就職すればいい」と教えられました。翌日、学校に行って「大阪芸大に進学したい」と先生に相談すると、「ウチは実業高校だから大学の資料なんてないよ。ちなみに何科? デザイン学科!? 杉原君、競争率23倍だよ! 厳しくないか...」。
ショックでした。でも、「とりあえず絵を描いて持って来なさい」と言われたので、徹夜で絵を描きました。翌日、描き上げた絵を持って行くと、パッと見て「キミ、無理だよ」のひと言。家出しました。(杉原さん)
杉原さんが向かった先は、大阪。鈴木さんのデザイン事務所を探し出し、「働かせてください!」と直談判したのだ。ただ事ではないと察した鈴木さんは、淡路島の家に戻ることを条件に、月に1回、絵の指導をすることを約束。それから半年、杉原さんは大阪に通った。
描いた絵を鈴木さんに見せても、具体的な指導はなかったという。「もっと自然を感じろ」といった抽象的な意見しかもらえなかったそうだ。そして高校3年生の12月、大阪芸術大学デザイン学科の全免試験、つまり特待生試験を受験することになる。与えられた課題の絵を5時間で描き上げるのだが、杉原さんは絶望した。周りのレベルが高すぎて、到底無理と思えたのだ。鈴木さんが具体的な指導をしてくれなかったのは、指導するレベルに達していないため。それを理解させるために全免試験を受けさせたのだ......と杉原さんは悟った。
それでも杉原さんはくじけなかった。「2月に一般の入学試験を受けさせてください。それでダメなら潔く諦めます」と両親を説得。ハードな練習の部活動(剣道部)を続けながら、徹夜で絵を描き続けること2カ月。試験に臨んだ杉原さんは、奇策とも思える黒を基調とした絵を描いた。他の受験生が描く絵とは別のベクトルで挑んだのだ。結果は合格。予備校にも通わず、大阪行きの切符を手に入れた。
大学、就職、起業......、目の前にパリ-ダカが現れた
晴れて大阪芸大生となった杉原さんは、1人暮らしを始めた。大学時代にも面白いエピソードがたくさんあるのだが、パリ-ダカとの出合いを語らずにはいられない。
当時住んでいたアパートの下に喫茶店がありましてね。貧乏学生だからコーヒーしか頼めないんですよ。でも、そこのお母さんがいい人で、ちょくちょくごちそうしてくれて。......で、何げなく置いてあった「週刊プレイボーイ」を手に取ると、砂漠を走るクルマの写真が目に飛び込んできたんですよ。衝撃でした。なんでクルマで砂漠を走れるんだろう。もう、いろんな想いが頭の中を駆け巡りました。(杉原さん)
とにかく大学を卒業したら東京に行く。そう決めた杉原さんは、5社の就職試験を受けた。そのうち、東京で働かせてくれるデザイン事務所は1社のみ。採用されるのは100名のうちの5名という狭き門だ。この就職試験に、杉原さんはジーパンで臨んだ。
常識がなかったんですね。周りを見渡すとみんなスーツ姿で、ジーパンは僕だけ。持参した作品も僕だけA全を5枚。みんなA4のファイルにまとめているのに(笑)。面接官には「こんなに持ってきたの? スーツは?」と言われる始末。「就職が決まったらスーツを買います!」と答えたら、なぜか採用されました。(杉原さん)
よほど何かやらかす大物と思われたのだろう。こうして杉原さんは東京で働くことになる。でも、たった2年で会社を辞めた。
目指すデザインの方向性が違ったんですね。24歳で独立。起業しました。渋谷区の神泉、山手通り沿いに事務所を借りたんですけど、最初の1年は仕事が取れなくて......。どうにかコンペで勝って、とあるイタリアの案件を受注しました。そこから3年くらい、寝ないで働きました。そんなある日、事務所のそばにバイク店があることに気がついたんですね。ふと立ち寄ると、茶色く汚れたTシャツが額に入れて飾ってあったんです。店主に尋ねると、「パリ-ダカで着たTシャツだよ」と。大学生の時に見た週プレをすぐに思い出しました。
コレだ!!(杉原さん)
そのバイク店は国際的なラリーストでもある浅賀明さんのお店だったのだ。小学生でカウンターステアをマスターし、大学時代にパリ-ダカを知り、社会人になってからパリ-ダカに出たことがあるラリーストと出会う。運命的なものを感じずにはいられない。
その日は感動して3時間くらい話し込みました。もう、そこからパリ-ダカ一色ですよ(笑)。家に帰ってかみさんに相談したら「やってみたら」の一言。これ幸いとばかりに翌日も浅賀さんのお店に行って、「パリ-ダカに出るためには、どうしたらいいのか教えてくれ!」と詰め寄りました。(杉原さん)
そこまで杉原さんが憧れたパリ-ダカとは何なのか? パリ-ダカール・ラリーはフランス人の冒険家、ティエリー・サビーヌが発案したラリーレイドで、例年1月に開催。世界一過酷なモータースポーツともいわれている。1979年が初開催で、フランスのパリをスタートし、セネガルのダカールがゴール(アフリカのみで開催の年もあり)。およそ1万2,000キロを2週間程度で駆け抜ける。
膨大な出費。生活が一変した
四輪、二輪、カミオン(トラック)がアフリカの大地に挑むが、完走率が5割以下というのも珍しくなく、死者が出ることすらある。日本からは三菱自動車やトヨタ、日産が、海外勢ではポルシェやプジョー、シトロエンがワークス*2として参戦していた。1990年前後からアフリカの治安悪化により、地雷による事故、テロ組織等による強盗、銃撃事件が多発。それでも続けられていたが、2008年に全区間の開催が中止され、2009年には舞台を南米のアルゼンチンとチリに変更。以降、ペルーが開催国に加わるなどしたが、2020年からはサウジアラビアで開催されている。
そんな過酷なラリーレイドに、杉原さんは魅せられてしまったのだ。四輪でエントリーするためにはライセンスの取得、ドライバー、もしくはコ・ドライバー(ナビゲーター)の獲得、ラリーカーの製作などなど、膨大なタスクをこなさなければならない。必要な資金はプライベーター*3でもウン千万円、ワークスともなれば億単位となる。パリ-ダカに出ると決めてから、杉原さんの生活は一変した。
まず、ベース車両を買いました。浅賀さんに相談したら、「完走狙いならランドクルーザー70、クラスでトップ争いしたいならランドクルーザー80」と言われたので、ハチマル*4を。それから猪突猛進です。毎日、9時から14時まではスポンサー集めに奔走し、14時から19時まではデザインの仕事をして、19時から23時まではラリーカーの製作。23時から翌5時まで事務所に戻って仕事。睡眠時間は約2時間。その繰り返しです。(杉原さん)
*2 ワークス:レース関連用語。自動車メーカーなどが自己資金でレース活動を行う団体およびチームのこと
*3 プライベーター:レース関連用語。スポンサーのついていないチームおよび個人のこと
*4 ハチマル:ランドクルーザー80
憧れの地、アフリカへ
そんな苦労を乗り越え、1990年12月、杉原さんはパリに渡った。紆余曲折を経て、パリ-ダカ参戦10年のキャリアを持つ横田紀一郎さんが監督を務めるチームGGAの一員としてエントリーしたのだ。ドライバーは浅賀明さんの兄、浅賀敏則さん。杉原さんはコ・ドライバーだ。
この年の出走台数は406台。アフリカ・ステージの出走順を決める予選は、100位以内が目標でした。それを超えると、タイムオーバーになる可能性が高くなるので。結果は予選107位。微妙なラインです。パリから南へ約400km、クレルモン・フェランで予選が行われたのですが、当日は雨。路面はグチャグチャです。我々はプライベーターなので砂漠用のタイヤしか用意できず、まともに走れなかったのですね。(杉原さん)
波乱の幕開けとなったが、アフリカに渡ってから杉原さんは類稀(たぐいまれ)なナビゲーション・スキルを発揮した。
コ・ドライバーは主催者から渡されたナビゲーションマップ、日めくりカレンダーみたいなコマ図を見て、その情報をドライバーに伝えて、ラリーカーの進むべき方向、アクセルやブレーキのタイミングなどを指示するのですが、コース全体を俯瞰(ふかん)できるようになったのです。
インテリアデザイナーは鳥瞰図を描くので、例えば南へ何キロ、次に東へ何キロ進むのであれば、ここでショートカットできる! みたいなことが、頭の中で計算して分かったのですね。その推論を確論にするため、ラリーカーを砂丘の上に止めて地形などを分析。思い描いた方向にラリーカーを走らせると、見事にショートカットできたのです。順位は一気に60位ぐらいまで上がりました。(杉原さん)
パリを1990年12月29日にスタートし、マルセイユからアフリカのリビアに渡ったのが翌年1月2日。1月6日にニジェールに入り、1月9日、ニジェール北部最大の都市、アガデスで休息日を迎える。
アガデスからゴールのダカールまでは僅差でした。トップ10位内のタイム差は1分もなかったと思います。この頃になると我々はトップタイムを叩き出すこともあり、ワークス勢からマークされる存在にまでなっていました。だから大変でした。目の前でブロックされたり、後ろからプッシングされたり......。(杉原さん)
ワークスチームは2~3台エントリーするのが一般的で、いわゆる1号車にエースドライバーが乗っている。エースドライバーを勝たせるために、チームオーダーとして2号車、3号車のドライバーは反則スレスレのフォーメーションを組むのだ。
後半、あのバタネンを抜きましたからね。(杉原さん)
アリ・バタネン。フィンランド出身のラリードライバーで、1981年の世界ラリー選手権(WRC)でドライバーズチャンピオンを獲得。1987年に活動の場をバリ-ダカに移し、4度も総合優勝を遂げた名ドライバーだ。
コ・ドライバーといっても、時にはハンドルを握ることもある。杉原さんは全行程の3~4割程度、ラリーカーを操った。
後半戦はマリ~モーリタニア~セネガルを走ったのですが、自らハンドルを握ると、子どもの頃に自然と身につけたカウンターステアの感覚が蘇ってきて、うれしくなりました。走るステージはほとんど砂漠で、寝るのは砂漠の上でテント。車内の温度は50度以上、テントの中は氷点下と過酷で辛かったですが、とにかく楽しもうと思いました。実際、楽しかったです。ドライバーの浅賀さんから、「杉原さんはいつも笑顔だからホッとする」と言われましたしね。(杉原さん)
1月17日、セネガルの首都ダカールでゴールを迎えたパリ-ダカ。完走台数168台。杉原さんのチームは総合44位、クラス優勝(市販車改造T2)を果たした。ちなみに、この年の総合優勝はバタネン(シトロエン)だった。
杉原さんのパリ-ダカは、この1回だけで終わった。当然、優秀な成績を収めたので、浅賀さんだけではなく、他のチームからもオファーがあったが、すべて断ったのだ。
もちろん、パリ-ダカにまた出たいとは思いましたが、そうすると今の仕事で自分のやりたいことができない。総合的に判断して、1回でスパっと辞めました。(杉原さん)
杉原さんはパリ-ダカ以降も意欲的にインテリアデザインの仕事をこなしている。1996年にドイツのwanzl社、2007年にイタリアのbencore社と日本エージェント契約を締結。その交渉などにはパリ-ダカで得た経験が活かされたという。
絶対に諦めないハート
欧州ではモータースポーツに対する理解が深く、ドライバーを敬う気持ちが強いんですね。私がパリ-ダカでクラス優勝したことを知ると、座礁しかけていた案件がスムーズに進行したりしました。デザイン面では具体的なカタチというよりも、考え方を学んだ気がします。
あとは絶対に諦めないハート。多くの人は90%くらいまで到達しているのに、最後の10%が辛くて諦めてしまうパターンが多いと思います。私は急遽、大阪芸大への進学を決めたり、無鉄砲とも思える就職試験に挑んだり、そして大してモータースポーツの経験もないのにパリ-ダカに挑戦したりと、チャレンジの連続でした。私は昔からできない理由を考えるより、できる方法を考えるんです。諦めたら終わりなんですよ。(杉原さん)
実は杉原さん、アクティオ本社に新設したレンサルティングスタジオ(ショールーム)のデザインを担当している。プロジェクトはコロナ禍に進行したため、施工業者の離脱、資材の輸入遅延など、さまざまな困難に直面した。迫る納期......、時には杉原さん自らがトラックのハンドルを握り、大阪から東京まで資材を運んだこともある。ここでも諦めないハートが真価を発揮したのだ。
聞けば杉原さん、今はヨットに夢中とのこと。一昨年はヨットの全日本選手権(ドラゴン級)に出場したというから恐れ入る。地球を相手に全力で遊ぶ。そんな言葉が浮かんだ。
※記事の情報は2022年2月15日時点のものです。
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【PROFILE】
杉原裕明(すぎはら・ひろあき)
インテリアデザイナー
1961年、兵庫県洲本市生まれ(淡路島)。大阪芸術大学デザイン学科インテリアデザイン専攻卒業後、株式会社船場東京設計事務所に入社。同社を2年で退社し、1985年にBauhausデザインファームを設立(東京都渋谷区)。商業施設、スポーツクラブ、エステティックサロン、ヘアーサロン、カフェアパレル等の設計を行う。1995年、阪神・淡路大震災で地元が被災したため、復興支援と共に仕事の拠点を関西に移転。同年、有限会社シーブ CEEVを設立。1996年にドイツのwanzl社、2007年にイタリアのbencore社と日本エージェント契約を結び、現在に至る。
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