南 久美子|漫画が、自分の知らないところでメッセージを届けてくれる

アート

南 久美子さん 漫画家〈インタビュー〉

南 久美子|漫画が、自分の知らないところでメッセージを届けてくれる

独特の作風で人々の心を癒す漫画を、京都・西陣から発信し続けている漫画家、南久美子さんにインタビューしました。

写真:大久保 啓二

京都・西陣の、まるで映画のワンシーンのような美しい町家街に、「遊墨漫画家」南久美子さんのアトリエはある。木戸をくぐると、そこは個性とユーモア溢れる漫画の世界。絵の中に漢字を巧みに取り入れた作品や、ふてぶてしくもどこか憎めない動物達が発する温かい言葉。癒しの漫画家として活躍する南さんに、これまでの漫画家人生と、これからの夢について、語っていただいた。


19歳で新聞漫画デビュー。旅先からも速達で入稿

──南さんは、どういう経緯で漫画家になられたのですか。


私は、すごく引っ込み思案で、小学校のお友達ともなかなかコミュニケーションが図れない、そういう子供だったんです。唯一できるのは、漫画を描くことでした。4年生か、5年生のときだったかな、ある日クラスの先生や友達をモデルにして、ちょっとしたコマ漫画を書いたんですね。そしたら周りの子たちがみんな、へえ~って言って寄ってきてくれて、ニコニコ笑って面白いなあとか言ってくれるんですね。そんな経験も初めてだったんで、すごく嬉しくて。漫画を描いて、人との間に笑いがあるっていうことで、どれだけ自分が安心するか。そんな気持ちを味わったのが小学校のときだったんですね。

得意はもう絵しかなかったので、短大の美術科で美術の勉強をしました。でも漫画を読むと馬鹿になる、漫画家に憧れるなんてとんでもないという時代です。だから、デザイナーです。横文字のクリエイティブっていう言葉が生まれていて、デザイナーという職業がすごく高いステータスでした。私も「クリエイティヴデザイン」* というクラスに入学したので、自分は絶対デザイナーになるんだと思って勉強してたんです。

*京都精華短期大学(当時)のクラス名


漫画家の南久美子さん


漫画は本当に頭にありませんでした。ただ、自分の担当の教授が吉富康夫先生という漫画家だったんですね。その先生が、私が卒業の折にどこにも就職しないということを知っておられて、声をかけてくださったのが、京都新聞の朝刊の漫画の仕事でした。

新人の漫画家を4人使って、ローテーションで朝刊の漫画を1年間やらせようというずいぶん思い切った試みでした。そこに1人欠員があったんですね。先生がおまえ暇だろうって。私も怖いもの知らずで、4コマ漫画なんて一度も描いたこともないのに参加することになりました。19歳のときです。

「サザエさん」をよく読んでたことだけが、4コマ漫画を描けた理由だったと思います。ああいうファミリーもの、「サザエさん」そっくりの漫画を描いてました。

結果的に1年後に、なぜか次の年からはあなたが1人でしてくださいと言われました。それから3年間、結婚するまで毎日。当時は休刊日が年に1日ぐらいしかなかったので、364日です。漫画のタイトルは「おはよう団地」とか「モニターさん」、占い師のおじいさんが主人公の「少々拝見」。毎年変えて描いてました。


──新聞漫画というのは休めない、きつい仕事だったのではないですか


私にしてみたら初めてのことで、比べようもなかったので、つらいかどうだかわからなかったんですけど、とにかく宅配便もない時代だったんで、旅行先からも速達で送ってましたし、たぶん大変だったんだろうなと思います。

良い作品は年に数回しかなかったと思うんです。毎日、流れ作業みたいにしていかないと新聞が発行できないので、今見ると面白くもなんともないようなネタばっかりです。時々まとめて描けるときもありますけど、そんなに頭が回るわけでもないので、もう1日1個描くのが精いっぱいです。だから漫画家の修業はしてませんけど、その京都新聞を4年間続けたことが、私の修業でした。


──とはいえ次の年も次の年も続いたということは、ファンが大勢いらっしゃったに違いありませんね。大変だったとは思いますが、新聞漫画の仕事はお好きでしたか


嫌いでした(笑)。本当にまだ漫画家になる気がなかったので。ただ、ものの見方とか考え方が、頭の回路がそうなってしまったみたいですね。もともと地面から3センチぐらい浮いてるって言われるぐらいちょっとポケ~ッとした人間なんで、何か天性にぴったり合ってたのかもしれません。


──いわゆるネタというか、題材はどうやって得ていたのですか。


一応風刺漫画なので、日常のニュースを取り入れてました。オイルショックでトイレットペーパーがなくなったとか、そんな時代です。ネタにするために新聞や雑誌も読んでました。人がどういうことを気にしてるかっていうことに対しては、アンテナを張ってたんだと思います。でもやっぱり20代前半ですからね、そんな深くは考えられません。

そのころは、お菓子のパッケージの仕事もしてました。棒付きチョコレートの台紙に2コマ漫画とか、クイズとかを描いてた。ほかにいろいろな挿し絵とかも描いてました。そういう裏方の仕事をしていたんです。

漫画家の南久美子さん



「残る」仕事をするため方向転換

──そこからどのように現在の方向に行き着いたのでしょうか。


お菓子のパッケージも新聞も捨てられます。八百屋さんで大根を買うと新聞紙でくるまれた時代です。そしたらその新聞紙に自分の漫画が載ってたりするわけです。くしゃくしゃになってね、何も残らないんだなっていう空しさがずっとありました。もうちょっと、漫画でも「残る」仕事をしたいと思いだしたのが、仕事の傾向を変えていったきっかけです。

結婚してしばらく子育てをしたので、実際に本格的にお仕事ができるようになったのは30代後半から40代になってからでした。残してもらえるような、飾ってもらえるような絵を目指して描き始めたのが40歳のときです。でも、漫画の勉強を全然してこなかったから、キャラクターとかもうまく描けませんでした。それなら字を擬人化したらごまかせるかなと思ったんです(笑)。

最初に描いたのが酔っ払いの「酔う」という字なんですけど、目鼻を描かなくてもユーモアが伝わったりもするし、すごく自分に合ってるなと思って。それまではペンでケント紙に描いてたんですけど、自分は筆とか和紙とかの方がすごく気持ちが良かったので、画材も変えてしまいました。

100点ぐらいの作品を一つのパッケージにして、展示会をやるんです。主に市町村主催の、市民を楽しませるための催しで展示し始めたら、依頼をけっこういただけるようになって、私もやりがいがあって、沖縄から北海道まで全国を巡りました。



漫画家の南久美子さん描いているところは滅多に人に見せないという南さん。「私は家族に『鶴の恩返し』の『つう』と呼ばれてるくらいです。髪を振り乱して描いてるところは、あまり人に見せられません(笑)」。今回特別にお願いして撮影させていただいた


転機となった阪神大震災後の展示会

──温かくてどこかほっとする作風は、いつ確立されたのですか。


阪神・淡路大震災のときですね。平成7年、私は40代です。関西の人間にとっては阪神大震災っていうのは、本当に身近で悲惨な災害でした。

神戸に「さんちか」っていう地下街があって、あの年はそこの30周年記念か何かのイベントで、春に私の展示会をする予定だったんです。

震災の3日前、後援の神戸新聞へ打ち合わせに行って、その帰り道、私はそれまで神戸にはあんまり縁がなかったから、神戸のことを描こうと思って、鈍行に乗って、のんびり1駅ずつ見ながら帰りました。

そうしたら、その3日後の1月17日、地震で六甲も芦屋も駅がぜんぶ潰れちゃった。イベントを後援してくれるはずの神戸新聞も被災してしまって、当然展示会は中止です。ですが次の年に神戸大丸と毎日新聞が、被災した人の気持ちを癒すための展示会をしてくださいって言ってくださって、半分潰れてる神戸大丸ですごく大きな展示会をしたんです。被災されてた方がいっぱい来てくださって、メッセージを残してくださって。2,000通ぐらいあったんですけど、そのほとんどが、絵を見てほっとしました、関西弁だから、ほっこりさせてもらいました、っていうものでした。

私の方が感激してしまって。そのとき私はアトリエも持ってなかったし本も出してなかったけど、こういう人たちに絵を届けて癒したい、本を出そう、そのためにアトリエを作りたいと決心しました。そうしたら3年後か4年後にアトリエもできて本も出せた。名前には被災者の方々のメッセージにあった「ほっ」をぜひ付けたくて、アトリエを「ユーモア工房『ほっ』」、本は「ほっとする本」「ほっとする本 その弐」。そして設立したNPO法人にも「NPO法人癒しのほっ」と名付けました。あまりに癒し系に行きすぎて笑いがなくならないように、最近はまた笑いに戻らないといけないとも思うんですけど(笑)。


──漢字を巧みに取り入れた絵もあれば、動物がセリフを言っている作品も多いですね。


すごく言葉を伝えたくて、動物から言ってるよみたいなことにしたかったんです。人は笑ってるときは緩んでるから、どんな言葉でもポンと届けられることがありますよね。ちょっと偉そうなこと言うときでも。


南久美子さんのアトリエ


私は犬と猫の両方が好きですけど、あまり上手じゃないので、犬はすごく難しいんです。犬の正面とか絶対に描けないんですよ(笑)。いろんなタイプのワンちゃんがいますし。その点、猫ってほぼ目鼻立ちが一緒だし、下手な私としてはすごく描きやすい。猫はふてくされた人間っぽい感じで、よく登場します。

50年ほど漫画を描いてきて、ここ20年はこういう絵を描いています。私はこの絵を描くために漫画家になったのかなって思ってます。スタイルとかこの方向とか、これはもうたぶん変わらないと思います。

──先生のファンはどういった方々が多いのでしょうか。


ファンというか、見てくださるのは女性が多いですね。ほぼ「おばさん」です。世の中に対してケンケン突っ張ってるような、自分で事業をなさってるとか、人に甘えられないような女性の方が、私の絵を見て、言葉がずーんと響いたりすることがあるらしいです。

平安神宮で作品展をしたときに、私はその場にいなかったんですけど、宮司さんがこんなことを教えてくださいました。泣いて絵に語りかけはったおばさんがいて、実は自分は自殺しようと思ってたけどここでこの絵を見て思いとどまることができたと、言ってくださったということなんです。私は何も、自殺しないでほしいという気持ちで描いたわけではないんですけど、たまたまその方にはそういうふうに何かが伝わって、泣き笑いしていただけたのかな、何か知らないところで絵がメッセージを運んでくれるのかなって思います。

そんな華のある仕事ではないですけど、描いている楽しみ、喜びは、そういうところだと思っています。

京都の町家から、人々を癒す漫画を発信

かつて織物工房だった町家を改装したアトリエ。高い吹き抜けに見事な太い柱と梁、部屋の中に備えられた井戸。この日本建築の美が集約されたような建物から、南さんは作品を発信し続けている。南さんが育ったご実家も、京都・西陣の、このアトリエから徒歩5分ぐらいのところだった。


私が生まれ育ったのも古い町家なんです。小さいときは寒くて暗くて、もう大っ嫌いで、お日さんも全然当たらないので、絶対にこの西陣の町から出たいと思って、結婚したときは、京都郊外の畑のど真ん中にあるような家を買って、そこで子育てしました。

自分のアトリエを構えることになったらまたご縁があって、空き家だったこの家を紹介していただいたんです。本当にもう帰りたくなかったくせに、また小学校のお友達がいっぱいいるところに帰ってきてしまった。帰巣本能ですかね。なんで帰ってきたのかなって思ってます(笑)。でも、改装は大変だったし手入れも面倒ですが、私が住んだからたぶんこの家、潰されずに済んだんですね。だから良かったかなと思ってます。


──今お持ちの夢、やりたいことはどのようなことでしょうか。


私もそろそろ店じまいの年なんで(笑)。店じまいしますって言ってずっと売ってる店みたいに、ギリギリまでしたいなとは思ってるんですけど。50年やってると作品をそろそろ整理しなくてはと思って、昔の作品を出してきたら、自画自賛であれですけど、これ(冒頭写真の「おでん」の屏風絵)なんか、もう何十年も前の作品なんだけど、まだ今でも使えるやんとかね。今のことを漫画として風刺できてるんじゃないのと思ったりするものがあります。

カレンダー用に描いたものなんです。個性的な人たちが一つのお鍋でね、お出汁に浸かって。一つの企業で働いてる人たちみたいなイメージです。一つのお鍋の中にいながら、そのくせ一人一人すごい個性的で違う。たとえばこんにゃくは、どんなに煮ても絶対自分を崩さない。あくまでも三角のままで最後まで残る。出汁を吸って中身は変わってるんだけど外見は全然変わらない。

ちくわは、煮るとばあっと膨れるでしょ。膨らみすぎてお出汁をこぼしてしまったりして散々人に迷惑かけるのに、冷めたらまた何事もなかったように元のちくわに戻ってるんです。大根っていうのはもう、もう吸って吸って、お出汁をみんなのいろんなエキスを吸って、一番の人気もん。

これからの令和の人たちはやっぱり企業にいても、一つずつのおでんのタネとして、フォローしておかないと駄目なんじゃないかと思ったんですね。私たち昭和の人間はカレーです。みんな我が身をルーのために溶かしてしまって結果的にルーが美味しくなったら、それで万歳。でもやっぱり令和は、誰もがちくわみたいにちゃんと自分を保った生き方をする。そんなふうに思ったんです。

これからはたぶん、額に入れて展示するような時代ではなくなってくるので、自分のこういう擬人化とか笑いのアイディア、漫画的発想を、何か違うふうに使ってもらえる、そういうことに参加できたらいいなと思っています。

私の拙作たちは、元気で幸せな人には必要なく、ちょっと疲れた人のための、効能不確かな栄養のようなものだと思っています。店じまいのその日まで、この自称ユーモアセラピストの道を突き進んでいくつもりです!

漫画家の南久美子さん


■展示会
漢字でほっ ~南久美子の遊墨マンガ~

漢字博士・阿辻哲次館長と「春」をテーマにした14点のコラボ作品を展示 !
開催日時:2024年4月11日~6月30日
場所:漢検 漢字博物館(京都、祇園石段下)
月曜休館
電話:075-757-8686

※記事の情報は2024年4月8日時点のものです。

  • プロフィール画像 南 久美子さん 漫画家〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    南久美子(みなみ・くみこ)
    京都府京都市出身。1972年京都精華短期大学(現・京都精華大学) 美術科 クリエイティヴデザインクラスを卒業後、地元新聞4コマ漫画にて漫画家デビュー。その後和紙と墨字による独自の画風でユーモアを表現。癒し感覚で人間や社会を風刺し、ユーモアセラピストとして各地で作品展を展開中。アトリエ ほっ 主宰、NPO法人癒しの『ほっ』代表、社団法人日本漫画家協会会員、京都府立医科大学臨床倫理委員、NTT西京都情報懇話会委員、NHKカルチャーセンター講師(2024年現在)

    公式サイト:https://ho-minami.com/

RELATED ARTICLESこの記事の関連記事

アートを通して、会話が生まれる。偶然の出合いを楽しむ「アートパラ深川おしゃべりな芸術祭」
アートを通して、会話が生まれる。偶然の出合いを楽しむ「アートパラ深川おしゃべりな芸術祭」 福島治さん グラフィックデザイナー・東京工芸大学デザイン学科教授〈インタビュー〉
いつでも恥をかく向こう側にいる人間でありたい
いつでも恥をかく向こう側にいる人間でありたい 沼田健さん イラストレーター・漫画家〈インタビュー〉
生まれ変わっても、またイモムシを描きたい|イモムシ画家 桃山鈴子
生まれ変わっても、またイモムシを描きたい|イモムシ画家 桃山鈴子 桃山鈴子さん イモムシ画家〈インタビュー〉
「創作のヒントは、制約の中にある」――イラストレーター 佐々木悟郎
「創作のヒントは、制約の中にある」――イラストレーター 佐々木悟郎 佐々木悟郎さん イラストレーター〈インタビュー〉
町の人と共につくる「海岸線の美術館」。宮城・雄勝町の防潮堤を資産に変える
町の人と共につくる「海岸線の美術館」。宮城・雄勝町の防潮堤を資産に変える 海岸線の美術館 館長 髙橋窓太郎さん 壁画制作アーティスト 安井鷹之介さん〈インタビュー〉

NEW ARTICLESこのカテゴリの最新記事

切り絵作家 梨々|小説切り絵が話題に。日本の美しい文化を伝える精緻な作品作り
切り絵作家 梨々|小説切り絵が話題に。日本の美しい文化を伝える精緻な作品作り 梨々さん 切り絵作家〈インタビュー〉
鳳蝶美成|
鳳蝶美成|"盆ジョヴィ"の仕掛け人が見出した、盆踊りの秘めたる魅力と可能性 鳳蝶美成さん 日本民踊 鳳蝶流 家元師範〈インタビュー〉
林家つる子|女性目線で描く古典落語。見えてきた落語の新たな魅力
林家つる子|女性目線で描く古典落語。見えてきた落語の新たな魅力 林家つる子さん 落語家〈インタビュー〉
原愛梨|唯一無二の「書道アート」で世界に挑む
原愛梨|唯一無二の「書道アート」で世界に挑む 原愛梨さん 書道アーティスト〈インタビュー〉
南 久美子|漫画が、自分の知らないところでメッセージを届けてくれる
南 久美子|漫画が、自分の知らないところでメッセージを届けてくれる 南 久美子さん 漫画家〈インタビュー〉

人物名から記事を探す

公開日順に記事を読む

ページトップ