浜野製作所(東京・墨田区)―― たった一人の板金工場から、ものづくりの最先端へ

仕事

浜野慶一さん 株式会社浜野製作所社長〈インタビュー〉

浜野製作所(東京・墨田区)―― たった一人の板金工場から、ものづくりの最先端へ

下町の風情が溢れる東京都墨田区は、江戸時代から続くものづくりの街。1978年にこの地で創業し、板金・プレス加工などを手掛ける浜野製作所は、中小規模の製造業ながら高い技術力と革新的なアイディアに溢れたものづくりで急成長を遂げ注目を集めています。2018年6月には当時の天皇陛下が企業視察として行幸されたほど。そんな浜野製作所の社長、浜野慶一さんに「ものづくり」についてお話をうかがいました。

大量生産の仕事は海外流出しても、少量多品種の「ものづくり」は日本に残る

――最初に浜野製作所について教えてください。

1968年に私の父がプレス加工の金型を作る工場を始めたのがはじまりです。父と母と職人さん数人の小さな町工場でした。

――アクティオも1967年にお隣の東京都荒川区で創業しました。スタートが似ていますね。

そうですね。このあたりは町工場がとても多くて、都内で町工場の集積度の1位は大田区なんですが、墨田区は2番目なんです。

――浜野社長は2代目ということですが、最初から工場を継ぐつもりだったのですか。

いいえ。最初は全く工場を継ぐつもりはなくて、一般企業に就職するつもりで大手の企業さんからの内定もいただいていました。

――内定までもらっていて、なぜ工場を継ぐことになったのですか。

21歳の時に初めて父親と二人だけで飲みに行く機会がありました。その時父が「ものづくりは楽しいぞ。自分はこの仕事をやっていることに誇りを持っているんだ」と言ったんです。初めてそんな話を聞きました。それまで父と母は家族の生活のためにしょうがなくて工場をやっているんだと思っていたのですが、そうではなかった。私は、従業員の数などで会社の良し悪しを評価していた自分が恥ずかしくなりました。同時に、父が大切にしている工場を誰かが継がなければなくなってしまう、と思いました。


浜野製作所社長・浜野慶一さん


その後、結構悩みましたが、結局いただいていた内定をお断りし、工場を継ぐことにしました。私が工場を継ぐ、と言った時、父は「量産仕事はこれからどんどん海外に出ていくだろう。でも少量多品種のものづくりは、まだまだ日本に残るんじゃないか」とアドバイスをくれました。

その後、工場を継ぐ前に他社の工場で板金の修業をしている最中、父が急に亡くなってしまったため、私が浜野製作所に入りました。

――現在浜野製作所では現在、どんな仕事をされているのでしょうか。

金属の加工にはおおまかに3種類あります。1つ目が切削、2つ目が金属を溶かして流し込む鋳物、そして3つ目が金属の板を抜いたり切ったり曲げたりして部品を成形する板金、あるいはプレス加工。弊社は主にプレス加工・板金と言われる金属加工を行っています。金型を作って素材を成型するものをプレス、金属の板材を使用し、金型を作らずに成型するものを板金と言います。作っている部品は、大きいものから小さいものまで様々で、例えばクルマにしても、コピー機にしても、携帯電話にしても、中を開けてみると様々な金属の部品がありますよね。そういった機器に使用される部品を作っています。



おもちゃ箱のようなワクワクするイメージの工場にしたかった


浜野製作所 第一工場の外観。隣り合った場所に本社板金工場、第一工場、第二工場、第三工場がある。

浜野製作所 第一工場の外観。隣り合った場所に本社板金工場、第一工場、第二工場、第三工場がある。


――工場の外観が、板金工場とは思えないカラフルさで驚きました。


こんな派手な色なので、「これは風水ですか?」と言われることもあります(笑)。実は工場をカラフルにしたのには理由があります。父が亡くなって私が工場を引き継いで間もなく、母も亡くなってしまい、職人さんも高齢で引退してしまったので、1人で仕事をしていたことがありました。1人だと、見積もりから、ものづくり、箱詰め、そして配達まで全部やらなくてはならないんですよ。ちょっと手伝ってくれる人が欲しいと思って人員を募集したんです。でもなかなか応募してくれる人が現れませんでした。


1年2カ月も待って、やっと1人応募があった。その方が工場に面接に来ることになったので待っていたんですけど、全然来ないんですよ。ひょっとして迷っているのかなと思って外に出たら、それらしい人がいました。それで声をかけようとしたんですが、その人は遠くからうちの工場を見ただけで、手に持っていた地図をしまって帰ってしまったんです。うちの工場が夢も希望もない職場に見えたのかもしれません。

私、工場っておもちゃ箱だと思っているんです。工場でものを作ることって、とても楽しい仕事なんですよ。それなのに入り口の時点で、工場の油まみれの床を見たりすると、楽しいとは思えない。それではだめなんです。シャッターの奥ではどんなワクワクしたことが行われているんだと思ってもらえるような工場にしたい。それで工場を建て直す時に建設会社の方にお話しして、こういうおもちゃ箱っぽいイメージの工場にしてもらいました。


浜野製作所 第二工場。浜野製作所 第二工場。


――「工場のワクワク感」「ものづくりの面白さ」とはどんなところにあるのでしょうか。

例えば板金なら、なんでもない金属の板からいろんな加工をして成型するわけですが、出来上がった時の充実感、そしてお客さんに持って行った時「いいのができたね」と褒められたりすると、とても嬉しいですし、やりがいを感じます。もちろん失敗することもあります。でもそれを経たからこその達成感がある。ものづくりをしたことがある人なら誰でも、この楽しさは経験したことがあると思います。

――現在浜野製作所には何人の方が働いているのでしょうか。

今は54名です。


工場内の階段の壁面にもきれいな色彩のグラフィックが描かれている。工場内の階段の壁面にもきれいな色彩のグラフィックが描かれている。


――一時期は社長一人だった時期もあったのに、ここまで大きくなった秘訣はどこにあるのでしょうか。

少量多品種のものづくりを手掛けた点だと思います。最初、お仕事をいただくために営業をしたときは居留守を使われたり、目の前でバッテンされたりと、なかなか取り合ってもらえなかった。でもあるとき、いつものように営業先の会社に顔を出したら、突然「急ぎでこれできる?」と単発で短納期の仕事を頼まれたんです。「どれぐらいお急ぎですか?」と聞いたら納期は2週間。

そこを1週間で納品したんですよ。そうしたら喜んでもらえた。そこからだんだんお仕事をいただけるようになりました。下請け工場ってどこもそうですが、安定した仕事、量産の仕事が欲しいんです。面倒な短納期の単発ものは、効率が悪いからやりたがらない。発注側もそこで困っていた。私はそこにニーズがあると思いました。

思えば高度経済成長期は、1つのものを大量に作っていけばよかったわけです。でも国が豊かになって、みんなの生き方、価値観にも多様性が出てきて、多様な市場がいっぱい出てきましたが、その市場は少量多品種です。でもそういった小さな市場はあまり利益が出ませんから、大手企業さんはやろうとしない。そこに我々中小企業のフィールドがあると思い、積極的に取り組んできました。



浜野製作所なら「0」を「1」にするものづくりができる

――下請けの場合、メーカー側からはどんな風に発注を受けるのですか。

メーカーが図面を引いて、その図面を何社かに送ってそれぞれいくらでできるのか見積もりをとります。そして一番安い所に発注をする仕組みです。いわゆる受託の加工業ですね。


浜野製作所なら「0」を「1」にするものづくりができる


――メーカーといっても自社では製品を作っていないんですか。


大手メーカーさんで自社で部品から生産している会社って、ほとんどないんじゃないでしょうか。今はメーカーが製品企画を行って、設計をして図面を引きます。その図面をもとに実際に部品を作る部分は中小の工場が担っています。弊社でもそうした受託加工が売上の7割ぐらいを占めます。

ただ量産品はどうしてもコストの問題で海外の工場に流れてしまいがちです。そこで今、私たちは自分たちで図面から作る仕事もしています。「こういう仕様で、こういう環境のところで、こういうことに使いたい」という要望を受け、それに応える機器の図面を引き、実際に装置を作ります。金属の部品加工は社内でやって、プラスチックなどの社内で作れないものは外部から調達して装置を組み上げます。

――それは直接ものづくりをする、本来の「メーカー」ですね。

受託加工の工場は世の中にたくさんあるんですよ。でもお客さまの「想い」や「構想」などを受けとめ、図面を引いて、仕様を決めて、試作を繰り返し、製品作りまでを行う、いわば「0」を「1」にできる工場って極めて少ないんですね。今、社会は多様化していますから、作り手の想いをカタチにしたり、何か困っていることを解決するデバイスを作って人の役に立ったり。浜野製作所ならそれができるのではないか、と思って取り組んでいます。

――具体的にはどんなところから依頼があるのですか。

最初のころはスタートアップのベンチャー企業が主でしたが、今は大学の研究機関や、大手企業からも依頼があります。


最初のころはスタートアップのベンチャー企業が主でしたが、今は大学の研究機関や、大手企業からも依頼があります。


――大学の実験装置などは高い精度が要求されますよね。


正直言って、大学の研究室で使う実験装置は大手企業さんでも作っています。ただ大手製の装置は多機能で非常に高価なんです。でも実験の現場では研究ごとに使う機能が限られていますから、「この機能だけでいいので、同じ精度でもう少し安い装置が欲しい」といった要望があります。そういうことは大手のメーカーでは対応できませんから、私たちに相談に来られることがあります。



オリィ研究所をはじめ、ベンチャーの担い手たちと一緒に夢を実現

――ベンチャー企業の話が出ましたが、浜野製作所はベンチャー支援にも力を入れていますね。

以前、私の所に最初に相談にやってきたベンチャー企業は、分身ロボットを作っているオリィ研究所という会社でした。分身ロボットは育児や介護、身体障害などで体を動かすことが困難な人のためのテレワークや、病気で学校に通えない児童・生徒・学生の遠隔教育ツールとして全国で使われています。オリィ研究所を起業した当時の彼はまだ学生で、作りたい製品のアイデアは持っていましたが、ものづくりのノウハウを持っていませんでしたので、私たちが製品化に至るまでお手伝いをしました。立ち上げるまでのしばらくの間、彼らは私のマンションに居候していたんですよ。


棚の上段にあるロボットがオリィ研究所の分身ロボット「OriHime」、棚の下段の右端にあるのが電動車椅子WHILLのカタログ。棚の上段にあるロボットがオリィ研究所の分身ロボット「OriHime」、棚の下段の右端にあるのが電動車椅子WHILLのカタログ。


それから「WHILL(ウィル)」という次世代電動車椅子を作ったベンチャー企業WHILLのお仕事もしています。WHILL は24個の小さなタイヤで構成した独自開発の前輪を搭載していて、非常に高い走破性を実現しています。WHILLの開発者は大手メーカーを退職したエンジニアたちで、彼らはきちんとした図面は描けるのですが、図面通りに作ってもうまく動かないということで、弊社に相談に来ました。結局こちらで全部ばらして解析したところ原因が見つかって、それを解消するために再設計したところきちんと動くようになりました。それ以来、様々なモデルの開発でお付き合いをさせていただいています。


浜野製作所内にある「Garage Sumida」のロビー。 Garage Sumida はものづくりの総合支援施設で、最先端の技術やアイデアを持つスタートアップ等の新規事業を、熟練した職人が個人から企業に至るまでの製品開発や加工を支援する。浜野製作所内にある「Garage Sumida」のロビー。 Garage Sumida はものづくりの総合支援施設で、最先端の技術やアイデアを持つスタートアップ等の新規事業を、熟練した職人が個人から企業に至るまでの製品開発や加工を支援する。


ベンチャーは「0」を「1」にするわけですが、日本だけでなく世界的に見ても、工場として「0」を「1」にできるところは少ないと感じています。それで、行政機関・研究機関等と共に、日本のみならず世界から起業したいベンチャーを呼んで、私たちが支援して、ここから世界に羽ばたいていけるような仕組みを一緒にやりませんかという話をしています。今も浜野製作所にはスタートアップベンチャーが入居しています。



油まみれの手で製品を実際に作る。それが浜野製作所のアイデンティティ

油まみれの手で製品を実際に作る。それが浜野製作所のアイデンティティ
――「Garage Sumida」ロビーの壁面にある「Show hospitality at all times」は浜野製作所のスローガンですか。

弊社は「おもてなしの心を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!」を経営理念にしています。その「おもてなしの心を常に持って」の部分を英訳しています。

弊社は2000年に当時の本社・工場が近隣の火事の延焼で全焼するという辛い経験がありますが、そのとき近隣の方から応援いただいたり、窮地を救うために発注を続けてくださった会社がありました。そんな方々に支えられて今日の浜野製作所があります。その気持ちを忘れないように「おもてなしの心」を経営理念としました。

――浜野社長は、今後はどんなことをしたいと思っていますか。

今57歳ですから、そろそろ後継者のことを考えなくてはいけないと思っています。浜野製作所を次の世代にしっかりと引き継ぎ、ここで働いている従業員、そして従業員の家族の方々の人生や心が豊かになるような会社づくりをしていって欲しい。そして社会のお役に立てることや、地域の活性化が行えるような仕事をして欲しい。それが今、一番の私の望みです。


社会のお役に立てることや、地域の活性化が行えるような仕事をして欲しい。それが今、一番の私の望みです。


――浜野製作所の後輩たちには何を望みますか。


それはもう、次の世代の子たちが決めればいいと思っています。ロボットなのか、車なのか、ロケットなのか潜水艦なのか、具体的なプロダクトについても自分たちで決めていけばいいと思います。

――今後作るモノが変わっても「ものづくり」のスピリットは変わらないのでしょうか。

そのとおりです。やっぱりうちは東京のこの場所に工場があるからいいんじゃないか、東京に工場があって、実際に溶接している人がいて、手が油まみれになって、製品が完成した時に汗を拭きながら「良いのできました!」って飛んで持って行くような若い職人がいて。やっぱりそこは変わらずやっていこうねっていうのは全社員の共通認識のように思います。

今、製造拠点がどんどん海外流出して日本のものづくりの力がどんどん弱くなっています。そんな状況で、私たちが大手メーカーと対等にお話ができるのは「ものづくり」を実際にしているからで、浜野製作所のアイデンティティとして「ものづくり」を諦めちゃいけない、ということはよく若手と語り合っています。その「工場」にどんなアプリケーションを乗っけていくのかというのは、彼らに任せたいと思いますし、今後がとても楽しみです。


やっぱりうちは墨田区のこの場所に工場があるからいいんじゃないか、事務所だけでブローカーみたいにあっちからこっちに仕事を回していくのは浜野製作所っぽくないよねと、若い人たちとは話しています。

ものづくりの楽しさを体現した工場で「工場はおもちゃ箱」と語る浜野社長の笑顔には、数々のベンチャー企業を支援してきた包容力と優しさ、そして力強さを感じます。


※記事の情報は2020年7月8日時点のものです。

  • プロフィール画像 浜野慶一さん 株式会社浜野製作所社長〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    浜野慶一(はまの・けいいち)
    株式会社浜野製作所の2代目社長。1993年創業者・浜野嘉彦氏の死去に伴い浜野製作所の代表取締役に就任。町工場が直面する量産加工の厳しい環境から脱却するため事業構造を見直し、自社の強みを生かした様々なプロジェクトに挑戦。産学官連携としての電気自動車 「HOKUSAI」、深海探査艇「江戸っ子1号」、異業種連携としてアウトオブキッザニアによる工作教室、墨田区内の工場巡りツアー「スミファ」を主催する「配財プロジェクト」、ベンチャー企業を支援する「Garage Sumida」とその取り組みは多岐に渡る。こうした実績により数々の賞を受賞。2018年には天皇陛下も視察に訪れた。

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