朝

JUL 31, 2020

洸院

JUL 31, 2020

洸院 人類の歴史に深く刻まれるであろう2020年、私たちの日常生活は予想もしなかった方向に変わりました。今まで外にばかり目を向け新しい仲間を求めていた人々が一斉に足を止め、ずっと自分の後ろに存在し続けていた家や家族を振り向く......そんな感じでしょうか。気を遣わずに眠れるベッド、好きな食べ物が置いてある棚、だらしなく過ごしても許される場所、癒しのステイホーム。そこに生まれる小さなドラマをお届けします。

冷蔵庫を開けた。ほとんど何も入っていない。


賞味期限の迫った牛乳、食パン3枚、卵2個、使いかけのバター、冷凍ほうれん草が半袋。いずれも父が自分用に買ったものだ。


理奈の母は料理をしない。


キャリアを積んで管理職になり、収入は多いらしいが、忙しい分、家事は手抜きになる。
家事だけではなく、育児も。


そのため理奈は生後3か月で保育園に預けられ、夜は日替わりのパート家政婦が作るレトルト食品を与えられて育った。


週末になると両親と一緒にショッピングモールへ行く。テーマパークや旅行にもよく連れ出され、その度に外食をした。


小学校低学年の子供がフカヒレやアワビ、霜降りの銘柄牛などを食べる生活が珍しいものだと知ったのは、高校生になってからだった。


28歳の今も、一人っ子の理奈は両親と暮らしている。食事は各自が好きなものを買ってくるか、外食するか。


ただ、定年退職した父だけは簡単なものを作るようになったので、冷蔵庫にわずかな食料品があるのだ。


そして2020年、世の中が変わった。


アパレルショップに勤めている理奈は自宅待機が続き、定年間近の母もテレワークとなる。


遅い朝食をとろうとして冷蔵庫を開けた理奈は、残り物の食品を見て途方に暮れた。食パンを焼いて目玉焼きを乗せる程度しか思いつかない。


理奈はスマホでレシピを探した。牛乳、食パン、卵、ほうれん草。検索すると画面には理奈の予想よりずっと豊富なメニューが並んでいる。


「そうか、アレが作れるんだ」


テーブルの上に置かれたメープルシロップをチラリと見て、冷蔵庫の食材をすべて取り出した。


スマホを確認しながら卵と牛乳、砂糖を混ぜ、ひと口サイズに切った食パンを浸す。卵液がしみ込むのを待ちながらインスタントのコンソメスープを鍋で沸かし、冷凍ほうれん草を入れた。


次はコーヒー。キッチンに良い香りが漂い、廊下を通って家中に広がる。


両親が起き出してくる気配を待ち、フライパンにバターを溶かして食パンを焼いた。たっぷり含まれた卵液がトロトロあふれ出てバターに混ざり、甘い匂いがコーヒーの香りに重なる。


理奈のフレンチトーストがこんがり焼き上がった頃、両親がキッチンに現れた。白い皿に乗せられた黄金色のスイーツにはメープルシロップがたっぷり、キラキラ光っている。


「理奈が作ったの?」


「おまえは料理できるんだなぁ」


レースのカーテン越しに陽が差し込むなか、3人は無言でフレンチトーストを味わった。
こんな時間は初めてかも知れない。


「ああ、うまかった」


「久しぶりに朝ごはんを食べたわ」


両親は互いの顔を見て、満ち足りた微笑みを浮かべた。




※記事の情報は2020年7月31日時点のものです。

  • プロフィール画像 洸院

    【PROFILE】

    洸院(こういん)
    小説家、エッセイスト。より多くの人々に『文字から得られる感動や楽しさ』を味わっていただくため、新しい時代に即した親しみやすい文芸の在り方を模索し続けているノンジャンル作家。本シリーズのテーマは、平易な日本語で綴る純文学です。

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