【連載】シリーズ小説「2020年の食卓」

洸院

夫婦

人類の歴史に深く刻まれるであろう2020年、私たちの日常生活は予想もしなかった方向に変わりました。今まで外にばかり目を向け新しい仲間を求めていた人々が一斉に足を止め、ずっと自分の後ろに存在し続けていた家や家族を振り向く......そんな感じでしょうか。気を遣わずに眠れるベッド、好きな食べ物が置いてある棚、だらしなく過ごしても許される場所、癒しのステイホーム。そこに生まれる小さなドラマをお届けします。

「なんだ、また野菜炒めかよ」

夫の拓郎が缶ビールを開けながら不服そうに言う。


「だって忙しいんだもの、栄養バランスが良ければいいでしょ」
「そりゃそうだけどさ、たまには違うもの食べたいよ」
「たとえば?」
「そうだなぁ、ビーフシチューとかメンチカツとか角煮とかさ」
「ぜんぶ手間のかかる料理ばかりじゃない」


拓郎と香織は同じ職場に勤めている。ふたりとも36歳。子供がいないので、平日は会社帰りに待ち合わせて外食することが多かった。和食のチェーン店、ファミレス、金曜日には居酒屋で仕事の愚痴を言い合ったりする。
夫婦としても同僚としても仲が良いはずなのに、最近は些細な口論が増えてきた。


もともと料理好きの香織は、休日になると手の込んだものを作る。前日から煮込んだビーフシチュー、みじん切りの野菜をたっぷり入れたメンチカツ、一晩寝かせて脂肪分を抜いた角煮など、いずれも拓郎の好物だ。


ところがテレワークにシフトした昨今、ONとOFFの切り替えが曖昧になり、気がつけば香織は土日もパソコンに向かっていることが増えた。
家に居ると雑用に邪魔される。荷物が届いたり個別訪問のセールスが来たり、その度に仕事は中断。
洗濯や掃除などの家事に加え、昼食の準備だって香織の役割になる。


この状況は、同じようにテレワークをしている拓郎から見ても不公平な気がした。そこで野菜炒めを食べながら、拓郎は香織に提案してみた。


「明日から夕食の支度は原則として俺がやろうか? 俺だって簡単な料理なら作れるからね。香織は手が空いてるときに美味しいものを作ってくれればいいよ」
「えっホントに? うわぁ、ありがとう!」


というわけで、翌日から拓郎がキッチンへ。
食材はネットスーパーから大量に届いている。基本的な野菜類のほかに、牛すね肉や鶏肉、レバー、豚バラ肉のブロック、魚介類などなど。共働きなので冷凍容量の大きな冷蔵庫を買ったことが役立っていた。


昔の女性たちは嫁ぐ際に「夫の胃袋をつかめ」と言われたそうだが、現代では男も料理するのが当たり前。
タンパク質と野菜をたっぷり摂ることができて、しかも手早く調理できるメニューは何だろうと考えながら冷蔵庫をチェックし、拓郎は夕食の準備に取りかかった。


「香織、ご飯できたぞ」


拓郎に呼ばれて行くと、ダイニングテーブルには湯気の立つ大皿があり、鮮やかな緑とオレンジ、そしてこんがり焼き色のついた肉が盛られている。ニンニクとごま油が効いたニンジン入りのニラレバ炒めだ。


「レバーは牛乳に漬けると臭みが消えるんだよね? どう? 美味しい?」


香織は「やっぱり野菜炒めじゃないの」という言葉を飲み込み、ニコニコしてうなずいた。
拓郎が機嫌よく夕食を作ってくれるなら味など悪くても構わないと思っていたが、予想に反して拓郎のニラレバは本当に美味しかった。


翌日の夕食どきには、香織の仕事部屋まで何かが焦げたような臭いが漂ってきた。パソコンを終了して香織がキッチンへ行くと、拓郎がフライパンを持ったまま大声で言う。


「ごめん! 味噌が焦げちゃったみたい」


拓郎の背後からフライパンを覗くと、薄切りの豚バラ肉にキャベツが炒め合わせてあった。少しばかり焦げ過ぎかも知れないが、むしろ脂身に色濃く焦げ付いた味噌が食欲をそそる。


「お味噌は焦げやすいのよ、でも美味しそうね」


ご飯をよそいながら香織は笑った。昨日も今日も野菜炒めだということに、拓郎は気づかないのかな?


そして3日目、キッチンから自信満々の拓郎の声がした。


「今日は大成功だぞ! イタリアンだ」


確かにバジルの香りが漂っている。


テーブルには冷えた白ワインとグラス。戸棚の奥から出してきた鮮やかな黄色の皿を2枚並べ、鶏肉とトマト、ピーマンなどを炒めて銘々に盛り付け、ムール貝までトッピングしてある。お洒落な仕上がりではあるが、やっぱり野菜炒めだ!
しかし時間をかけて調理したと見え、大ぶりに切った鶏もも肉は皮がパリパリに焼けている。湯むきしたザク切りのトマト、玉ねぎ、ピーマン、そしてエリンギ。あっさりした塩味がオリーブオイルの風味を引き立てていた。


「なぁ、美味いだろう?」


鼻高々の拓郎。香織は笑いをこらえながら答えた。


「そうね、すごく美味しいわ。あのさ、拓郎も得意よね、野菜炒めが......」
「ああ、ちゃんと栄養バランスを考えてるから......な」


ふたりは顔を見合わせ、一緒に噴き出した。
たぶん今夜は、夫婦の新しい食卓がスタートした記念日になるのだろう。



※記事の情報は2021年1月12日時点のものです。

  • プロフィール画像 洸院

    【PROFILE】

    洸院(こういん)
    小説家、エッセイスト。より多くの人々に『文字から得られる感動や楽しさ』を味わっていただくため、新しい時代に即した親しみやすい文芸の在り方を模索し続けているノンジャンル作家。本シリーズのテーマは、平易な日本語で綴る純文学です。

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