【連載】シリーズ小説「2020年の食卓」

洸院

隣人

人類の歴史に深く刻まれるであろう2020年、私たちの日常生活は予想もしなかった方向に変わりました。今まで外にばかり目を向け新しい仲間を求めていた人々が一斉に足を止め、ずっと自分の後ろに存在し続けていた家や家族を振り向く......そんな感じでしょうか。気を遣わずに眠れるベッド、好きな食べ物が置いてある棚、だらしなく過ごしても許される場所、癒しのステイホーム。そこに生まれる小さなドラマをお届けします。

彩乃がこのマンションに住み始めて2年ちょっと。先月半ばに契約を更新したところだ。首都圏、とくに東京都内は狭いワンルームでも家賃が10万円ぐらいするが、彩乃の勤務先は地方都市なので、新幹線の停車駅から徒歩圏内に7万円で1LDKが借りられた。


マンション自体は小さくて、3階建ての15室。18畳のリビングダイニングキッチンと6畳の洋間で、ゆったり暮らせる広さだ。運良く3階の角部屋だったこともあり、彩乃は迷うことなく契約を更新したのである。


もともと彩乃は東京の人間だ。都内の大学を卒業して新宿の保険会社に勤務していたのだが、27歳のときに転勤の辞令が出た。


生まれたときから豊島区の実家を離れたことのない彩乃にとって、一人暮らしで最も心配なことは近所付き合いだった。おせっかいなオバさんや口うるさいお爺さんが居たらイヤだなぁと思っていたが、このマンションの居住者は大半が単身の会社員らしく、2年以上住んでいても住人同士の交流はまったくない。そういった点でも住みやすいマンションなのだ。


しかし業務がテレワーク推奨の流れに変わって以降、彩乃もマンションで過ごす時間が増えた。家で仕事をしているとはいえ、ときには暇を持て余すこともある。


転勤先の支社には友達と呼べるような同世代の女性がいないため、今までは週末になると新幹線で1時間ほどの実家に帰り、本社の元同僚や学生時代の友達と遊び歩くことが多かった。
だが現在は会社からの指示もあり、前ほど頻繁には帰れない。こうなると近くに友達がいない彩乃は退屈だ。



ある晴れた土曜の朝、彩乃がベランダで布団を干していると、隣室からも人が出てきて洗濯物を干し始めた。チラッと見れば、彩乃と同世代の女性だ。
あれほど近所付き合いを敬遠していたのに、人恋しさが募っていたのか、彩乃は自分から声をかけた。


「おはようございます、いいお天気ですね」


相手の女性も太陽の光をいっぱいに浴びながら、ニコニコして答える。


「あ、おはようございます! お出かけ日和なのに家にいるなんて、つまらないですよね」


ふたりは5分ほどベランダでおしゃべりをした。
お互いの生活環境はとても似ていて、年齢は彩乃のほうが2歳上だが、隣人も都内からの転勤組で、実家は東京都下。女性同士は親しくなるのが早いため、その後すぐ彼女が彩乃の部屋にコーヒーを飲みに来た。


隣人の名前は凛子という。


彩乃と凛子は2時間近くしゃべり、すっかり仲良くなった。お互いの仕事や家族、趣味、恋人ができないという話までして、せっかくだから夕食も一緒に......ということになり、夜の7時にお互いの得意料理を持ち寄る約束をする。
彩乃がホワイトソースから手作りするホタテのグラタン、凛子はビーフカツに決めた。


彩乃は冷凍ホタテを取り出し、近くのスーパーまで生クリームとサワークリームを買いに行く。これが味の決め手なのだ。牛乳だけで作ったホワイトソースはあっさり、生クリームを入れたホワイトソースは濃厚、さらにサワークリームも加えると濃厚プラス深いコクが出る。その分カロリーは高くなってしまうが、誰かに食べてもらうなら美味しいほうがいい。ついでにサラダ用の野菜も選び、久しぶりにウキウキした気持ちでマンションに戻った。


ホワイトソースは色々な作り方があるが、彩乃は厚手の鍋に牛乳を入れ、ふるった小麦粉とバターも加えて弱火でかき混ぜるやり方だ。ホワイトシチューでもグラタンでも作り方は同じ。小麦粉の量だけを少し調整してトロミ加減を決める。そして仕上げに生クリームとサワークリームを入れ、塩で味を調えれば出来上がり。
フライパンで玉ねぎを飴色に炒め、ホタテも焼いて、グラタン皿に茹でたマカロニと一緒に敷き詰めた。その上からホワイトソースをたっぷりかけて、とろけるチーズを乗せる。冷蔵庫にパン粉の残りがあったので、焦げ目をつけるため振りかけた。


一人暮らしの彩乃はオーブンを持っていないが、2人分のグラタン皿はトースターに並べられる。これでこんがり焼けばOKだ。


彩乃のグラタンが焼けた頃、凛子が揚げたてのビーフカツを大皿に盛り付けてやってきた。お盆の上にはトマトソースの器も添えてある。


「うわぁ、グラタンいい匂い!」


「ビーフカツいっぱい!」


ふたり同時に声をあげて笑う。グラタン、ビーフカツ、サラダ、凛子が持ってきた缶ビール。キッチンテーブルが一気に華やかになった。
凜子のビーフカツはアメリカ産の切り落とし肉を薄く重ねたもので、衣がサクサクしている。


「どうしよう、歯触りが良すぎて止まらない」


「グラタンも美味しすぎるよ!」


その夜は深夜まで盛り上がった。



凛子は3階の住人たちを全て把握していた。東側の角部屋の彩乃から順に、アパレル系の会社で働く凛子、30代後半の男性会社員、30代前半のピアノ講師の女性、そして西側の角部屋は大学院生の青年だそうだ。


「ねぇねぇ、今度は他の人も誘ってみようか?」


凛子が言う。


「そうね、ピアノの先生も仲間にしちゃおうか?」


予想もしなかったことが起きるこの世界、さまざまな変化を憂いても仕方がない。変化に合わせて自分を変えていけば、きっと新しい発見があるはずだ。楽しい生活がスタートする予感に、彩乃はワクワクしてきた。



※記事の情報は2021年2月2日時点のものです。

  • プロフィール画像 洸院

    【PROFILE】

    洸院(こういん)
    小説家、エッセイスト。より多くの人々に『文字から得られる感動や楽しさ』を味わっていただくため、新しい時代に即した親しみやすい文芸の在り方を模索し続けているノンジャンル作家。本シリーズのテーマは、平易な日本語で綴る純文学です。

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