【連載】仲間と家族と。
2019.03.26
ペンネーム:熱帯夜
父と行った海辺
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
父は私が9歳のときに死んだ。
亡くなる前日の朝、父はいつものように玄関で見送る私に声をかけて出勤していった。
「こんどの日曜日、天気が良かったら多摩川にサイクリング行こうな」
それが私が聞いた父の最後の言葉だった。
小学校の何時間目が終わったときだったかは定かではないが、教室に現れた教頭先生に職員室へ連れて行かれ、そこで「迎えの人が来るから早退して帰宅するように」と言われたことは憶えている。
叔母に連れられて歩いて帰宅すると、自宅の前に黒い車が停まっていた。玄関にランドセルを置くとあわただしく車に乗せられて、そのまま病院へ向かった。事態がよく飲み込めず、ただ胸が締めつけられた記憶しか残っていない。
病室に入ると、父は人工呼吸器を付けられて、意識なく横たわっていた。数時間前まで元気だった父がそうしているのは、私には非現実的で、なにか理不尽なことに思えた。
「嘘だよ。驚いただろう?」と笑いながら起き上がる父を想像して待ってみたが、そういう瞬間はなかなかやってこなくて、ただ私はぼんやりと、父の口を覆う呼吸器とモニターの上下する数字を交互にながめていた。
父は一日だけ持ちこたえ翌日の18時33分に息を引き取った。脳内出血だった。
昭和49年の秋だった。高度経済成長を遂げた日本ではあったが、いま思えば、前の年の秋に起きた第一次オイルショックの影響で狂乱物価が吹き荒れた、激動の年だった。先行きの見えない経済状況のなか、東京では8月に丸の内の企業ビルが爆破され、9月には狛江で多摩川が決壊した。連続企業爆破事件で父は爆破されたビルから至近距離の本社ビルにいて九死に一生を得たのだが、まさかその一ヵ月後に病死するとは、当の本人も想像できなかっただろう。
父とはたった9年間の付き合いだったが、私のなかには、父の行動や言葉の記憶が、たくさん残っている。なかでも忘れられない出来事は、父が亡くなる直前の夏休みに、父と私と、私の友人三人と一緒に、総勢5人で三浦半島へ海水浴に行ったときのことである。友人の三人のうち一人は私の親友。もう一人はガキ大将で、あとの一人はおっとりした静かな子だった。
このガキ大将が悪かった。この日はとにかくおっとり君をいじめた。私と私の親友はその様子を知りながら、付かず離れずただ静観していた。私たちのそんな事なかれ主義が、ガキ大将の行動をエスカレートさせたのだろう。そしてついに、ガキ大将がパラソルを砂浜に立てる振りをして、おっとり君が持参した浮き輪にその尖った支柱を突き刺したのである。
大きな音を立てて浮き輪が割れた。あまりのことに、おっとり君は声を上げて泣いた。
ガキ大将は「ごめんごめん、手が滑って刺しちゃった」とヘラヘラ取り繕っている。
そのとき一部始終を見ていた父が、おもむろに立ち上がった。一瞬、ガキ大将をしかりつけるのかと思って私たちは身構えたが、そうはならなかった。
父は右手を振り上げ、私の頬をひっぱたいたのである。私は立っていられなくて砂浜に転がった。
私は何が起こったのかすぐには把握できず、ただただ左の頬が焼けるように痛くて、涙があふれた。見ていたガキ大将は凍りついたように身体をこわばらせ、おっとり君は泣きやんだ。親友は悲しそうな顔をした。
しばらくの静寂のあと、父は何事もなかったかのように「さあ。海で仲良く泳いでこい」と言った。
私以外の三人はこれ幸いと海に向かっていった。こういうとき小学生は切り替えが早い。いじめていた者もいじめられていた者も、傍観していた者も、この場から逃れられるとなると、一斉に行動しすぐまた仲良くなれる。
私だけは納得できずに、怒りと悔しさと切なさで泣き、砂浜に座りこんで父に無言で抗議した。父が隣に来て言った言葉は今でもはっきりと思い出せる。
「お前が何もしていなかったのは、分かっている。でも、組織をまとめるときには、信頼している部下にこそ厳しくあたる。それを見た者たちが我が振りなおすということが必要なんだ。私はお前を信頼し、頼りにしている。自分の息子だからな。憎むなら私を憎めばいい。そして切り替えて仲間と遊んでこい」
納得できなかった。組織をまとめるなどというのは9歳の私に理解できるはずもなく、そのときの私は、父のビンタは身体を張っていじめを止めなかった息子への叱責なのだと感じていた。父という後ろ盾があり、私が三人を誘った海水浴なのだから、子どものリーダーは、私でなくてはならなかった。それなのに私はいじめを傍観した。その自分自身が情けなかったから、私は父に叱られたことに拗ね、泣きやむことができなかった。
でも今ならば、父が言っていた組織論も分かる。このときの父はみんなのマネージャーとして、私という一番信頼する部下に厳しく接したのだ。父には、いつの日か私なりに理解してくれれば良いという覚悟があったのだと思う。
砂浜で、そのあと自分がどうなったのかはよく憶えていない。しょせんは9歳の子どもだから、やがて機嫌を直してみんなと遊んで、この件は終わったのだと思う。とにかく、私はこのせいで父を嫌いになどはならなかった。どんなに叱られても、愛されていることがわかっていたからだ。本当にたくさん遊んでくれて思い出を作ってくれた、厳しかったけど楽しい父を、私は大好きだった。
この海水浴の出来事を思い返すたびに、私は父の息子で良かったと心から思い、胸を張れる。私は父とは違い、自分の息子が17歳になった今も生き続けて、毎朝仕事に出かけている。
会社で何百人もの部下を率いていた父は、私にもなにがしかになってもらいたかったのだろうか。そうだとしたら私にそれがうまくできているのだろうか。自分の息子に、あれほど強い覚悟で接することができるのだろうか。記憶のなかの父に、毎日問いかけている。
※記事の情報は2019年3月26日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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