【連載】仲間と家族と。

ペンネーム:熱帯夜

断片的な思い出

どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。

 普段の生活の中で、ふとした瞬間に光景や音や人物が頭に浮かぶことがある。日常に追われ、常に意識しないことなのだが、そのような瞬間が訪れると、温かい気持ちになったり、時には涙が出るほど感情を揺さぶられる出来事に再会することもある。

 以前にも書いたが、私は9歳の時に父と死別した。彼との思い出を全部は書ききれないが、やはり断片的な思い出として、折々に私の頭に、心に現れる。その一つに、父が単身赴任していた三重県四日市市に、母と私で訪れていた日の記憶がある。

 断片的な記憶しか残っていないため、肝心な前後の状況が全く分からないのだが、夕食の準備を母がしているとき、キッチンに3人で居たのだが、突然母の凄まじい怒鳴り声が響いたのである。
 正確な言葉まで思い出せないのだが、
「そんなことも分からないの」
「なんであなたはそういう人間なの」
「東大出てその程度なのか」
 記憶に残っているだけでも、このような言葉が速射砲のように父に浴びせられた。私は恐らく5、6歳だったと思う。

 生まれて初めて父と母の険悪な喧嘩に出くわしたので、とにかく言いようのない恐怖に襲われた。鮮明に覚えているのは、父が切れる!ということをとにかく恐れた。幼心ながら、これは収拾の付かない、いや私が経験もしたことがない恐ろしい争いに発展するという恐怖である。

 しかし、父は私の想定を裏切り、ひたすら黙っていた。そして手にしていた掃除機を動かしたまま、隣の部屋に移動した。そのまま掃除を続けたのである。私は、怒り狂っている母の側に居るのは辛く、父に付いて隣の部屋に逃げ出した。そして父に聞いたのである。

「なんでパパは黙っているの?言い返さないの?」
 父は私の顔を優しいまなざしで見ながら
「男はな、黙って耐えるものなんだ」 
「怒りに、怒りを返しても何も解決しないんだ。憶えておけ」
 と言った。「男はな」という言葉が出てくること自体が昭和を感じるが、私はあんなに理不尽に怒りをぶつけてくる母に何も言い返さない父を正直もどかしく思った、いや、敢えて言えば、情けないなとまで思った。

 その後、どうなって、その日の夕食がどのような雰囲気で進み、この夫婦喧嘩がどのように終結したのか、私の記憶は全くない。

 父の死後、母とこの記憶について話したことがある。喧嘩の原因は、母が夕食の準備をしているキッチンで、父が掃除を始めたことだったらしい。出来上がった料理や、これから料理される食材が並んでいる、その部屋で掃除を始める無神経さに怒りが爆発したと。埃を巻き上げ、椅子やテーブルを移動してまでの掃除が必要だったのか。一理ある。ただ、私の記憶に残っているぐらいの、一歩間違うとヒステリーとまで言われかねない怒りをぶつけるほどだったのか。本当の原因はもっと深いところにあったのではないかと疑ってしまう。

 とある時に母が仕事に出ている留守の家で祖母に話を聞いたことがある。あの「ヒステリー事件」が起こったのは、姉が喘息で亡くなった後だったらしい。母は娘を失った喪失感と絶望、そして自分の無力への怒りに、精神的に相当厳しかったようである。その不安定な母を支えるにも父は単身赴任で離れていたため側で支えられず、父は父で歯がゆさと矛盾と闘っていたのであろう。

 姉の死は、母のみならず、父にも大きな十字架となった。父は自分の努力で成し得ないことはないと自負していた人間だった。目標に達せられないのは自分の努力が足りないからと言い聞かせて進んできた。その男が生まれて初めて自分の努力ではどうにもならないことがあると思い知らされたのが、姉の死だった。それ以後、彼は初めて宗教に傾倒していった。姉の葬儀を主祭として執り仕切ってくれたカソリックの神父と出会い、父は、宗教の理想論と、ビジネスマンとして置かれている現実との共存を模索して、その神父と共にビジネスマン向けの集会を運営していったのである。

 このような様々なことを考えると、あの日の父の言葉が全く違った意味に変わってくる。
「男はな、黙って耐えるものなんだ」 
「怒りに、怒りを返しても何も解決しないんだ。憶えておけ」
 母の悲しみ、怒り、無力感を全て受け止める言葉に見えてくる。と同時に、自分自身へ向けた言葉にも思えてくる。

 断片的な思い出がふと頭に浮かんだとき、それを今の私の立場でもう一度考え直してみると、今まで全く見えなかったことが見えてくることがある。私の人生は順風満帆とは言えないが、お陰様で息子は元気に成長している。子どもが親より先に人生を終えてしまうということは、本当に耐えがたいことであろう。そのような経験をした父や母の思いはいかばかりだったか。

 心の傷が癒えることは無いかもしれない。それでも人は生きていく。父も神父との新しい挑戦を始めることで、何かを乗り越えようとしていたのかもしれない。模索すること、悩むこと、そして進むこと。これが生きていくことなのだろう。
 子どもの死という悲しみと向き合う姿勢、同じ思いをしている人への寄り添い、そして亡くなった子への愛情と生存している子への愛情。模範解答が見つけにくい経験を、思い出という形にして、私に残してくれたと思う。

 だからこそ私は、時々頭に浮かんでくる断片的な思い出を一つ一つ大切にして、その思い出に込められたであろう多くの人の考えやメッセージに想像力を働かせ、咀嚼して、私のこれからの人生に生かしていきたい。そして、いつか私が人生を終えた後に、息子の頭の中に折々に断片的な思い出として現れてみたいと思う。その時に、何らかのことが息子に伝わることを期待して。
そのためにも、私に残された時間で、できうる限りの思い出を息子と作っていきたいと願ってやまない。


※記事の情報は2020年7月7日時点のものです。

  • プロフィール画像 ペンネーム:熱帯夜

    【PROFILE】

    ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)

    1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。

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