【連載】仲間と家族と。
2020.10.06
ペンネーム:熱帯夜
私を創った人たちへ向けて <今を生きること>
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
2018年8月に母が脳梗塞で倒れてから、約2年が経った。当初は保って1週間と告げられたが、奇跡的に持ちこたえた。2年経った今でもお陰様で存命である。ただ、梗塞が起きた時の脳のダメージはいかんともしがたく、身体の右側の麻痺、言語障害が重く残ってしまった。つまり母は寝たきりで、自分で食事を摂れず、言語で何かを伝えることもできない。昭和7年生まれなので、今年で88歳を迎える。息子としては本当に悔しく、自分の無力を味わう日々である。
母は東京都千代田区で田中光顕の孫として生を受けた。麹町の広大な邸宅で伯爵家の孫として何不自由ない幼少期を過ごしたようである。田中光顕の別荘が静岡県蒲原市や神奈川県小田原市にあったようで、春に夏にと四季折々を別荘で思う存分自由に育てられたそうである。
ただ、そのような日々は長く続かず、第2次世界大戦が始まり、戦時中は麹町の自宅の2階は軍の司令官へ貸し出されて、少しずつ自由を奪われた。それでも軍の人間がいるお陰で食料には不自由をしなかった。戦況は刻一刻と悪化し、1945年2月の空襲で焼け出され、焼夷弾が降りしきる中を祖母と母は防空頭巾をかぶり、四谷の上智大学まで逃げたそうである。その時に母は死を覚悟した。目の前で建物や人が焼かれていくのを見ながらの逃避は中学1年の女子には辛い経験だったと思う。
終戦後、世の中の価値観は180度変わり、1947年の日本国憲法施行に伴い、日本の爵位は廃止された。そして母の父が麹町の家を売り、現在の住まいへと移った。ただ、戦後の苦しい世の中にあっても、母は恵まれていたようである。当時としては珍しく大学まで進学、卒業しているので。そして父とお見合い結婚をするのである。
父との結婚後は穏やかな日々だったようである。結核で片肺を切除するということはあったが。娘(私の姉)も生まれ、私も生まれてと、どこにでもある普通の家族として過ごしていた矢先、姉の喘息での死、その4年後の父の急死。3食昼寝付きの専業主婦だった母が、突如一家の主を失い、わずか1歳の妹と9歳の私、そして祖母を抱えて生きていくことになった。父の関連会社に勤め、慣れない業務に40歳で駆り出された。
時を同じくして、私が反抗期を迎え、家庭は荒れた。私にも言い分はあったが、今思えば、理不尽な怒りであったと思う。自分の将来に不安を感じ、父に相談したいこと、言い換えれば母には相談しづらいことが、自分にはその相手がいないことへのどうにもできないやるせなさが加わった。母は母で、男である私の考え方や生きている世界が理解できないでいたと思う。私が社会人になった頃だったか、母とその頃の話になった時に、母がボソッと「お酒や占いに頼りそうになった」と発した言葉が私の頭から今でも離れない。
働き出した母を病魔が襲う。子宮筋腫で手術となった。どこまで母に不幸が訪れるのか。本当に父を恨み、神を呪った。幼い妹の手を引いて、母の病院に見舞いに毎週通った時の切なさは、何とも言いようのない恐怖を感じたものである。このまま母がいなくなったら、私は中学生で妹を養うのか、妹と離ればなれに施設に入るのか。無邪気に話しかけてくる妹が、とても疎ましく思ったりもした。お前はいいなあ、何も考えなくてよくてと。
ただ私も今親になって分かる。一番辛かったのは母だったであろう。中学生とはいえ未成年の息子と5歳の妹を家に残して入院なんて、気持ちの上では、いてもたってもいられなかったのではないだろうか。
私の反抗期が終わり、何とか大学に進んだ頃が、母は一番幸せだったろうか。やっと一つ肩の荷が下りたと。あとは妹だけであるのだから。ここまで書いているだけでも、母ほどの激動の人生は珍しい気がする。実はこの後も妹がいろいろ事件を起こして、母の安らぎも一時だったのではあるが。それはいつの日にか、ということにしておこう。
まあ何はともあれ、妹にも息子ができ、私にも息子ができ、2人の孫が高校に進学した矢先に母は脳梗塞で倒れた。短い期間だったかもしれないが、家族でたくさん旅行もした。その中心には常に母がいた。ゴッドマザーのように。幾多の困難を乗り越えてきた母の鈍感力と、「夫が死んだ時の恐怖を思えば何も恐いものはない」という泰然自若とした考え方で私たち家族は救われ、守られてきた。
その局面局面で名言(迷言?)もある。
「人間生きていくには頭を使うか、身体を使うかのどちらかだ。お前はどっちを選ぶ?」
これは私が高校生の頃に反抗している時に発せられた言葉である。成績不振で自暴自棄の私に、勉強をして頭を使って生きるにも死ぬような努力が必要だ、同じように身体を使ってお金を稼いでいくことにも死ぬような努力が必要だ、と説いたのである。つまりどのように生きていくせよ、今のお前のような怠惰な生き方をしている人間にはお金は稼げないと伝えたかったのである。
「お前のような息子が生まれてくると分かっていたら産まなかった」
これも反抗期の時に、私が母に向かって「産んでくれと頼んだ憶えはない!」と暴言を吐いた時に即座に返ってきた言葉である。私はこれを言ったら母は傷つき悲しむだろうと思いながらも、何も言わせないように切り札として発した言葉だった。本当に酷い言葉である。それなのに、私の暴言に対して一瞬たりとて躊躇せず、瞬時に返してきた。私が何も言えなくなった。
月並みであるが、母は強かった。そして誰よりも大きく優しかったと思う。今は病床で月に数度しか会えず、言葉をお互いに交わすこともできないが、瞼の奥の動きで彼女が私の言葉を理解していることを悟る。「私はあなたの息子で良かった。いろいろとごめんなさい。それでも私を理解して守ってくれた。もう一度生まれ変わってもあなたの息子として生まれてきたい」
彼女を見舞う度に伝えている。その時だけ、母の左目から涙が落ちる。聞こえているんだよね。だから私はまだまだ死なない。あなたの教えを息子に伝え、あなたに恥ずかしくない生き方をしていく。さあ、今日はどんな日になるかな。今を一生懸命に生きていこう!
※記事の情報は2020年10月6日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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