【連載】仲間と家族と。
2019.04.09
ペンネーム:熱帯夜
父の教室
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
49歳で亡くなった父は、多くの思い出と教訓を残してくれた。月並みであるが、私の中には父がいる。
私の父は、私が幼稚園生のころに三重県の某所で工場長をしていた。いわゆる単身赴任である。一年に何回か、私と姉は母に連れられて、東京から列車に乗り独り住まいの父の元に遊びにいった。
私たちが父の独居宅に先に着き父を待っていると、仕事を終えた父は、しばしば工場の若い工員さんを大勢引き連れて帰宅してきた。これにいつも私は失望した。やっとパパが帰ってきた、遊べる!と思ったのもつかの間、見知らぬ人たちがぞろぞろと家にあがりこんできて、親子の時間が夢と散るのである。子どもにとっては、はっきり言って迷惑な人たちであった。
昭和40年代の前半のことである。工場長とはいえ、サラリーマンの給料は決して裕福といえるものではなかった。それでも父は工場の若い工員さん達を率いていく立場にあり、ふだんから自分よりも薄給の若者を家に連れてきては、夕食を食べさせていたりしたようである。その単身赴任先に母が来たときなどは、本格的な家庭料理を食べさせることのできる絶好の日であり、この日とばかり工員さんたちを誘ったのだと思う。
その分、母は大変だったと思う。当時は会社から家に電話するなどというのは許されないことだったようで、父が大勢の工員さんを引き連れて帰宅するのはいつも突然だった。たいてい4~5人、多いときには10人くらい一緒だったこともあった。そこから、あり合わせの食事を用意するのである。私は、父の隣に割り込んで夕食を食べようとして、母に子どもはこっち、とキッチンへ引きずり戻された。
父に一緒に風呂に入りたいとせがむと、母に先に姉と入って寝てろと言われた。母を何と憎たらしいと思ったことか。父たちにはお酒も入っていたかもしれない。とにかくうるさくて寝られないし、私には良い思い出がないのである。
父が工員さんたちと何を話しこんでいたのかを知ったのは、ずっと後のことだった。父は私が9歳の時に亡くなったが、亡くなってから10年以上たったころに、母からあのころの父の話を聞いた。
あの単身赴任先で、父は工員さんたちに、自分の家で仕事に関わるいろいろなことを教えていたというのだ。報告書や業務日誌の書き方、漢字の書き方や計算、ときには恋愛相談まで。この父の「教室」はしばしば深夜に及んだ。まだ進学率も高くはなく、必ずしも勉学を身に付けてから働けている人だけではない。若者たちはそれぞれの事情を抱えながら一所懸命に働いていた。率いていた400人以上の部下に、父は根気強く、時には厳しく実に様々なことを教え、褒め、励まし、元気づけていたのだ、と母は言う。一緒に夕食を食べ、一緒に話し、ともに学ぶ。時として父は部下たちと同じ目線で過ごしたのである。勤務時間中には、きっと心を鬼にする瞬間も多かっただろう。そんなメリハリがきっと部下からの信頼を得られた要因なのではないだろうか。
この、父の単身赴任のころの話を母から聞かされたとき、私は大学生になっていて、テニスのサークルの主将を務めていた。サークルなので体育会の部活とは違っていろいろなメンバーがいた。テニスを真剣にやりたいけれど学科の単位が危ういので体育会ではなくサークルにしたメンバーもいれば、せっかく大学に入ったのだから男女で楽しく過ごしたいというメンバーもいる。ただ一人でいるのは寂しいからサークルに入ったというメンバーもいた。種々雑多である。
そんななかで主将だった私は、とにかく練習は厳しく、試合に勝つことを目指す主義だった。そのせいで、とにかく人気がない主将で、人望はゼロ。サークルはまとまらなかった。同級生からも少し緩くしてはどうかとアドバイスをもらったが、聞く耳を持たなかった。本当はサークルがそんな状態なことに悩んでいるのに、誰にも相談しない。負けず嫌いだからやり方を変えない。誰かに相談したりしたら自分が負けたように感じるからである。練習の後にみんなと一緒に飲んだり食べたりするようなこともなくなっていった。負の連鎖である。
そんなときに、母からあのころの父の話を聞いたのである。父はすごい人だった。それなのに私はどうだ。70人のメンバーの話にまったく耳を貸さず、褒めもせず評価もせず、相談もせず。自分の正しいと思うことだけに従わせようとしている。そんなヤツに誰がついていくだろうか。この話を聞いたことは、私がただただメンバーに自分の考えを押し付けていたことを、省みるきっかけになった。
そのときから少しずつ私は変わったように思う。練習のあとにみんなで集まる会にも出席したり、たまには後輩たちとドライブに行ったり、飲み会にも出席するようになったり、メンバーの考えを聞けるような環境に自分を向け始めた。そのせいか分からないが、会の雰囲気も、少しずつ変わっていった気がする。
私が主将を終えたあとに、後輩から手紙をたくさんもらった。「厳しかったけどありがたかった」「テニスが上手くなれて、毎日が楽しくなれた」「これからも練習に試合に来て、みんなと一緒にいてください」などの手紙を読んで、とても嬉しかった、主将をやってよかった、途中で気持ちを入れ替えて良かったと思った。父は亡くなった後からでも、私に教えてくれたのだと思ってしまう。
キリスト教徒だった父の通夜は東京四谷の教会で執り行われた。母によると、通夜には三重県時代の工員さんたちもほぼ全員出席いただいて、列席者は800名を超えたそうである。私は9歳だったが、教会に入りきれなかった人々の列が四ツ谷駅の方まで並んでいた光景を、いまでもはっきりと憶えている。これも後に聞いた母の話では、列席者は口々に父への感謝の言葉を述べられていたそうだ。「漢字を教わった」「足し算の仕方を改めて教わった」「報告書の書き方をたたき込まれた」「○○さんの家が私の本当の学校でした」「お陰で会社を辞めないでいられた」などなど。
父はやはり偉大であったと、私はいまでも少し鼻が高い。大きな工場と学生のテニスサークルは比べるようなことでもないけれど、私も父に教えられたことで、心のこもった手紙を何通ももらうことができた。直接ではなくとも、偉大な父からそうした教えを受けられたことが、とても嬉しいのである。
※記事の情報は2019年4月9日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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