【連載】仲間と家族と。
2021.05.11
ペンネーム:熱帯夜
年の離れた妹
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
私には8歳違いの妹がいる。私が5月生まれで、妹が3月生まれなので、正確には学年としては7年違いなのだが、年齢としてはほぼ8歳違いである。以前に書いたように、私には4歳上の姉がいたのだが、小児喘息で9歳で他界している。その姉の生まれ変わりのように同じ干支の妹が生を受けたのである。当時、私は小学校1年生の終わりだったのだが、同級生に弟や妹ができることが少なかったので、友人たちから珍しがられ、生後間もない赤ちゃんを一目見ようと友人がたくさん遊びに来た。
姉の死以来、ふさぎ込みがちだった家族に、一筋の希望の光として妹が生まれた。やっと我が家も前に進んでいけるという出来事だったのだが、神様は時として厳しい試練を連続して与えることがある。これも以前に書いたが、妹が生まれて1年6カ月後に父が急死したのである。
9月に父が逝去し、10月からは母は働きに出た。祖母が同居していたものの、小学校に行っているとき以外は妹の面倒は私が見た。それまでは、スイミング、ピアノ、絵画と習い事をしていたが、全て辞めざるを得なくなり、友人と遊ぶ時間も極端に少なくなった。それでも、やっと話せるようになってきた妹が、「にいに、にいに」と私に懐いてくると、悲しんだり、寂しがったりする暇も無かった。
妹が2歳になった頃に、やっと保育園の入園許可が下り、妹は保育園に日中は預けられた。朝は祖母が保育園に連れて行き、帰りは私が迎えに行くという生活になった。その頃、友人たちは放課後に近所の空き地や、多摩川河川敷で野球に興じていた。私も野球に急速に惹かれていた頃であり、何とか友人たちと一緒に野球がしたかったのだが、それはかないそうもなかった。
あるとき1回だけ妹のお迎えに行く約束を破った。私が行かなくても保育園から連絡が来て、祖母が代わりに行ってくれるだろうと思った。確信犯である。ただ、その日は運の悪いことに祖母が急に病院に行くことになってしまい、私の思惑とは異なり、誰も妹を迎えに行けなかった。迎えの家族が来ないことで、保育園は祖母と連絡が取れず、仕方なく会社で働いている母に電話が入った。
当然、当時は携帯電話など無く、母は仕事を早退し、保育園に向かった。他の園児も全て帰ってしまい、たった1人で残されて泣きはらしていた妹を母が迎えに行き、帰宅した。
祖母が行ってくれて何とかなっているだろうと、たかをくくっていた私が泥だらけで帰宅した瞬間に、母から激怒された。私は悪いことをしたと反省はしているのだが、なぜ友人たちは毎日思いっ切り野球ができているのに、私はたった1回だけの自由も許されないのかと、内心は納得できず、この不条理な境遇を本当に呪った。そんな私に妹が寄ってきて、「にいには○○のこと嫌い?」と泣きながら聞いてきたときには、悔しさと申し訳なさで涙が止まらなかった。
この一件の後、どうも小学校の担任から母に連絡が入ったようで、何とかもう少し私に友人と交わる時間を作れないかと伝えてくれたようである。私の保育園への迎えは減り、週に3日は友人と野球ができるようになった。母も祖母も、私の葛藤には気付いていたのであろうが、彼女たちも生活のため必死だったのだと今は思える。
私が中学ぐらいまでは、母と妹と3人で家族旅行に行っていたが、思春期になる私は徐々に妹が疎ましく思えてきていた。妹はまだ小学校低学年で、ことあるごとに私にくっついてきてはいたのだが。私が大学に入り、当時付き合っていた女性を家に呼んだときには、妹は彼女を見事に無視して、一切口を利かなかったりもした。最愛の兄を盗られるという感覚なのだろうと母は言っていたが、私にはピンとこなかった。性格が悪い妹がいると彼女に思われるのが嫌で、ますます妹を疎ましく思ったものである。
やがて妹も成人し、いよいよ結婚することになった。父がいないので兄の私が結婚式のバージンロードを歩くことになる。ドラマなどで、娘の結婚で式の前日に父親に「お世話になりました」と挨拶するシーンや、「○○さんを幸せにします」と定型文で宣言するシーンが描かれるが、まさに自分の前にもそんなシーンが現れて、何とも現実感がない不思議な感覚だった。私は妹の兄であり、父親代わりはしたのかもしれないが、父親ではない。だから現実感がなくても当然だろうと、ちょっと冷めた感覚だった。ところが、いざ教会の扉が開き、バージンロードを妹と歩むときになって、突然私の中に何とも言いようのない感情が溢れた。
初めて抱き上げたときにミルクのような匂いのする妹、おむつを替えたり、ベビーカーを押して散歩をさせてきた妹、いつでもどこでも「にいに!」と言って駆け寄ってくる妹、母の帰りが遅く2人で待っているときの不安そうな妹。本当に嫁に行ってしまうのだなと。
ふと前を見るとバカ面(私にはそう思えた)した新郎がニタニタ(私にはそう思えた)して、ヘラヘラ(私にはそうとしか見えなかった)と立っている。本当にアイツで良いのか? そんなことを考えている私の歩調は遅かったが、一方の妹の歩みは速く、私を引っ張るではないか。どっちがリードしているのやら。無事に結婚式が終わったのは言うまでもないが、私にそんな感情が湧くなんて不思議なものである。
妹にも一人息子がいて、偶然にも私の息子と同級生である。お互いに兄弟がいないので、従兄弟同士でありながらも兄弟のようである。全く違う個性の2人だが、仲良くやっている。
妹はいろいろあってシングルマザーとして過ごしている。9年ほど前に実家に息子と帰ってきたのだが、年を取った母と3人で過ごしてくれていた。母も息子の私よりも、妹の方が気兼ねなくいられるようで、結果的には良かったと思う。その母も3年前に脳梗塞で倒れ、寝たきりで入院が続いている。そんな母の面倒を妹が見てくれている。私の負担はかなり少なく、妹には頭が上がらない。いつの間にか、妹も大人になり、頼りになる存在になっていた。
兄妹とは不思議なものである。あんなに年が離れていると思っていた妹も、この歳になってくると、頼りがいのある存在になっている。姉も、父も、祖母も鬼籍に入った。そして寂しいことだが、母もそう遠くない先に鬼籍に入るだろう。そうなるとお互いの息子以外は血の繋がった家族は妹だけである。
私も人生の後半に入っている。妹がいてくれて、私は救われてきたことが多かったと、今になって心から思う。毎日話すこともなく、月に1度くらいの連絡であるが、それだけでもお互いに何かを感じられていると思う。この先の人生も、兄妹で仲違いすることなく、お互いが良い距離感で進んでいきたいものである。
※記事の情報は2021年5月11日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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