世界でいちばんジミー・ペイジに近づいた男 | ジミー桜井

SEP 7, 2021

ジミー桜井さん ギタリスト〈インタビュー〉 世界でいちばんジミー・ペイジに近づいた男 | ジミー桜井

SEP 7, 2021

ジミー桜井さん ギタリスト〈インタビュー〉 世界でいちばんジミー・ペイジに近づいた男 | ジミー桜井 1968年にイギリスで結成され、ハードロックやヘヴィメタルという音楽ジャンルの原型を作ったと言われるロックバンド「レッド・ツェッペリン」。ジミー桜井さんは、レッド・ツェッペリンのギタリストであるジミー・ペイジのサウンド、ステージングを再現するという、世界的な活動をしています。ジミー桜井さんの考える「リバイバルバンド」、そして再現芸術としての取り組みについてお話をうかがいました。(カバー写真:Chiharu Taguchi)

キッスに憧れてギターを手にした少年時代

ジミー・ペイジのサウンドを再現する。その活動が評価され、今では世界的に名を知られるようになったジミー桜井さん。まずは少年時代のロックとの出合い、そしてレッド・ツェッペリンの魅力についてお話をうかがった。


――最初に、音楽に魅せられた原体験を教えてください。


親父の影響が大きいですね。僕は新潟県の十日町市出身です。織物の産地として有名な町で、父は着物の型紙職人をしていました。自営だったので家で作業していましたが、その時に父は音楽を流していました。今から思えばいろんなものを自然に聴いていました。


父はまた映画好きで、僕も小学生になると父と一緒にテレビで映画を観ていました。最初に買ったレコードも映画音楽で、「燃えよドラゴン」のサウンドトラックです。画面を想像しながら映画音楽を聴いていました。


映画を観ること、音楽を聴くこと、そしてそこから頭の中で想像するという訓練はここから始まりました。こうした子供時代を過ごしていなければ、今のような感覚でツェッペリンの音楽を聴けていなかったと思います。


――ロック・ミュージックとの出合いは?


洋楽全盛時代だったので、中学に入るとクラスのみんなが洋楽ロックを聴いていましたね。ベイ・シティ・ローラーズ、ビートルズ、キッスなどが流行っていました。衝撃的だったのは1977年5月にNHKで放映されたキッスの武道館公演ですね。その日、学校のみんなは部活を休んで家に帰り、テレビにかじりつきましたね。


最初にギターを買ったのは、14歳、中2の夏です。クラスではフォークギターの方が人気でしたが、僕は最初からエレキギターでした。上達は早く、中3の時には高校生のバンドに勧誘されたほどでした。




レッド・ツェッペリンを聴いた衝撃



――レッド・ツェッペリンの音楽との出合いについて教えてください。


最初に聴いたのは中学の時で、「永遠の詩(狂熱のライヴ)」というライブアルバムでした。ただしその時は、とても長い曲も入っているそのアルバムは"難解"過ぎて分かりませんでした。


本格的に接したのは、その後、高校生になって初めてツェッペリンを演奏するバンドに誘われてからです。今でも覚えていますが、秋の寒い日、メンバーの家まで原付バイクで行き、熱いコーヒーを飲みながら、アルバム「IV」とそれに収録されている「天国への階段」を聴きました。衝撃を受けましたね。スタジオ盤を聴いたのが初めてだったからかもしれません。その時に「絶対にこれをやろう!」と思いました。


――ジミー・ペイジのサウンドをすぐにコピーすることはできたのでしょうか。


はい。ギターのフレーズだけでなく、全体のアンサンブルも最初から分かりました。それは映画音楽でオーケストレーションの構成を頭に描くという聴き方をしていたからでしょう。ディテールにこだわるという性格もあり、ギターのアンサンブルもポジションやシンコペーション、ピックアップの切り替えによる音色の変化、どの弦を鳴らすかというところまで聴き取りました。


――ジミー・ペイジというギタリストのどこが良かったのですか。


魅力を感じたのは、そのラフさですね。間違いやミス、リズムの甘さをそのままレコードにしてしまう感じがまたカッコいい。当時はテクニック指向のフュージョン系ギタリストも人気がありました。そんな中、まるで殴り書きのようなペイジのラフさが良かったんです。絵画に例えるなら、近くで見ると粗いのに、少し離れて観るといい具合に仕上がっている。その分、他の人には、その良さが分かりにくいところはあるかもしれません。





就職、そして2度目の上京

レッド・ツェッペリンが解散したのは1980年。ジミー桜井さんがその音楽を再現するようになった高校生のときには、レッド・ツェッペリンはすでに活動を終えていた。それでもジミー桜井さんのツェッペリン熱が冷めることはなかった。


――高校を出て就職のために上京されています。最初からプロを目指すつもりはなかったのですか?


もともとは高校を卒業したら、あるミュージシャンのローディー*1をする予定でした。しかしその話がキャンセルになり、あわてて東京の呉服問屋に就職することになったんですよ。入った呉服問屋が非常に忙しく、1年のうちの半分は出張で寮にもいない。バンドを組む時間もなければ、ギターを弾く時間もないほどでした。ただ今から思えば、結果的には良かったかもしれません。時代は80年代。ローディーを続けてギターの仕事を紹介してもらっても、自分のスタイルでは出番がなかったでしょう。


*1 ローディー:主に楽器のメンテナンスやセッティングをするスタッフ。


帰って来いよという友達の誘いもあり、呉服問屋は2年で辞めて十日町に戻りました。仕事のかたわら、昔の仲間たちとバンド活動をしましたが時代は変わり、ツェッペリンの出番はありませんでした。たった2年前には満杯になった市民ホールも、ライブを企画してもお客が集まらなくなりました。


――その後、また東京に出てきます。


新潟で活動している間、ギタリストのジョージ吾妻さんがやって来て一緒にセッションをしました。その時にジョージさんに「うちの会社でバイトでもしながら、バンドメンバーを探したら」と声をかけられて、再び上京することにしました。ジョージ吾妻さんはプロギタリストとしての活動の他に、日本エレクトロ・ハーモニックスという楽器輸入代理店を創業されていていました。そこでいいチャンスかもしれないと、その誘いに乗ることにしたのです。1990年のことでした。結局、バイトから正社員になりましたけど。





ツェッペリンを追求するバンド、MR. JIMMYの結成

――再就職後、それから周りの状況は変わりましたか?


日本では1990年にCDボックスセットが発売されて以来、レッド・ツェッペリンの人気が再燃してきました。また楽器の仕事で海外出張に行くと、欧米ではレッド・ツェッペリンがいまだに強い人気を持っていることを知らされました。英語がそれほどできなくても、音楽業界ではツェッペリンが共通言語となり、知り合いも増えていきました。


――その頃に、自身のグループ、MR. JIMMYを結成されるのですよね。


はい。最初はにわか仕込みのバンドで単にツェッペリンの曲を演奏するだけでした。それが思いのほか好評だったので、次に米兵が多い東京・福生のライブハウスに出演しました。何回目かのとき、ふと看板を見たらバンド名に「MR. JIMMY」と書いてある。バンド名は決めてなかったのですが、主催者の方で勝手に名前を付けてくれたんですよね。これがMR. JIMMYの始まりです。


最初は流動的だったメンバーも回数を重ねるうちにそろい、本家と同じ編成になりました。1994年ごろから、現在のMR. JIMMYにつながる活動が始まり、やがて毎月1回のライブを目指すようになりました。


2015年、レッド・ツェッパゲインの来日公演。(EXシアター六本木) Photo by Chiharu Taguchi2015年、レッド・ツェッパゲインの来日公演。(EXシアター六本木) Photo by Chiharu Taguchi




ジミー・ペイジが来た!

サラリーマンとして働きながらのバンド活動は少しずつ軌道にのり、やがて多くのファンを獲得、その活動は海外にも知られるようになった。そんなある日、ドラマチックな出会いが訪れる。


――ライブにジミー・ペイジご本人が来たことがあるそうですね。


そうです。2012年のことです。その年、僕はアメリカで人気があるトリビュートバンド「レッド・ツェッパゲイン」に声をかけてもらって、お試しで加入してアメリカ国内で何本かショーをするということになっていました。いよいよ私が出国するという前日に、ジミー・ペイジが来日したのです。


実はその出国の1週間ほど前、「ライブがあれば連れていきたい」とある業界関係者から連絡がありまして。その人はそれまでにも何回かライブにいらしていて、「これをジミー・ペイジに見せたい。いつか連れていくから」と言ってくださっていましたが、まさか実現するとは思っていませんでした。その方が「約束はできないけど、今回ジミー・ペイジが行きたいと言ったら連れていく」と言ってくださるので、出発前なのでライブの予定は入れていませんでしたが、これは良いチャンスだと思い、ライブをできる会場を急いで探しました。


しかし何しろ1週間前なので空いている場所がありません。幸いお客さんの中に心当たりがある方がいらっしゃって、急遽、青山のGIGABARというところで50人限定でライブを行うことが決まりました。ただし「ジミー・ペイジが来る!」とは告知できませんから、「ジミー・ペイジ来日を記念し、ツェッペリンナンバーでお祝いしましょう」というお知らせをしました。


――では当日まで、本当にジミー・ペイジが来るかは分からなかったのですね。


そうなんです。成田から東京へ向かう車の中でライブに誘われたジミー・ペイジが、「ぜひ行きたい」と言ってくれたおかげです。さらに伝言で、「俺の良かった頃の演奏をしてくれ」と。実はその日は、2007年に行われたツェッペリンの再結成イベントの演目を演奏する予定でした。というのもジミー・ペイジの来日は、そのライブCDとDVDのプロモーションのためだったからです。だから急に「良かった頃」と言われて困ってしまいましたね。


そこで全盛期の73年のライブに変更し、その日の午後は仕事を早退して本人が来るのを待ちました。狭い会場だったので、演奏中もジミー・ペイジがこちらを見ているのが見えるんですよ。30分近い曲「幻惑されて」が終わった時は、誰よりも先に立ち上がってスタンディングオベーションしてくれました。とにかく最高の夜でしたね。ライブが終わっても残って、「どうやってあの音を取ったんだ」と興奮気味に話しかけてくれて。


その翌日のレセプションパーティーにも参加できることになり、その席でもお会いすることができました。本人に会うずっと前からいろんな人に、「ジミー・ペイジに会ったら何を話したいですか?」という質問をされていました。そのときにいつも答えるのが「この活動を続けていいですか?」でした。本人の承諾なしにツェッペリンの演奏を続けていることに、不安がないわけではなかったので。するとペイジはAbsolutely !(もちろんいいよ!)と言ってくれて、ハグしてくれました。これは何よりのことです。もうそれ以外のことは覚えてないんですけれど(笑)。


2017年、MR.JIMMY のアメリカデビュー。1969年にレッド・ツェッペリンが初の全米ツアーで演奏したハリウッドのWhisky A Go Goで Photo by Chiharu Taguchi2017年、MR.JIMMY のアメリカデビュー。1969年にレッド・ツェッペリンが初の全米ツアーで演奏したハリウッドのWhisky A Go Goで Photo by Chiharu Taguchi




目指すのはトリビュートバンドではなく、リバイバルバンド

会社員を辞めギター一本で生きる決意をしたジミー桜井さん。アメリカに渡りレッド・ツェッパゲインの一員としてツアーを続けた後、自分のバンドMR. JIMMYを率いてアメリカ国内で演奏活動。さらにはジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリンのドラマー、故人)の息子のジェイソン・ボーナムが亡き父親の名を継承していくバンドJBLZE(Jason Bonham's Led Zeppelin Evening)にも参加するなど、活躍の場を大きく広げる。ただし、その活動のなかでも自分が究めたい音楽への思いが揺らぐことはなかった。


――アメリカでは、トリビュートバンドはビジネスとして成り立っているのですよね?


日本ではようやく定着しつつある「トリビュートバンド※2」という呼び名ですが、アメリカでは、日本では信じられないくらいポピュラーで何百というバンドが活動しています。


――オリジナルの楽曲を演奏するに際し、コピーやカバー、トリビュート、いろいろな言い方がありますが、ジミーさんが目指している「リバイバル」という表現は、他とはどう違うのでしょう?


アメリカのお客さんは似てようが似てまいが、知っている曲で盛り上がるところはあります。ハートで聴く日本の観客と、身体全体で聴いているアメリカの観客はかなり違いますが、どちらが良いかとは言えません。私はツェッペリンのトリビュートでは世界的に有名な「レッド・ツェッパゲイン」に加入しましたが、僕の考えているトリビュートとは違いました。彼らがやっていることは"カバー"なんですよ。カバーとは、自分の持っている解釈やスキルでツェッペリンを演奏するということです。僕からすれば、オリジナルに近づくためのブラッシュアップが足りないんです。自分が目指しているものはそれじゃない。それならトリビュートバンドを名乗りたくない......。


そこでどう名乗ればいいか迷っているときに、「リバイバルバンド」というネーミングを提唱してくれたのは、ドキュメンタリー映画「Mr. Jimmy」(※日本では未公開)のピーター・マイケル・ダウド監督です。彼は僕のしていることと、アメリカのトリビュートバンドとの違いを理解してくれている人物です。そこでこの名前を使うことにしました。「リバイバルバンド」というネーミングを使うのは、アメリカでもおそらく初めてでしょう。


*2 トリビュートバンド:人物、グループの業績を讃え敬意をもって楽曲とステージを忠実に再現するバンド。衣装やヘアスタイル、演出まで似せることが多い。


MR.JIMMYの活動を追ったドキュメンタリー映画「Mr. Jimmy」(ピーター・マイケル・ダウド監督。2021年9月の米国内を皮切りにイギリス、オランダ等で順次公開予定。日本での公開は未定)のポスタージミー桜井さんの活動を追ったドキュメンタリー映画「Mr. Jimmy」(ピーター・マイケル・ダウド監督。2021年9月米国内、以後イギリス、オランダ等で順次封切り予定。日本国内での上映は未定)のポスター


2019年3月テキサス州オースティンで開かれたSXSW映画祭「Mr. Jimmy」プレミア上映のレッドカーペットで。監督のピーター・マイケル・ダウド(中央)と、アメリカのMR.JIMMY Led Zeppelin Revivalバンドメンバー2019年3月テキサス州オースティンで開かれたSXSW映画祭「Mr. Jimmy」プレミア上映のレッドカーペットで。監督のピーター・マイケル・ダウド(中央)と、アメリカのMR.JIMMY Led Zeppelin Revivalバンドメンバー




クラシックでは当たり前の再現芸術

――それでは、ジミーさんの言われる「再現芸術」とはどういうものなのでしょうか?


前にクラシックの演奏者から言われたことがあります。「あなたのしていることは理解できる。なぜならクラシックがそうだから」と。例えば、小澤征爾さんが外国に呼ばれて指揮をするときに、自分の解釈で楽器編成を変えたり、アレンジはしません。楽譜の中で表現し、それが見事だから評価されるのでしょう。演奏者たちも自分の解釈で音を変えずに、いかに一音一音最高の音を出すかに腐心し、指揮者がそれをどう導き出すかで評価されるのです。


レッド・ツェッペリンのみならず、あらゆる名曲は本来そうされるべきではないでしょうか。そこまでしないと聴こえてこない音楽もあるでしょう。


――ジミーさんにとってそれは、クラシックで言えばスコアに沿って演奏するようなものなのですか?


そうとも言えるし、そうはならないとも言えます。歌ものの音楽と異なり、例えばジャズでは、素材としての曲をメンバーがそれぞれのスタイルで演奏していきます。レッド・ツェッペリンの音楽にもそうした部分がありますが、それを"カバー"、つまり自分の解釈で演奏してしまうと、ツェッペリンの音にはならないんです。自由度はあっても、自分に寄せて演奏するとカバー。なぞるのはコピー。そうではなく、彼らのマインド自体を憑依(ひょうい)させないとできない。


それが簡単ではないからジレンマはあります。自分はイギリス育ちの彼らとは異なる環境で生きてきました。分からないことが多い。しかしだからこそ読み解いていく必要があるのです。リバイバルバンドとは、まさしくそういうプロセスを経て、理解したプレイヤーが集まって演奏するものです。全員が同じマインドでないとできない。ただ歌えるよ、叩けるよっていうだけで入ってくると違うものになってしまうんですよね。


2015年アメリカ、レッド・ツェッパゲインの野外公演 Photo by Chiharu Taguchi2015年アメリカ、レッド・ツェッパゲインの野外公演 Photo by Chiharu Taguchi




今後の活動、そしてツェッペリンサウンドの継承

――今後の活動を教えてください。


今年はレッド・ツェッペリンの初来日からちょうど50年です。1971年9月23日の日本武道館が日本での初演でした。ですので同じ日に、東京のEXシアター六本木で同じセットリストと楽器、そして衣装にもこだわってその初来日公演を再現します。当時、ライブを体験できなかった人に、ぜひ1971年のツェッペリンを体験していただきたいと思っています。


10月からは、ジョン・ボーナムの息子のジェイソン・ボーナムのバンドJBLZE(Jason Bonham's Led Zeppelin Evening)に参加してアメリカを回ります。これは彼の考えるツェッペリンの音楽表現で、僕のものとは同じではないですが、僕が加わることで以前とは違いを出していくつもりです。


――最後にアクティオノートの読者へのメッセージをお願いします。


これからもレッド・ツェッペリンの音楽の素晴らしさを、若い人たちに伝えていきたいですね。こういうバンドは今、いません。リバイバルバンドというムーブメントを広げれば、今までツェッペリンを知らなかった若い人たちの中にも反応してくれる人もいるはずです。克明に再現することで、リアルタイムで触れることができなかった人たちにそのサウンドを体験してもらい、ツェッペリンのスピリットを伝えたいと思っています。


インタビューはライブハウス「原宿クロコダイル」で行われたインタビューは東京のライブハウス「原宿クロコダイル」で行われた



取材協力:原宿クロコダイル



【コンサート情報】
EX Theater Roppongi Special Live Led Zeppelin 来日50周年記念

【コンサート情報】EX Theater Roppongi Special Live Led Zeppelin 来日50周年記念

[Jimmy Sakurai Plays ZEP / ロックカーニバル ♯7 +]
公演日:2021年9月23日(木・祝) 開場16:00、開演17:00
会場:EXシアター六本木(東京都港区)
料金: 5000円 ドリンク代別途・メモリアルチケット付


※記事の情報は2021年9月7日時点のものです。

  • プロフィール画像 ジミー桜井さん ギタリスト〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    ジミー桜井(じみーさくらい)
    ジミー・ペイジとレッド・ツェッペリンを敬愛しているギタリスト。その音楽を再現し、“リバイバル”というスタイルで継承していく活動をしている。1963年、新潟県十日町市生まれ。14歳でギターを手にし、当初はキッスなどを演奏していた。やがてレッド・ツェッペリンの音楽に出合い、ジミー・ペイジの影響を受ける。楽器の輸入代理店である日本エレクトロ・ハーモニックス社に勤務しながら、1994年にツェッペリンの音楽を再現するバンドMR. JIMMYを結成。2012年よりカリフォルニアのツェッペリン・トリビュートバンドLed Zepagainに参加。2014年退社し、単身渡米して正式加入するも、方向性の違いで脱退。2017年に米国でMR. JIMMYを再結成したほか、ジェイソン・ボーナムのバンドJBLZEにも参加。2021年10月からはアメリカでJBLZEのツアーが始まる。

    〈主宰・参加しているバンド〉

    MR. JIMMY Led Zeppelin Revival
    アメリカ国内で活動。リーダーであるジミー桜井以外のメンバーは全てアメリカ人。

    Jimmy Sakurai Plays ZEP
    全員日本人メンバー。演奏のみならず機材や衣装など全ての面でレッド・ツェッペリンを再現する。2021年9月23日にレッド・ツェッペリン来日50周年公演を行う。

    JBLZE (Jason Bonham's Led Zeppelin Evening)
    ジョン・ボーナムの息子のジェイソン・ボーナムが率いるバンド。Led Zepagainを脱退した2017年の秋のツアーから正式にギタリストとして加入。2018年はホワイトスネイク・フォリナーと、2019年はピーター・フランプトンと共に全米をツアー。自身のバンドMR. JIMMY Led Zeppelin Revivalと並び、ジミー桜井のアメリカでの活動のメインとなっている。


    ジミー桜井公式サイト(日本語)https://www.mrjimmyledzeppelinrevival.com/japan
    YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/c/JimmySAKURAI
    Facebookページ https://www.facebook.com/jimmysakuraiofficial/

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