主人公の名前がタイトルの海外の名作――恋愛小説からファンタジーまで

【連載】翻訳家・金原瑞人が誘う大人の海外文学入門

翻訳家:金原瑞人

主人公の名前がタイトルの海外の名作――恋愛小説からファンタジーまで

連載「翻訳家・金原瑞人が誘う大人の海外文学入門」では、翻訳家の金原瑞人(かねはら・みずひと)さんに、初心者でも読みやすいおすすめの海外小説をご紹介いただきます。第1回は主人公の名前をタイトルに冠した名作です。魅力的な主人公と共に、心揺さぶられる非日常を体験してみませんか?

翻訳を始めてそろそろ35年。訳した作品は640冊くらいになります。じつは同じくらいの年数、書評を書いてきました。取り上げた本はおそらく300冊を超えると思います。とにかく本が好きです。日本の作品も好きでよく読むのですが、それでも海外の作品のほうが多いですね。それはおそらく、日本文学にはない驚きや出会いがあるからだと思います。


というわけで、これから数回にわたって、海外文学を紹介していこうと思います。今回の切り口は、「主人公の名前がタイトルの海外の名作――恋愛小説からファンタジーまで」です。安易なタイトル、主人公の名前をそのまま持ってきた名作について書いてみます。




海外小説の変遷:名作は主人公の名前がタイトルの作品が多い

文学作品の中で、主人公の名前をタイトルにしている作品は数え切れないくらいあります。


欧米でいわゆる近代小説(ノベル)が誕生したのは17世紀末から18世紀初めで、最初の頃の作品として、とくにイギリスでは、主人公の名前を付けたものが多く見られます。


17世紀末~18世紀初めのイギリスの小説

・『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー)
・『トム・ジョウンズ』(ヘンリー・フィールディング)
・『ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト)


そして、この傾向は19世紀の欧米の小説にもそのまま受け継がれていきます。


19世紀末の欧米の小説

イギリス フランス
・『エマ 』
(ジェイン・オースティン)
・『フランケンシュタイン』
(メアリー・シェリー)
・『オリヴァー・ツイスト』
(チャールズ・ディケンズ)
・『ジェイン・エア』
(シャーロット・ブロンテ)
・『ボヴァリー夫人』
(ギュスターヴ・フローベール)
・『ナナ』
(エミール・ゾラ)
ロシア アメリカ
・『カラマーゾフの兄弟』
(ドストエフスキー)
・『ワーニャ伯父さん』
(チェーホフ)
・『ハックルベリー・フィンの冒険』
(マーク・トウェイン)
・『シスター・キャリー』
(セオドア・ドライサー)


例はいくらでもあがります。どれも名作中の名作。本好きの方なら、ほかにもいろいろ思いつくかもしれません。


20世紀に入ってからも、数は少なくなりますが、その傾向は続きます。


20世紀の欧米の小説

イギリス フランス アメリカ
『ダロウェイ夫人』
(ヴァージニア・ウルフ)
『チボー家の人々』
(マルタン・デュ・ガール)
『グレート・ギャツビー』
(スコット・フィッツジェラルド)


その他いろいろ。




文学とは、人を描くこと

考えてみれば、文芸作品は小説(ノベル)というジャンルが誕生するずっと前からそうだったのです。古代ギリシアでも『オデュッセイア(オデュッセウスの歌)』という叙事詩があり、『オイディプス王』という戯曲がありました。どちらも古典中の古典。


1600年前後に活躍したイギリスの天才的な劇作家シェイクスピアの四大悲劇も『マクベス』『ハムレット』『リア王』『オセロ』と、すべて人名がタイトルです(『ロミオとジュリエット』は四大悲劇に入っていません)。また、日本でも最初の長編物語のタイトルは『源氏物語』です。


結局、文学とは人を描くことなのでしょう。だから、タイトルに中心人物の名前を付けるというのは安易といえば安易なのですが、王道中の王道でもあるわけです。


それから児童書も、まったく同じです。児童書は英米の作品が中心になってしまうのですが、こんなものがあります。


児童書

イギリス アメリカ、カナダ
・『不思議の国のアリス』
(ルイス・キャロル)
・『ピーター・ラビット』
(ビアトリクス・ポター)
・『ピーター・パンとウェンディ』
(ジェームズ・バリー)
・『メアリー・ポピンズ』
(P・L・トラヴァース)
・『ドリトル先生アフリカへ行く』(原題は『ドリトル先生の物語』)
(ヒュー・ロフティング)
・『トム・ソーヤーの冒険』
(マーク・トウェイン) 
・『赤毛のアン』(原題は『緑の破風のアン』)
(L・M・モンゴメリー)
・『少女ポリアンナ』
(エレナ・ポーター) 
・『シャーロットのおくりもの』
(E・B・ホワイト)


イギリスであげた小説はすべてファンタジー。アメリカ、カナダであげた小説は、『シャーロットのおくりもの』を除いて、すべてリアリズム小説です。


新しいところでは、イギリスなら「ハリー・ポッター」のシリーズ(J・K・ローリング)、アメリカなら「パーシー・ジャクソン」のシリーズ(リック・リオーダン)などがあります。


以上、欧米の古典から現代物まで有名なものをざっと見てきました。主人公の名前がそのままタイトルになっている作品がどれほどたくさんあるか実感してもらえたでしょうか。


さて、これからいくつか、そういった作品の中から、ぼくの好きな作品を紹介していこうと思います。




恋愛小説の名作! ロシアの貴族社会で起こるアンナの悲恋劇『アンナ・カレーニナ』


アンナ・カレーニナ』(古典新訳文庫、全4巻)
作:レフ・トルストイ
訳:望月哲男
出版社:光文社


ロシア19世紀を代表する作家のひとり、レフ・トルストイは、『戦争と平和』、『復活』、『クロイツェル・ソナタ』(ベートーベンの同曲名に由来)といった作品でもわかるように、あまりタイトルに凝る作家ではなかったようです。『アンナ・カレーニナ』も主人公の女性の名前です。というわけで、この作品を簡単に紹介しましょう。


19世紀ロシアの貴族社会で、ひかれ合った人妻アンナと青年将校ヴロンスキーがたどる悲劇的な運命......とまとめてしまうと身も蓋もないのですが、ここには一途な愛、それが許されない状況での2人の苦悩と、それぞれの身の処し方、気持ちのすれちがい、予想外の事故や事件などがじつにリアルに描かれていきます。


モスクワ駅での出会い、その夜の舞踏会での再会、ペテルブルグに帰っていくアンナを必死に追いかけるヴロンスキー、そんな彼に会うたびに歓びに体が震えながらも不安をつのらせるアンナ、2人の仲がうわさになる中、冷淡にその対処法を考える夫、アンナの妊娠......という具合に物語はスリリングに進んでいきます。


しかしそれだけでなく、最初のほうでヴロンスキーに振られたキティが、かつて振ってしまったリョーヴィンと再会して新しい関係を築いていくもうひとつの物語が、主旋律に対する対旋律になっていて、このふたつがときにもつれ、ときにぶつかり、ときに共鳴し合っていくところが素晴らしい。世界の恋愛の要素を凝縮してバランスよく展開させたような作品です。


この作品は何度も繰り返し映画化され、そのたびに評判になりました。アメリカ映画あり、イギリス映画あり、ソビエト映画あり。グレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソーなどがアンナを演じています。どれもなかなかいい出来です。長い小説はいや、という人はまず映画からという手もあります。




ベストセラーエンタメ小説! 姿を変えたダンテスが大復讐を遂げる『モンテ・クリスト伯』


モンテ・クリスト伯』(岩波文庫、全7巻)
作:アレクサンドル・デュマ
訳:山内義雄
出版社:岩波書店


フランス19世紀を代表する作家のひとり、アレクサンドル・デュマの代表作『モンテ・クリスト伯』。もうひとつの代表作『ダルタニャン物語』とともに、主人公の名前がタイトルになっています。


主人公はエドモン・ダンテス。ダンテスは腕のいい航海士で船長に抜擢されることになっていたのですが、それをねたむダングラールと、ダンテスの恋人メルセデスをねらっているフェルナンが共謀し、それに検事補のヴィルフォールが加担して、なんと、メルセデスとの婚約披露宴の日に逮捕され、マルセイユ港沖にあるイフ島の独房に入れられます。1815年にエルバ島を脱出してパリに戻り、百日間政権を握った後、再び敗北を喫したナポレオンに協力したという冤罪を着せられたのです。


孤島の牢獄でダンテスは、聡明な老人に出会い、協力して地下に脱出路を掘り進めるのですが、老人はその途中で死んでしまいます。ダンテスは袋に入れられた老人の死体と入れかわって、海に放りこまれたところで袋をナイフで切り裂いて脱出、密輸船に救出されて一命を取りとめます。牢獄に入れられてから14年がたっています。


その後、老人に教えられたモンテ・クリスト島の財宝を発見したダンテスが、パリに戻ってモンテ・クリスト伯爵と名乗り、社交界で注目を集めると同時に、自分を陥れた3人に復讐をしていくというのが大筋です。


ダンテスが状況を冷静に判断しながら、綿密な計画を立てて、胸のすく復讐を遂げていくところが読みどころなのは言うまでもないのですが、それ以上におもしろいのは、次々に意外な人物が登場して意外な事件が起こり、読者の思いもよらない方向へストーリーが進んでいくところです。


さらにあちこちに反則まがいの伏線が張ってあったり、かなり無理っぽいどんでん返しもあったりで、飽きさせません。そしてなにより、復讐に燃えながらも、どこまでも人間的に振る舞おうとするダンテスが魅力的です。まさにエンタメ小説のお手本とも言うべき作品。




少年トムの冒険にワクワク! タイムスリップ・ファンタジー『トムは真夜中の庭で』


トムは真夜中の庭で』(岩波文庫)
作:フィリパ・ピアス
訳:高杉一郎
出版社:岩波書店


最後に、イギリスの児童文学作家、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を紹介しましょう。これは楽しみにしていた夏休みを、弟が麻疹になったため、おじとおばの家で過ごすことになったトム・ロングの物語です。発表されたのが1958年で、舞台もおそらくそのあたりだと考えられます。


トムはおじとおばの家で退屈な毎日を過ごすのですが、ある夜、1階の大きな置き時計が12時を打った後、もうひとつ時を打つのを耳にします。あれっと思ったトムは2階から1階に下りて、時計を見た後、裏口のドアを開けて外に出ます。すると、そこは裏庭ではなく、広い庭園になっているのです。


このときから、時々、トムは真夜中の13時にそこへ遊びに出るようになり、やがてハティという女の子に出会い、そこが昔のヴィクトリア時代だと知ることになります。この作品では、トムとハティの触れ合いが中心に描かれていくのですが、トムはずっと同じトムなのに、ハティは幼かったり、妙に大人っぽかったりしていて、そこがとても不思議で、読者の興味をそそります。


そしてエンディングが見事。タイムファンタジー、タイムスリップ物の楽しさを存分に味わってください。


ぼくが訳したロバート・ウェストールの『ブラッカムの爆撃機』という短編集に「チャス・マッギルの幽霊」という短編が収録されています。これがまた『トムは真夜中の庭で』とは違ったタイプのタイムスリップ物で、また見事なのです。興味がわいたら、ぜひ読み比べてみてください。



ブラッカムの爆撃機』(岩波文庫)
作:ロバート・ウェストール 編:宮崎駿
訳:金原瑞人
出版社:岩波書店




📙金原瑞人 新刊紹介

コミックで楽しむ、大学生の友情と恋愛、青春ロマンス
『Roaming ローミング Volume1』


Roaming ローミング Volume 1
作:マリコ・タマキ 絵:ジリアン・タマキ
訳:金原瑞人
出版社:トゥーヴァージンズ
発売日: 2024年9月11日


マリコ・タマキとジリアン・タマキのコンビによるグラフィックノベル(コミック)の3作目です。2009年、韓国系のダニエル、日系のゾーイ、白人のフィオナの大学生3人がカナダからやってきて仲良くニューヨークをめぐる......はずだったのが、ゾーイとフィオナがひかれ合うところから、3人の関係がこじれていきます。


思いきり真面目なダニエル、大胆でクールなフィオナ、2人の間でまごまごしてしまうゾーイ。3人の気持ちの揺れがリアルに、現代の言葉で語られていくのです。そしてなにより、細かい描きこみとダイナミックに流れる場面を絶妙のバランスでコラージュした絵が絶妙。


とくにゾーイとダニエルの髪型や服装が、高校時代のものにタイムスリップするところは 、コミックならではの手法で表現されています。ここを最初に読んだときは思わず、「えっ!」と声をあげてしまいました。これは小説では無理。ぜひ、その目で確かめてみてください。


※記事の情報は2024年9月24日時点のものです。


  • プロフィール画像 翻訳家:金原瑞人

    【PROFILE】

    金原瑞人(かねはら・みずひと)
    翻訳家、法政大学社会学部教授(2025年3月末に退職予定)
    1954年、岡山県生まれ。児童書やヤングアダルト向けの作品のほか、一般書、ノンフィクションなど、翻訳書は約640点。訳書に「豚の死なない日」(ロバート・ニュートン・ペック著)、「青空のむこう」(アレックス・シアラー著)、「国のない男」(カート・ヴォネガット著)、「不思議を売る男」(ジェラルディン・マコックラン著)、「バーティミアス」(ジョナサン・ストラウド著)、「月と六ペンス」(サマセット・モーム著)、「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」(リック・リオーダン著)、「ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂」(マーギー・プロイス著)、「さよならを待つふたりのために」(ジョン・グリーン著)など。エッセイ集に「翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった」「翻訳のさじかげん」など。日本の古典の翻案に「雨月物語」「仮名手本忠臣蔵」「怪談牡丹灯籠」など。

    金原瑞人 公式サイト
    https://kanehara.jp/

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