スポーツ
2020.12.11
冨山議慎さん 草野球監督・シンガーソングライター〈インタビュー〉
野球と歌で「笑顔の連鎖」を起こしたい
空き地で遊ぶ三角ベースから、少年野球、中学野球、高校野球、大学、社会人、そしてプロ野球や草野球まで。日本で野球ほど愛されているスポーツはあるでしょうか。元甲子園球児という冨山議慎(とみやま・かたみつ)さんは、現在草野球チーム「アペックス」(https://teams.one/teams/apex)を率いる監督兼選手でありながら、ライブハウスに出演するシンガーソングライターとしての顔も持っています。そんな冨山さんに野球や音楽を始めたきっかけ、その楽しさについてお話をうかがいました。
運動音痴からエースで4番、そして甲子園へ
――最初に野球との出合いについて教えてください。
実は小学校時代はいじめられっ子だったんです。運動音痴で、野球も4年生くらいまでやったことがなかったし、興味もありませんでした。ところがあるとき近所の子に「遊びに行こうよ」と少年野球の練習に誘われました。ただ誘われたのがうれしくて、よく分からないまま少年野球のチームに入りました。
でも足は遅いし、逆上がりもできない、とにかく全然運動ができなかったので、チームには入ったものの最初はほとんど練習にも行きませんでした。ところがたまたま小学校5年生の時に、横浜スタジアムで開かれていた野球教室に行ったんです。そしたらそこでいきなり柵越え。初めてのホームランです。なんだ、打てたと思いました。そこから急にバットをボールに当てるイメージがつかめるようになりバンバン打てるようになりました。
――いきなりホームランを連打するようになったのはすごいですね。
ちょうど体ができてくるタイミングとも重なったんだと思います。小学校5年生で15センチ身長が伸びて、5年の夏休みが終わったぐらいには170センチを超えていました。
急にできるようになったのは野球だけではなくて、たとえば整理整頓なんかも、こうやったらできるんじゃないかと気づいて、できるようになりました。「何でもどうせ自分はできない」という自己暗示が解けたのかもしれません。ちゃんと野球を始めたのはそこからです。
それで毎週野球に行くようになりました。そのうち投球スピードもチームで一番速くなって、打順は4番か3番、ポジションはピッチャーかキャッチャーです。
――急に4番でエースですか。中学からもずっと野球部ですか。
少年野球のチームのみんなが野球部だったから僕も入ろうっていう感じでした。中学の時は、とにかく振ればホームラン。打球が練習場のネットを越えて外に出てしまうので、さらに上にネットを建ててもらって、当時は冨山ネットって言われました。でもそれも越えちゃったんですよ。
――中学でも4番でエースなんですね。
はい。ノーコンでしたが、とにかく球だけは速かったのでピッチャーでした。それで中学2年生の時に横浜高校から声をかけていただいて、高校は横浜高校に進学して野球部に入りました。
甲子園出場、大学野球、そして挫折
――精鋭ばかりの横浜高校野球部でも、すぐに活躍できたんですか?
初打席がいきなりホームランだったんです。サードフライだと思ったら「ホームランだよ」って言われて、硬式野球ってこんな簡単に飛んで行くんだって思いました。とにかくバットの芯に当てれば全部ヒットだから、こんな簡単でいいんだと驚きました。
でも野球部の練習はとてもキツかったです。もう嫌だ、どうやったら練習をサボれるかって、いつも思っていました。
――横浜高校で甲子園も出場したんですよね。
はい。でも横浜高校は強豪校ですから、甲子園出場は珍しくありません。ただ僕が在籍した時期はちょっと特殊で、1学年上に丹波慎也さんという横浜高校野球部史上最強と言われた天才ピッチャーがいたんです。でもその丹波さんがなんと在籍中に病気で亡くなってしまった。それで、部員一同が、丹波さんのために絶対甲子園に行くと誓い、一致団結して練習しました。
その時の練習はもう、苛烈なものでした。「甲子園に行きたい」とか「甲子園が夢」ではなく、絶対に行く。行くと決めた上で、そこに届くために何をするか。足りないなら練習し続ける。死ぬまで練習するっていう感じで。僕はそこで、体を壊してしまいました。
ですから僕、春の甲子園は応援団で行っているんです。その後すぐにチームに戻って関東大会の決勝では先発し、2年生の夏も甲子園に出たんです。とにかく丹波さんを甲子園に連れて行くことは実現した。試合が終わったとき丹波さんのお母さんが来てくれて「ありがとう」って言ってくれました。
――3年の夏には甲子園に行っていないんですか。
行ってないです。神奈川県大会の準決勝で横浜商業に負けました。うちのピッチャーはその時2年生だった松坂大輔。サヨナラ大暴投で終わった有名な試合です。
――その後プロを目指したのですか。
僕は日本のプロ野球よりアメリカの大リーグに行きたいと思っていて、まず大学野球に進みました。1年目は体づくりを一からやり直し、フォームも変えて、2年生からは出て投げていたんですが、その頃ついに肘と肩が壊れてしまったので、途中からは結構きつかったです。3年の時は、なんとか肘と肩をカバーしようとピッチングフォームを変え、抑え投手で入っていましたが、4年になった頃はもう全く投げられなくなってしまいました。
――酷使し過ぎたということですか。
そうですね。高校で投げ過ぎたのだと思います。下半身を使わず、腕だけで投げていたのが悪かったと思います。当時はそれでも140キロぐらいの球を投げていたので、周りは気づいていませんでした。故障した肩はあれから何十年経った今でも痛い状態です。
音楽に目覚める。ギターを手にして音楽活動を開始
――ところで音楽はいつごろから始めたんですか。
野球を断念した大学3年生の終わりか4年生かだったと思うんですが、野球部の後輩に誘われて、横浜の伊勢佐木町で路上ライブをやったんです。それがきっかけでした。
――それまでも、野球をしながらギターも弾いていたということですか。
いえ。まったく経験ないです。音楽に興味もありませんでした。その時はただ後輩が行きたいって言ったからついていっただけ。そいつはゆずが好きでギターをやっていた。ギターを弾くから歌ってくださいよって言うから、歌ってみたんです。そうしたらけっこう人が集まって。
――いきなりの路上ライブですか? そんなに急にできるんですか。
まぁ、僕は歌だけだったので。気軽にやってみたらお客さんが結構集まって。こんな世界があるのかと、衝撃的でした。
それで、もうそっちに行こうと。目立つしモテるかなという不純な動機です(笑)。「自分大好き人間」なので、野球じゃなくても目立てばよかったのかもしれません。それで野球を辞めて音楽を始めました。とはいえ野球を辞めるのは大変でした。いろんな大人の事情もあって多くの方を巻き込んでしまっていたので。
――逆に言えば、そのくらい固い決意で音楽を始めたわけですね。
はい。音楽やるなら最初から高いギターを買った方がいいって言われたので、ほとんど寝ずにバイトをして1本123万円のギターを買いました。でも、まだ弦の張り方もチューニングも分かんなかったんです(笑)。そこから曲を作り始めたわけです。
――誰かのカバーから始めたわけじゃないんですね。
歌うなら自分の曲だなと思いました。コードブックを見ながらギターの音を聴いて、いい音だなと思ったら、そこから曲を作っていく。コード進行もいろいろ覚える前に、もう曲を作っていました。
――音楽活動はその後どう展開していくんですか。
最初の相方は大学野球が残っているので野球に戻りました。その頃の伊勢佐木町って路上ライブの聖地って言われていて、そこにすごくギターが上手いヤツがいたので、彼と組んで「leaf of reason」というユニットを作りました。
基本的には相方が曲を作ってギターを弾いて僕が歌うという感じでした。最初はお客さんゼロからのスタートでしたが、毎日路上でライブをやったり、ストリートのアーティストを紹介する深夜のテレビ番組に出たり、そのコンテストで入賞したりして、なんとかデビュー直前までこぎ着けました。これから音楽事務所と契約というその日、相手先の駐車場に入ったところで相方が「俺、辞める」って。俺は一人でやった方がいいと思うって。デビューの曲が僕の作詞・作曲だったのが辛かったようでした。それで白紙に戻りました。
――デビュー目前で解散ですか! 残念ですね。
2人組みのユニットはそこで終わりましたが、その後leaf of reasonという名前は残してバンド形式で再スタートしました。またゼロスタートです。そこからまたいろんなライブハウスを回って、とにかく顔を出して覚えてもらって、2006年に出した「タイムアウトのない夏」というシングル曲が、テレビ神奈川の「高校野球速報」とFMヨコハマの高校野球情報コーナーのテーマソングに選ばれました。
――ついにバンドデビューですね。
はい。そうなるとワンマンで200人ぐらいお客さんが入るようになって、最終的には2000人規模のホールコンサートをやるところまで集客できるようになったんです。
ところが、そのタイミングでベーシストがあるトラブルを起こして抜け、そしてドラムも抜け、自分はその後始末をしているうちに鬱とパニック障害を発症してしまって、ステージに立つと倒れちゃうようになった。気づいたら病院にいたりとか。そのうちライブを見るだけでもダメになってしまいました。
――それでも音楽を辞めようと思わなかったんですか。
辞めようとは思わなかったですね。目立ちたかったから(笑)。自分は野球を辞めるとき、あれだけの人たちに迷惑をかけたので、これでデビューしないのはないなという思いもありました。
――現在はどういう音楽活動をしているのですか。
27、8の時にバンドは辞めて、そこからは主にソロで活動しています。現在210カ月以上連続で、毎月新横浜のLITというライブハウスで演奏しています。
「ああ、こんなに野球が好きだったんだ」
――今は再び野球をやられていますが、もう1度野球を始めるきっかけはなんだったのですか。
バンド時代に知り合ったFMヨコハマのプロデューサ-から誘われました。最初は野球をやっていたことを隠していたんですが、高校野球のテーマソングになったときに甲子園に出たことがあるのがバレちゃったんですよ。それでプロデューサーから「草野球やるから来てよ」「分かりました」って感じで、ある意味接待で野球をしたのが戻るきっかけになりました。
――草野球なら、当然そこでもう大活躍ですよね。
いや、ブランクと故障で全く投げられなかったです。もう塁間に球が届かなかったくらいです。草野球をバカにしてました。硬式と軟式の違いについていけなかったし、チームのレベルも高かったので全然通用しなかった。
でも草野球ってきつい練習があるわけでもなく、誰も教えてくれないので、自分で頑張るしかない。それで自分で答えを探していくうちに「ああ、こんなに野球が好きだったんだ」って気づいたんです。
――横浜高校の野球部時代に死ぬほど練習した野球とは、違う味わいがあるのですか。
草野球って、メンバーの年齢も違えば経歴も違うんです。学生の時の野球部とは全然違います。横浜高校野球部出身だからって慕ってくれる人もいれば、ムカつくって言ってくる人もいれば、全然そんなこと気にしない人もいて。その人間模様も草野球の楽しいところです。
指導者として「体を壊さない野球」を伝えたい
――冨山さんはその後、中学や高校の野球部の監督やコーチもされていますね。
はい。子どもに教えるのって本当に楽しいです。最初に携わったある中学の野球部は、練習を観に行ったらユニフォームすら着ていなかったんです。短パンと体操着でだらだら歩いてる。これは練習って言わないな、っていうところから教え始めました。なんでユニフォームを着なきゃいけないのか、から一つずつ噛み砕いて説明していったら、子どもたちはちゃんと理解してくれたんですよ。そして「これやってごらん。これやってごらん」って順を追ってやらせると、どんどん伸びていきました。2年生の秋から教え始めたんですけど、3年生のときには区で優勝、都大会に出場っていうところまでいきました。
――冨山さんの野球部時代のようにスパルタで教えたわけではないんですね。
全く違いますね。もっと理屈を教えて、どうしたらもっと楽しくなるかを説明していきました。というのも、僕自身高校の時から「そんな言い方じゃなくて、こう言ったほうが分かるんじゃないかな」って思っていた事が多かったですし、もともと教えること自体も結構好きでした。
それになにより、僕のように野球で体を壊してほしくないという思いが強くありました。選手って勝ちにこだわるから「もしかしてケガするかもしれない」ぐらいだったら「やらせてくれ」と言います。でもそれは絶対にやらせない。そうならないように采配したり指導したり、説得するのが指導者の仕事で、勝ちにこだわって選手を潰しちゃうのは指導者として僕はアウトだと思っています。
とにかく野球ってこんなに楽しいんだから、できるだけ長く野球を楽しんでもらいたいんです。そのためには野球の練習や試合でのケガのリスクを限りなく小さくする。無理は絶対にさせませんし、理学療法士やトレーナーも必ず用意します。
――高校でも監督をされたんですね。
はい。その高校も5年連続で1回戦負けというチームでした。ピッチャーのコーチとして指導したあとで監督になって、東京都のベスト16まで行ける高校になりました。
今は学校の監督はやっていなくて、草野球チームの監督をしています。この草野球の監督も自分にとってはいい経験になっています。草野球って中学や高校の野球部のように毎日練習できるわけではありません。年齢も18歳から50歳代までまちまちで、経験も体力も違います。でもみんな野球が好きで一所懸命やっている。こういうメンバーと話をしていると、僕としても教わることがすごくあるんです。
野球でも音楽でも、全ての人に笑顔を
――冨山さんが野球を通じて実現したいことってありますか。
僕は野球でも音楽でも、よく「笑顔の連鎖」と言っています。自分の笑顔が誰かに伝わって、その誰かの笑顔が誰かに伝わって、それで世界を救いたいと、わりと本気で思ってるんです。
自分たちが野球の試合で勝てばうれしいから笑顔になりますよね。でも相手は負けてる。その相手をどうやったら笑顔にできるんだろうって考える。
僕が教えていた中学生のチームの子が、ある試合でホームランを打ったんです。そうしたら打たれた相手のピッチャーがマウンドで笑ったんです。保護者の方も「ありがとう」って言ってきてくれた。負けたけど納得できた、いい相手といい試合ができた、だから笑顔になってくれた。そこまでのチームになれたことがすごくうれしかった。そのくらいのレベルを目指したいと思っています。
――音楽でも笑顔、ですね。
はい。今自分が音楽をやっている理由は、僕の音楽を聴いてくれた人が「よかった」と思ってくれたり笑顔になってくれること。それは最初から変わりません。できればそれがまた誰かに伝わって笑顔が連鎖すればいいなと思っています。
――最後に冨山さんが実現したい「夢」を教えてください。
まず音楽と野球が重なった部分で言うと、いま監督をやっている草野球チーム「アペックス」のメンバー全員、マネージャーも含めた26人分の曲を作りたいです。そしてその曲をアペックス のYouTubeチャンネルを使って広めていきたいと思っています。これってさっき言った「笑顔の連鎖」につながっていて、こういうチームいいな、そういうチームを目指したいな、と言われるようになりたいんですね。それが唯一自分ができる野球と音楽をつなぐ道だと思っています。野球の夢としては、いつか高校野球の監督になって甲子園に出たいという思いもあります。その前にまず、このアペックスを常勝チームにしたいと思ってみんなと頑張っています。
――「ずっと楽しめるようにケガをしない野球をさせたい」という冨山さんの言葉は、無理な練習で体を壊してしまっただけに重みがあります。一方、ライブでの冨山さんはハッピーの伝道者のようなステージを見せてくれました。音楽と野球で笑顔を広めたいという冨山さんの八面六臂の活躍、これからも応援したいと思います。
取材協力:
草野球チーム Apex(アペックス)
LIVE HOUSE & BAR 新横浜LIT
※記事の情報は2020年12月11日時点のものです。
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【PROFILE】
冨山 議慎 (とみやま かたみつ)
1979 年生まれ。小学校5年生で野球を始める。横浜高校入学、硬式野球部入部。1年生の秋から投手としてベンチ入り。高校2年の夏に甲子園出場。関東学院大学に進み、硬式野球部に投手として入部。1年の春からベンチ入り。大学通算16勝4敗4セーブ。春3回、秋2回の神奈川リーグ制覇、神宮大会に3回出場。シダックス硬式野球部にセレクション合格するも怪我に悩まされ野球の現役を断念。大学在学時から作詞作曲を始め、ミュージシャンとしても活動。以後、音楽活動を続けながら、都内の中学校野球部監督、高校野球部監督などを務める。現在、横浜市を拠点に活動する草野球チーム「アペックス」を率いて、監督兼選手として活動している。
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