ピアニストに寄り添って楽器を診る「調律師」という仕事

FEB 13, 2019

大橋宏文さん ピアノ調律師〈インタビュー〉 ピアニストに寄り添って楽器を診る「調律師」という仕事

FEB 13, 2019

大橋宏文さん ピアノ調律師〈インタビュー〉 ピアニストに寄り添って楽器を診る「調律師」という仕事 プロを支えるプロの仕事。第1回は「ピアノ調律師」です。華やかなコンサートの裏側で繰り広げられるドラマ。知っているようで実は知らない調律の世界について、ピアノ調律の第一人者、松尾楽器商会の大橋宏文さんにお話をうかがいました。

サッカー少年、調律師をめざす。

―― まずは、調律師というお仕事に就くまでについて、うかがいたいと思います。やはり、小さいころからピアノに親しんでいたのですか。

子供のころ、家に古いアップライトピアノがありました。ピアノ教師をやっていた叔母から譲り受けたんです。私も4歳のときから半ば強制的にピアノを習わされましたが、小学6年生で辞めました。へ音記号がどうしてもわからなかったんですね(笑)。今まで「ミ」だったものがどうして「ソ」になるのか理解できなくて。中学と高校ではずっと部活動でサッカーをやっていたので、ピアノは、好きなビリー・ジョエルの曲を弾いたり、クラスメートに頼まれて合唱祭の伴奏をしたりするだけになっていました。


―― 調律師になろうと思ったきっかけは何だったのでしょう。

進学しようかどうしようかと考えはじめたとき、「おまえは性格的に大企業で営業職になるのは無理そうだから手に職をつけろ」と父に言われたんです。それで叔母が「ピアノを習ってたころ良い音を出してた」などと言い出して、調律師に向いているんじゃないかという話になったんですね。私は、そういう職業があることも知らなかった。それでもピアノの調律師という名前の響きがすごくカッコイイので、やってみようかなと思うようになりました。

ピアノの調律師という名前の響きがすごくカッコイイので、やってみようかなと思うようになりました。


―― その後、調律師の勉強をはじめたのですか。


はい、調律師を養成する学校に入りました。養成所に入るためには、音感の試験があって、それがダメだったらあきらめようと思っていました。試験は三つの電子音を聴いて一番高い音はどれか当てるというような問題でした。はじめのうちは誰が聴いてもわかるような差なんですが、だんだん難しくなって、最後は2セント(半音の100分の2)くらいの差の、ほとんど同じような音が出題されるんです。わかった気もするかなあ、という程度の差です。その他にも、調律が合っているかどうかを聴き分けるテストなどがありました。試験の成績は良かったみたいです。



養成所で朝から晩まで、ひたすら調律。

―― それで合格して、調律の学校に入学したんですね。

静岡県の浜松にある全寮制の調律師の養成所です。1年間勉強しました。朝早く寮からバスに乗せられて30分かけて養成所に行きます。そこで朝7時からバスが迎えにくる夕方6時まで、ずっと調律です。一台分の鍵盤は88、弦は全部で240本くらいありますが、午前中は、その全部のピッチを高めに合わせたり、低めに合わせたり。これを毎日やります。最初の日はひとつの音をまともに合わせるだけで何時間もかかりました。今の私たちは1台を2時間くらいで調律しますが、最初の1台は何日もかかりました。アップライトピアノは立って調律しますが、これが不自然な姿勢で、チューニングハンマーという専用の道具を使ってひたすらピンを回し続けるわけです。鍵盤を叩くほうの左手の指も、調律中はずっと叩き続けるので、もう叩けないというくらい痛くなってくるんです。

―― 大変な思いをしても、ぴったり調律できた時はきっと気持ち良いですよね。

いいえ......これで本当に完成なのかなあ、という感じでした。ピアノの調律は、周波数を物理的に区切った値に合わせればいいのではなく、高いほうの音は40セント以上高く、低い音は15セントから20セントぐらい低い音程に調律します。

ピアノの調律は、周波数を物理的に区切った値に合わせればいいのではなく、高いほうの音は40セント以上高く、低い音は15セントから20セントぐらい低い音程に調律します。


―― 40セントというと半音の半分弱。そんなに高くしてるんですね。

不思議なことに、そうしないと人間の耳には合っているように聴こえないんです。これの理想的な指標というのがあって、学校ではそれに近づける訓練をするんですが、その指標というのが、人間の耳に心地良く聴こえる音の統計をとって「この辺だよね」と表したもので、けっこう曖昧なものです。学校の調律の点数はその指標に近ければ良い。ピアノを弾いてみるということはしないんです。私はいつも成績が良いほうだったんですが、誰もピアノを弾かないのに点数が決まるので、これでいいのかなあといつも思っていました。



一度の失敗で挫折、そして再出発。

―― 養成所を成績優秀で卒業して、その後はすぐに調律師として活躍したのですか。

いきなり挫折しました(笑)。養成所を卒業してから、はじめは東京の田園調布にあるピアノ調律センターに就職したんですが、初仕事でお客さんの家に出かけて調律をしたとき、3時間かけてもぜんぜん仕上がらなかったんです。それで会社に「終わりません」と電話しました。急遽かけつけた先輩が調律を終わらせてくれました。いまでも憶えていますよ。田園調布のあたりの大きなお宅でした。私はその時パニックになっていて、出してくれたケーキを皿から転げ落としてしまったのですが、その光景は忘れられません。ピアノの製造番号までも、いまだに憶えています。

一度の失敗で挫折、そして再出発。
―― その失敗から立ち直って、今があるわけですか。


いえ、その一回だけで調律はやめちゃったんです。自分から志願して会社にあった、古いピアノを修理する部門に異動させてもらいました。小さな部品をガーゼで拭いたりする仕事です。そして結局、その会社は2年で退職しました。学校で成績が良かったから余計に精神的なダメージを受けたのかもしれません。その後は居酒屋でバイトしました。カラオケがある店で、ちょっと歌ったら評判になったりして(笑)。3ヶ月くらいやりましたが、やはり自分には飲食業は向いてないと思って辞めました。


―― それからどうされたのですか。


バイトを辞めた後なにげなく見ていた音楽雑誌で、スタインウェイ・アンド・サンズの広告を見たんです。「世界の逸品」と書かれていました。この言葉を見てなぜか、いても立ってもいられなくなって、調律師を募集していたわけでもないのに、当時浜松町にあった会社まで押しかけました。ビルのすぐ横の電話ボックスから「今すぐ行っていいですか」って電話したら、「どうぞ」と言われたので、とりあえず近くの文房具店で履歴書用紙を買ってきて、書いて訪ねました。写真が貼ってなかったので「そこで撮ってきて」と場所を教えてくれて、写真を貼ってもう一度戻って面接です。なんか変わったのが来たよってことでしょうか、採用されました。試験もありませんでした。それが私とスタインウェイとの出会いです。後で聞いたら、求人などしなくても調律師の応募者はひっきりなしだったそうです。

後で聞いたら、求人などしなくても調律師の応募者はひっきりなしだったそうです。


―― 採用された直後から調律の仕事をしたんですか。


はい。それまでのブランクもなぜか克服できました。調律は自転車に乗るようなもので、いちど覚えればできるようです。不思議なことに、ここでは最初の挫折のトラウマも感じなかったんです。ただ入ってから2年間は研修期間で、その間に正式に雇ってもらえるかどうかが決まります。研修期間中は、社内でピアノを完全に分解してまた全部組み立て直す、ということもやりましたが、そのお陰でピアノの仕組みがよくわかりました。仕事を始めて1年半くらい経ったときに「ところで私は雇ってもらえるんでしょうか」って聞いたら「あーごめん忘れてた」と言われて、正社員になれました。



レの♯とミの♭の違いを表現する繊細な技。

―― 実際の調律では、どんなことをするのでしょうか。


私たちの仕事は、三つの段階に分かれています。まず「調律」です。調律は、はじめに基準となる真ん中の「ラ」の音を442ヘルツに合わせます。私は今はスマホにも入っているピッチメーカーを使いますが、今でも音叉を使っている人もいます。その先は全部耳で合わせます。音同士を比較しながら、これに対してこっちがどの高さにあるのか、さらにその次はと、自分の耳を頼りに進めていきます。2時間もらったとしたら、この音程を合わせる「調律」という作業に1時間10分か15分くらいかけます。

レの♯とミの♭の違いを表現する繊細な技。


―― その後はどうするのですか。


残りの45分でやるのが「整調」と「整音」です。「整調」は、いわゆる「タッチ」を整える作業です。タッチというのは、鍵盤の重い軽いだけではありません。ピアノは「てこ」の原理で動いていて、鍵盤を10ミリ押し下げると、先のほうに付いている音を出すハンマーがだいたい5倍持ち上がります。その過程に何段階ものカラクリがあって、その全部がタッチに関係してきます。弾く人によって、後のほうに重みが欲しい人と、早めに重みが欲しい人など、けっこう好みが分かれますよ。

もうひとつの「整音」は、弦を叩くハンマーの打面の硬さを調整する作業です。ハンマーはフェルトでできていますが、あまり硬いと壁を叩くようなコンコンした音色になってしまう。そういうときにはピッカーという先端に針のついた道具を刺してほぐします。これも、硬い音が好きな人もいれば、柔らかい音が好きな人もいます。これを全部のハンマーに対して行います。


―― 調律ではピアニストからの具体的な要求も出るのでしょうか。


具体的な指示がある方もいますが、禅問答みたいなことを言う方もいます。よくあるのが「調律が硬い」「音程が変わらない」というものです。たとえば黒鍵の「レの♯(シャープ)」は「ミの♭(フラット)」でもあるんですが、「黒鍵が全部シャープでフラットがない」なんて言われたりします。同じ鍵盤を弾いていても、レのシャープとして弾く場合と、ミのフラットとしてこの音を弾く場合とでは違った音に聴こえなければならない。フラットの記号が書かれた音は、シャープの音ではいけないんです。

具体的な指示がある方もいますが、禅問答みたいなことを言う方もいます。


―― レのシャープはミのフラットと微妙に違うということですか。バイオリンや管楽器ならできるかもしれませんが、鍵盤を叩くしかないピアノで、どうやって違いを出すんですか。


ピアノの場合、ひとつの鍵盤を弾くと3本の弦を叩きますが、この3本を、真ん中はピッタリと合わせつつ、左の弦と右の弦は微妙に音程をずらして調律します。メーターでは出ないぐらいのわずかな違いですが。ピアニストは打鍵のスピードや力の入れかたを変えて、3本の弦の音程の微細な違いを上手に使って、音の世界を広げるんです。



コンサートに帯同し、演奏者のメンタルケアも。

―― ピアノのコンサートには、必ず調律師の人が必要なのですよね。


はい。私たちは調律道具を持って、日本中の会場を回ります。たいていピアニストが来てリハーサルを始める2時間前には会場に入って、調律をやります。会場を早く開けていただければ、もっと前に入ります。その後も、リハーサル中はそばにいて調整し、本番のときもずっと会場にいます。本番中にライトの熱でピアノの音程が微妙に変わってしまうこともありますので、途中休憩のときに「ちょっと鍵盤を拭いてきます」と言って調律を確認することもあります。ピアニストはそんな私を信頼し、顔を見て安心してくれるわけです。私のほうは自分が調律したコンサートのときはピアノが心配なので、あれこれ心配で音楽を味わう余裕はなく、コンサートが終わるとぐったりしてしまいます。


―― コンサート前のピアニストはみなさん緊張されているのでしょうか。


見るからに繊細なピアニストもいれば、全然そう見えなくても出る間際になると緊張する人もいます。また調律師としてしゃべってあげたほうが喜ぶ方もいれば、こちらからは話しかけないけれど振り向いたときに私がいると安心する方などいろいろです。調律師への指示にも変わったものがあって、たとえば「鍵盤の幅が狭い気がする」と言われたことがあります。このときはピアノに当たるライトの位置を変えてもらいました。また指示をしてすぐにステージからいなくなり、5分くらいして戻ってきてピアノを弾いて「そうそう、こんな感じ」と納得した方もいました。でも、実はその間、私は何もしなかったのです。まさにメンタルケアです。調律に関してはピアニストの言葉を鵜呑みにして作業することはありません。自分で楽器をちゃんとみて、「これは確かに言ってる通りだぞ」「これはそうでもないな」と判断します

自分で楽器をちゃんとみて、「これは確かに言ってる通りだぞ」「これはそうでもないな」と判断します。

―― 調律の仕上がりは調律師によってかなり違うものなのでしょうか。


やはりひとりひとり仕上がりが微妙に違います。人によっては「これが私の調律だ」という調律をされる方もいますが、私は演奏者の音楽を大事にしたいので、なるべく自分を出さないようにしたいと思っています。なんにもクセがなくてすごく感じがいいから私の調律だとわかるような、そういう仕上がりが理想です。




自分自身も癒される、音楽の仕事。

―― 調律の仕事を通じて記憶に残るエピソードはありますか。


精神的にものすごく弱っているピアニストを担当したことがありました。10公演くらい同行したんですが、その人は、本番で弾いてる途中にまったく同じところで止まってしまうんです。完璧に弾ける人なのに。会場に来てもそこだけずっと練習してるんですよ。それでも本番になると止まっちゃう。それで私もいたたまれなくなって病んでしまいました。あれは辛かったですね。

あるとき、別のピアニストですが、その方がその一連の出来事を知って、私が同行した自分のコンサートのときに、アンコールで、私の大好きなシューマンの『子どもの情景』の 第13曲「詩人は語る」という短い曲を弾いてくれたんです。演奏会はオーケストラと一緒のピアノコンチェルトだったからその曲は全然関係なくて、みんな「何これ、何でこの曲なの」っていう雰囲気でしたが、私のためだけにこの曲を弾いてくれました。裏で泣いちゃいましたよ。そういうふうに、自分がピアニストに寄り添うだけじゃなく、私自身が音楽を通してケアしてもらうこともあります。

自分がピアニストに寄り添うだけじゃなく、私自身が音楽を通してケアしてもらうこともあります。


―― 今後、ピアノに関してやってみたいことはありますか。


ピアノの販売という観点からは外れてしまいますが、ピアノのレンタルができたら良いと思いますね。ものすごくきちんと整備して調律したピアノを何台か用意して、ホールやピアニストに合わせて最良のピアノをコンサートで弾いてもらうんです。それから、日本中にある、今は使われていないピアノ、たくさんあると思うんです。そんなピアノを整備して、また使えるようにしたいとも思っています。不要なものは引き取って綺麗にクリーニングして、ハンマーなども自分がいいと思うものに交換して、ピアノが弾きたいという方に届けられたらいいと思っています。


ピアノへの愛情があふれる大橋さんに、調律の世界のたいへん興味深いお話をうかがうことができました。今日はどうもありがとうございました。



株式会社 松尾楽器商会
http://www.h-matsuo.co.jp

昭和28年(1953年)創業、スタインウェイピアノ関東地区正規特約店。スタインウェイ創業以来の哲学と独創的なシステムを学び、高い技術力を生かしてサービスや音楽・文化活動を展開している。H.Matsuo's Showroom Tokyo(日比谷ショールーム)にはスタインウェイピアノ主要機種のほか、ライオン&ヒーリー社のハープなど、 世界の逸品と呼ぶに相応しい楽器を常設展示。「松尾ホール」では、ピアノソロリサイタル、フルコンサート、デュオコンサート、アンサンブルコンサートなど、年間およそ200回のイベントが開催されている。


※記事の情報は2019年2月13日時点のものです。

  • プロフィール画像 大橋宏文さん ピアノ調律師〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    大橋宏文(おおはし・ひろぶみ)

    1966年東京生まれ。うお座のO型。中学、高校とサッカー部。高校2年生のとき、クラシック好きの父親からの勧めでピアノ調律師を志す。1994年1月~7月、スタインウェイハンブルク工場研修、2009年、セオドア・スタインウェイアカデミー認定証取得。現在は松尾楽器商会技術部に所属し、国内外の著名ピアニストの公演で調律を担当。好きな言葉は「慌てず急げ」。

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