刻々と生まれ、組み変わりながら生成を続ける。その状況がファッションというアクション

MAR 17, 2020

津村耕佑さん ファッションデザイナー、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授〈インタビュー〉 刻々と生まれ、組み変わりながら生成を続ける。その状況がファッションというアクション

MAR 17, 2020

津村耕佑さん ファッションデザイナー、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授〈インタビュー〉 刻々と生まれ、組み変わりながら生成を続ける。その状況がファッションというアクション 創造する人へのインタビュー。ご登場いただいたのはファッションデザイナーで武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授の津村耕佑さんです。津村さんは90年代初頭に発表したブランド「FINAL HOME」(ファイナルホーム)や「KOSUKE TSUMURA」(コウスケツムラ)のデザイナーとして一躍脚光を浴び、現在も個展やアート教育など、精力的に活動をされています。2020年1月某日、武蔵野美術大学の卒業制作展覧会にお邪魔してお話をうかがってきました。インタビュー【前編】では津村さんのクリエイションの源泉やファッションの魅力について語っていただきます。(カバー写真:津村耕佑「鱗と神経」展にて)

自分の服を気にする子どもだった

自分の服を気にする子どもだった。
――ファッションデザイナーを目指したきっかけを教えてください。

高校生のころ応援団をやっていたんですけど、応援団ってスポーツというわけではなく、特別何かの技術を学ぶってことでもない。あれが多分、僕がファッション好きだったことの表れというか、始まりだと思う。当時ちょっとヤンキーっぽいのが流行りで、変形学生服とか、ああいう髪型をするのは応援団だったら唯一、おおっぴらに許される部活動だった。

その特別な変形学生服を作っているお店が世田谷区の豪徳寺にあって、当時住んでいた埼玉からわざわざそこまで作りに行って、オーダーした記憶があるんですよ。そもそも子どもの頃からファッション、自分の服を気にする子どもだった自覚はあって、高校時代に応援団に入ったことで日常的に追求していくようになった。

おしゃれやファッションが好きだったからいろいろと自分なりにアレンジしていたけど、後からやってくる子たちがお金にあかせてどんどん真似していくわけですよ。そうすると自分のオリジナリティがなかなか発揮できなくなってきた。それで悩んでいたら、どうもファッションデザイナーという職業があるらしい、ということを初めて知りました。じゃあファッションデザイナーになるのが一番いいなって。そのためには「装苑賞」という賞があって、それを獲ればファッションデザイナーになれるって信じて、ひたすらそれに打ち込みました。

――装苑賞はファッションデザイナーになる登竜門的な存在なのでしょうか。

今はいろいろあると思うけど、当時はそれしか知らなかった。普通に就職してっていうんじゃなくて、デザイナーとしてパリコレクションや世界的なコレクションに出るという、華やかな世界以外は興味がなかったんです。

――高校卒業後は専門学校の東京デザイナー学院へ入学されたのですよね。

そう。高校3年生の時からすでに賞の候補には入っていて、でき上がった洋服を装苑賞を主催する文化出版局に届けに行ったら、文化服装学院の学生たちがワイワイと派手な感じで騒いでいるんです。それを見たらアウェーな感じを受けてしまって、この学校には行きたくないなと思った(笑)。

装苑賞を獲るには文化服装学院に行くっていうセオリーがあったから、それにも反発心があった。そうじゃないところで獲ったほうがかっこいいかなって。それまで文化服装学院に行っていなくて賞をったのは、僕の数年前に賞を獲った山本寛斎さんだけだった。

2019.11.22~12.22 Meets by NADiff (渋谷PARCO) 津村耕佑「鱗と神経」展2019.11.22~12.22 Meets by NADiff (渋谷PARCO) 津村耕佑「鱗と神経」展

 

装苑賞からブランドデビューまで

――見事1982年に装苑賞を受賞されて、1983年に三宅デザイン事務所に入社されました。三宅一生さんの下で、早くからご自身のブランドを作りたいと思っていたのでしょうか。

三宅一生さんの事務所では主にパリコレクションに関わるデザインを担当していました。自分自身のブランドをすぐ立ち上げるよりも、その前にファッション以外の作品の個展などをいろいろやりたいと思って、一生さんにプレゼンテーションしていたんですよ。そうしたら一生さんが話しを聞いてくれて、ギャラリーを紹介してくれたり、いろいろな機会を作ってくれた。ファッション以外のことでも、そういう場所で発見したテクニックがコレクションに生きるからと、許されていたのもあった。

――個展ではなにを展示されていたのですか。

絵やオブジェを展示しました。そうやって手作りで活動していたら、ある時、西麻布にあったイエローというクラブでファッションショーをやらないかって声がかかったんです。取材も入るから、そこでファッションショーをやれば目にとまるかもしれないって。そういう自分自身のストーリーが自然に起こって、それが後々ブランド化していった。だから計画的にブランドを作って、ビジネスをやるっていう流れではなかったです。

――そういった流れでブランドができるのは珍しかったのでしょうか。

普通はやっぱり「ブランドを作ろう」と決めてから始まることが多いと思います。でも僕の場合は衝動から始まった。商品は市場にのりやすいもので、「K-ZELL」(ケイゼル)というブランドと「FINAL HOME」(ファイナルホーム)をほぼ同時に作った。FINAL HOMEはもともとコートの名前だったのをそのままブランドにしちゃったから、ある意味そこでコンセプト的に完結してしまっていたので、それを回収するためにK-ZELLというブランドを立ち上げた。K-ZELLはその時その時に自分が思いついたことをやるというものでした。

HOW TO USE FINAL HOME - HOME1




クッションからヒント。FINAL HOME誕生秘話

――FINAL HOMEは津村さんの代表的な作品ですが、影響力が大きかったですよね。

当時、地球環境問題が浮上するタイミングだったんです。映画でいうと「スターウォーズ」や「ブレードランナー」。コミックでは「AKIRA」。ディストピアやサイバーパンクといったイメージが表出していた、そんな時流とマッチしたのが注目された理由だと思います。ちょうどニューヨークやロンドンで「ストリート」が注目されだした頃でもあり、若者の失業者が多かった時代です。若者たちが作ったモノを発表する場所がストリートだった。

そうやってストリートが盛り上がってきた頃、かたやファッション界では依然としてハイソサイエティのパリコレクションもあった。でもそっちは美意識が過剰すぎて、だんだんと僕らにはリアリティが感じられなくなり、むしろストリートのほうに共感することが増えてきた。FINAL HOMEのコンセプトだった「ポケットにゴミを詰めて暖まる」といったエレガンスとは全く切り口が違う表現も、ストリートのならではのリアリティとして広まった。たぶん時代に合っていたんです。その環境問題は現在も引きずっていて、今やルイ・ヴィトンのようなハイブランドでもストリートの感覚を入れざるを得なくなってる。そういう意味でも再注目されることはあります。

――FINAL HOMEは「究極の家」というコンセプトで、ポケットがたくさんついていますね。ホームレスや難民など、家を持たない人が移動する時に生活必需品を入れることができますが、こうした機能的な面がコンセプトとして先にあり、それを形に落とし込んだのでしょうか?

いやそうじゃなくて、始まりはクッションなんですよ。クッションはジップをあけて中の綿を出すと袋だけになる。それをつなげたら服になるなってふと思ったんです。労力を少なく、合理的に作る方法を考えてから、形になったらそれにはどういう機能があるのかって後から考えたんです。

完成形が見えたとき、社会問題とつなげられるなと思った。僕の作品はコンセプトありき、コンセプチュアルだと思われがちだけど意外とそうではなくて、わりとエモーショナルに進んでいって、どこかでピンとくるものに出合って、後からコンセプトづけをしていく感じです。

新宿歌舞伎町(当時のコマ劇場前)にて Photo:Mitsuru Mizutani HM:Tadashi Takahasi新宿歌舞伎町(当時のコマ劇場前)にて Photo:Mitsuru Mizutani HM:Tadashi Takahasi
 

――クッションに目を向けたのは何がきっかけだったんですか。

たまたま友だちの家に行ったらクッションがあって、見ていたらこれってどういうものなのかなって思ったんです。ジップを開けたら中身が出るけど、中身は地味なのに周りのゴブラン織りの布のおかげですごく豪華に見える。

カバーされるだけで豪華に見えるのって、外側だけの問題でしょ。それってファッションじゃないですか。クッションという機能面でいえば中身が大事なのに、外側だけが重視されるというか。ということは中身を変えてみればいいのか? って。

――なるほど。

だからポケット、中身にはあなたの好きなものを入れてくださいっていう、ある種すごくアイロニカルな、ファッションの反転みたいなことですね。たとえば寒い時は、ポケットに新聞紙とか紙のゴミを詰めたら暖がとれるから、今あなたに必要なのはゴミです、ゴミで守られますという。



想像力さえあれば「日常にあるもの」は何にでも使える

――使い方が着る人に委ねられるところに自由さを感じます。服を作った時点では完成されてないというか、そこから先は着る人が好きにやってくださいというスタンスなんですね。

考えてみると服って、服そのものでは完結しませんよね。着られることで初めて服になる。着る人が変わるともう全部が変わる。着る場所でも変わるし、光でも見え方が変わる。だからデザイナーが「これが最高っていう状況」は作れないわけです。使われていくものだから。

そのように事前に完成形を決めるっていうのは事実上不可能だから、明け渡していくっていうスタンスになる。人に委ねると、自分が思ったことと全く違うことをやってくれる。それを見て、そういう表現や解釈があるんだなともう一回びっくりできる。それが楽しい。

――FINAL HOMEは1994年に発表されましたが、環境問題は深刻化し、災害も増えているように思います。いま見ると何か普遍的なもの、メッセージを感じました。

でもFINAL HOMEはサバイバルウエアじゃない。サバイバルウエアだとその時しか機能しなくなるから。FINAL HOMEは日常的にファッションとして着られるけど、いざという時はサバイバルウエアとしても機能するっていうことにしています。日常とかけ離れてはダメ。

想像力があれば、いざという時は何でもできると思うんですよ。たとえば東日本大震災の時、東京ディズニーランドではスタッフたちが、頭をカバーしてくださいって、お客さんにぬいぐるみを渡したことがあったそうです。

見た目的には、頭の上にぬいぐるみを置いていることは、もうファッションです。同時にいざという時にモノが落ちてくるのをカバーしているという意味では機能してる。ぬいぐるみの新しい使い方がそこにあります。想像力があれば日常にあるものがなんとでも使えることは、デザイナーがいちいち言わなくてもいい。人間は本来そういう風に生活してきたはずで、そこに気づくことが、ファッションなのです。

でも、今はあまりにもいろんなものの機能があらかじめ決まってしまっています。便利が先立ってしまって、自由な発想や想像力が失われつつある。そうじゃなくても使えますよっていうメッセージを伝えたい。



日常的に見向きもされないようなものに興味がある

YKK漁網用ファスナーを使用した作品 Photo:Mitsuru Mizutani HM:Tadashi TakahasiYKK漁網用ファスナーを使用した作品 Photo:Mitsuru Mizutani HM:Tadashi Takahasi


――津村さんは、たとえば「漁網」といったような、およそ服とは関係ない素材を使った作品を作っていますが、そういった素材はどこから見つけてくるのでしょうか。

こういう網は、獲った魚を出す時に、ジッパーをばっとあけて出すわけ。潮風とか海水に負けないために、巨大で錆びないプラスチックのジッパーが使われていて、それがとても面白いと思った。

そもそも世の中に服地というものは存在してなかったんです。デニムだってもともとは帆船用の帆布だったし。ある状況下で洋服用の生地になっただけで、服地としてなんでもカバーできるオールマイティな素材ってたぶんないんですよ。

もともと服地じゃない素材、機能を発見するっていうのも新しいクリエイションには有効で、時にそれは縫えなかったりもするから、つなぎ合わせる技法を考えなくちゃいけない。それが新しい技術開発にもつながります。縫うだけの時代から、今は接着というものも出てきた。あまり硬くならずにつけられる新しい接着剤が開発されれば、紙工作をやっているみたいに洋服が作れるようになるわけです。そういった技術との組み合わせも面白い。

――コレだ!とピンとくる素材を発見する瞬間ってどんな時なんですか。

日常的に人に見向きもされないようなものに興味があるかもしれない。フェティシズムというか。これはパンチカーペットを使ってます。

パンチカーペットを使用した作品 Photo:Mitsuru Mizutaniパンチカーペットを使用した作品 Photo:Mitsuru Mizutani


――パンチカーペットってなんですか?


オフィスなどの床に敷いてある、四角くて安いカーペットです。昔からなじみがあるのはウールのカーペットだけど、そのウールに似せる技術ができて生まれた、ようするにフェイクのウールカーペットです。フェイクにも生まれた理由があって、フェイクならではの素材の特性がある。

僕の場合は、バーナーで焼いて溶かして普通のウールじゃない特性を現します。溶かすと表面の毛がなくなって、下のプラスチックの原料が現れて固くなるんですよ。本当のウールだったら燃えるけどそんなに溶けないし、ケミカルな物質は出てこない。

我々は見た目がウールっぽく見えたら、日常的にウールだと思って接していて、ある種騙されて暮らしています。そこで熱を加えて変化させることで本性を現すというか、むき出しにして実はそういうものに囲まれて暮らしているんですよ、ということをメッセージできる。そういった素材を選んだりします。



心動かされるものが表出した瞬間に、ファッションが生まれる

――外側ではなく本質をむき出しにする、ファッションというよりアート的なものにも思えます。

いや、その感覚はファッションにもあって、マルジェラだったら裏表逆にしたジャケットを作ったり、わざと切りっぱなしにしていたりと、刺激的な表現はたくさんあると思うんですよ。その刺激をある人は毛嫌いするかもしれないけど、ある人にとっては美につながる。むき出しの、ハッとするようなカッティングエッジを見せるのもファッションです。

――お話をうかがっていると、ファッションというのは単なる表層ではなく、流動的に絶えず変化しているものだと感じます。著書の「賞味無限: アート以前ファッション以後」でも「ファッションはアクション」とおっしゃっていました。

服を作ることがファッションを作っていることだと思うかもしれないけど、実は服という物質を作っているだけだから、ファッションになっているかどうかは分からない。ファッションだと思う瞬間というのは、服を作った状態じゃなくて、どういうふうに表現されたか、伝わったかにしか現れないと思うんですよ。

たとえば、女優のニットを羽織る所作が美しいと誰かが思ったとしたら、そこにはもう瞬間的にファッションが生まれていて、カメラがそれを伝えて、それを見た人が美しいと感動して同じようなニットを買ったり、所作を真似したり。そうやって伝わることもファッションです。それが流行として完成したら初めて「ファッションが起こった」ということになる。

あらゆる物事は、状況次第で絶えず変わる。美しいもの、心が動かされるものが表出した瞬間は、「ファッションが発生した」と言っていいのかなと思う。刻々と新たに生まれ、組み変えて生成し続ける、その状況がファッションというアクションです。


※記事の情報は2020年3月17日時点のものです。


後編に続く



賞味無限: アート以前ファッション以後(武蔵野美術大学出版局)

  • プロフィール画像 津村耕佑さん ファッションデザイナー、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授〈インタビュー〉

    【PROFILE】

    津村耕佑(つむら・こうすけ)
    ‘83年三宅デザイン事務所入社、'94年FINAL HOME発表、'94年パリコレクション初参加、'97年ロンドンファッションウィーク初参加、'07年THIS PLAY展(21_21DESIGN SITE)アートディレクション、'14年いろは展(東京ミッドタウンデザインハブ)総合ディレクション、'15年独立、FINAL HOMEプロジェクト主宰。

    主な個展:'86年「津村耕佑展」(佐賀町エキジビットスペース)、'92年「Regard de Meduse」(青山スパイラルガーデン)、'93年「JACKET /JACKETS」(プラスマイナスギャラリー)、「INCOMER」(YKK R&Dセンター)、'94年「津村耕佑1994」(MDSギャラリー)、'08年「夢神/MUZIN」、'10年「MODElessCODE」(NANZUKAUNDERGROUND)、'13年「フィロソフィカル ファッション1」(金沢21世紀美術館)など。

    受賞歴:'82年「第52回装苑賞」受賞、'92年「第21回現代日本美術展」準大賞受賞、'94年「第12回毎日ファッション大賞」新人賞・資生堂奨励賞受賞、'01年「織部賞」受賞。
    日本文化デザインフォーラム会員
    神戸ファッション大賞審査員

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