【連載】仲間と家族と。
2019.06.04
ペンネーム:熱帯夜
T君が教えてくれたこと
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
私は、社会人歴28年である。今年の4月に29年目に突入した。新卒で入社したのが広告会社。そして2年前の転職を経て現在に至る。いまも担当は広告宣伝や広報なので、そうした仕事に一貫して従事していることになる。
広告会社は長らく、メディア、特に4マス媒体と言われたテレビ、ラジオ、新聞、雑誌の広告枠を得意先に売ったときのコミッションつまり手数料が利益の源泉だった。よっていかに良いメディアを仕入れるかが広告会社の良し悪しのバロメーターのようなところがあった。
私も営業に従事するのがほとんどだったので、得意先の商品やサービスのターゲットにヒットする広告枠を必死になって探し、それを購入していただくために全力で資料を作成し、提案していた。
そうした広告が黄金期だったのは1980年代から2000年ぐらいまでであろうか。世の中にはテレビCMで使用された曲があふれて、流行語も広告コピーと呼ばれるキャッチフレーズから生まれていた。そして、商品も爆発的に売れた。そしてバブル崩壊で経済が停滞しても、テレビの力は強大で、音楽のCDも売れていた。
そんな広告業界にもいろいろな波が押し寄せてきたのである。
まず、ネット社会が進行し、あらゆるメディアに地殻変動が起きた。音楽も配信が主になりCDは売れなくなった。最強と思われたテレビも、オンデマンド映像やYouTubeなどにより観たいときに観るものになり、視聴する機械もテレビではなくスマホに取って代わられようとしている。広告も、ネット広告がいよいよ今年にもテレビ広告費を上回るとの予想がある。今までの常識が加速度的に変わっていく時代である。
広告会社の利益も、コミッションだけでは難しくなっている。外資系の得意先が多くなるなかで、欧米型取引の主である「フィー」 という概念が日本にも浸透してきているのである。
従来、日本の広告会社の利益は「フルコミッション、フルサービス」といわれ、メディアでのコミッションをフルで得る代わりに、得意先の欲する情報や企画を無料で提供するという商習慣があった。これに対し欧米型の取引では、どこで買っても同じものに付加価値はないのだから、その手数料は払う必要がなく、その代わり企画やサービスには対価を払う、という考え方である。コンサルティング会社や弁護士などでは常識的なことだと思うが、日本の広告業界では取引の常識がひっくり返るような考え方であった。
また、2000年代に入り、日本のメーカーが消費財と呼ばれる一般向けの商品を作らなくなり、法人営業、いわゆる「BtoBビジネス」にシフトする会社が増えてきた。そうなると広告する商品が少なくなり、企業自体を広告する形になっていった。かつては春や秋には新商品があふれ、広告枠が抑えられないということがあったが、そういうことも今後は減っていくのかもしれない。
2014年、私は部下を20名ほど預かる部長になっていた。そのとき私の部が担当していた得意先15社が軒並み、一般向け商品・サービスから法人向けにシフトしたのである。広告宣伝費は激減した。我が部は目標達成が厳しくなり、まさに八方塞がりだった。
ピンチになるとまったく違うことを考えて、何気なく立ち戻ると少し何かが見えるときがある。そのときもそうだった。得意先に予算が無いわけではないのに、こちらにある売りたいものが得意先にはまらない。得意先の課題は新しい利益創出だ。
こちらが売りたい広告枠はもうはまらない。だったら売れるものが何かあるのか。広告会社に無尽蔵にあるのは「人」ぐらいだ・・・・・・ん? 人?
かなり語弊もあるが"人身売買"だと思った。私のもとには優秀な部下がいる。その部下に値付けをして売ったらどうだ? これがつまり「フィー」だ。そんなことが始まりだった。今の環境を打破するには、人を売る。得意先の事業に入り込み一緒に営業する。アイディアに値付けする。そしてその対価をいただく。
そのときに私が白羽の矢を立てたのが、Tくんだった。Tくんは愚直なまでにまっすぐで、得意先からの信頼も厚かった。剣道部出身でまさに質実剛健。困難からも絶対に逃げなかった。ただし、いわゆる広告会社営業の王道からは少し外れていた。つまり真面目すぎたのである。地味だったのである。その彼を、まずは当時労力の割には利益が少ないといわれていたデジタル広告において、第一人者にすることに決めた。
彼自身も、苦手な広告制作作業よりも課題解決やその手法に興味があったので、相思相愛だった。彼が成功し、部署内での評価が高まれば、きっと他の部員も興味を抱く。
見事にはまったのである。結果として、中程度だった彼の評価はトップレベルまであがった。 そして何よりも彼自身が、自分のレゾンデート を確信し、ビジネスの方向性に自信を持ったことが大きい。
彼と新しい取組みを開始したことで、私の方がたくさん学ばせてもらった。一つの尺度だけでみれば、彼は優秀ではないと判断されていた。でも別の尺度ができれば一気に最優秀になる可能性を、もともと持っていたのだ。そしてそんなふうに新しい場所で活躍してもらうことが会社に大きな利益をもたらすのである。旧来の成功事例にとらわれず、そこにある財産(ヒト、モノ、カネ)を最大限活用することこそマネジメントの仕事だということを、彼は教えてくれた。
私の父はかつて工場長として、いろいろなバックグランドを持つ部下を誰一人として見捨てることなく、たくさんの部下と向き合っていた。そんなことを自分も少しだけ実行できたのかもしれないと思った。
父は私が9歳のときに亡くなったから、いつの日か私が父のいる世界に行ったとき、歳をとってしまった私を息子だと憶えていてくれるかどうかはわからない。それでも、向こうで酒でも酌み交わしながら、お前も成長したなと笑顔を見せてくれるかもしれないと、少しだけ私は期待している。
※記事の情報は2019年6月4日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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