【連載】仲間と家族と。
2021.03.09
ペンネーム:熱帯夜
天才と不良
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
私は友人が少ない。知り合いは多いのだが、友人と呼べる人は数えるほどである。特に社会人になるといろいろな人間関係が生まれて、仲間は増えていく。ただ学生時代のように、くだらない話をして、ともに泣いたり、笑ったりする機会が減ってしまったように思う。その影響なのか、人との関わりが表面的というか、あまり深層にまで入り込まないままに、時が流れていくことが多くなったように思う。きっと年齢も経て、10代の頃のような多感ではなくなり、今の私が多くの時間を費やす「仕事」というものに追われているからかもしれない。
そのような時の流れによる影響に加えて、私は「友人」という言葉をかなり狭く使っていることも一因かもしれない。人によって、「友人」の定義はまちまちだと思う。1年に1度でも飲んだり、食事したりで集まって、楽しい時間を過ごす。そういう仲間はたくさんいる。でも私にとっての「友人」はもっと深い感情の揺さぶりがある人間関係が前提になってしまう。世間では「親友」という定義をするのだろうか。50歳を超えた今、なかなかそんな感情を抱ける出会いは難しい。そんな私には唯一無二の友人がいる。高校3年間クラスメートだったS君である。
中学、高校と一貫教育の学校に通っていたのだが、その学校は高校受験でも新入生を受け入れており、中学からの内進生と高校からの外進生が高校で一緒になる。私は中学からの内進生だった。S君は高校からの外進生で、12クラスあった学年でたまたま同じクラスになった。
実は最初に出会った時の印象はあまりない。何となく、高校入試1番の成績で入ってきた秀才だということを担任が言っていた記憶がある程度なのだ。高校1年生の私は、以前にもここに書いたが、不良への転落が始まっており、「秀才」「優秀」「学級委員」という言葉は全て「学校の犬」であり、自分とは全く関わりのないことだと思っていた。S君はその権化のような存在だった。よって私から話しかけることもなく、休み時間も、昼食の時間も、私はクラスメートよりもバンドのメンバーと過ごしていた。何回か試験を経ると、やはりS君は学年でベスト3に常に入っていた。かたや私はワースト5の常連だった。学年には660人いたのだが、1番と660番という違いである。まあ水と油とでも言うのだろうか。
ところが、S君とは家が同じ方向だったこともあり、他の仲間を含めて5人ぐらいで学校の往復は一緒になっていた。神奈川県の私立高校だったのだが、東京から通っている人間は少なかったので、水と油が一緒に帰っていたのである。特に仲良く話すでもなく、何となく一緒にいる、そんな時間を過ごす中で、S君のものの考え方、感じ方、たたずまいが、私の波長と合うと感じ始めたのである。そもそもS君は私の成績を全く気にしていなかった。どちらかというと私の方が意識してしまい、勝手に嫌われていると思い込んでいたふしがあった。
いつの間にか、学校に行くことは彼と話すことのためになっていき、バンド活動以外での自分の大切な時間になっていった。反抗期と、将来への不安と自分の不甲斐なさにやり場のない怒りと不安にさいなまれていた当時の私にとって、S君との時間は唯一将来に希望が持てる時間だったのである。
彼は高校1年次から法律に興味があり、将来は法曹界に進み、企業同士のビジネス拡大に関わっていきたいと言っていた。凄いと私は衝撃を受けた。私は音楽で生計を立てられるわけではないと分かっていながら、その世界から抜けきれず、成績は見るも無惨で、将来の選択肢など全くない状態だった。往復の電車の中で、S君が将来の夢を語るのはとても眩しかったのを憶えている。そんな凄いS君が日々私に声をかけてくれた。
「○○(私)は大変な人生を送ってきて、僕はそんな目に遭っていないから、○○には勝てないよ」
「やりたいこと(音楽)を一生懸命やっていて○○は凄いよ」
「○○の話は面白い。○○は夢が見つかったら、凄い結果を出しそうだよね」
こんな言葉を投げかけてくれた。最初のうちは、「お前に何が分かる」とまともには受け止めていなかった。ただ、毎日こうして自分を認めてくれる仲間がいることが、当時の私にはとても励みになった。ただ私の何に、彼が興味をもったのかは分からない。もしかすると私と一緒で、自分とは全く異なった考え方や生き方をしている人間に惹かれたのかもしれない。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないが。
時が経つにつれてS君とはとても仲良くなり、いつしか親友と呼べる関係にまでなっていった。ただ学校の先生達は、S君には私と付き合うなと再三にわたって注意をしていた。進学校だったので、S君は学校の宝物、一方の私は「鼻つまみ者」だったから、それはしょうがないことだと思う。S君は一向にその注意を聞こうとしなかったが。S君は秀才仲間からも「なんであんな不良と付き合っているの?」と言われ、私は不良仲間から「何でお前みたいな不良が、あんな秀才と話すことがあるの?」と、お互いに不思議がられた。まさに「天才」と「不良」の不思議な関係だったのであろう。
S君は初志貫徹で現役で東京大学法学部へ入り、そして在学中に司法試験に合格し、見事に弁護士になった。彼は1度読んだものは全て頭に入ってしまうという人間で、私は同じことをするのに何度も何度も繰り返さないと頭に入らなかった。私は彼にかなわない。
高校3年の時にたった1度だけ、英語の模試成績で、私は彼に勝ったことがある。その時の彼の動揺は凄かった。まさか不良の私に負けるなんて考えも及ばなかったのだろう。天才も人間だったのである、いや天才も18歳の多感な高校生だったのである。その後、本気を出されて、全く手も足も出ずだった。今でも彼と会った時には、その時のことを話すこともある。今となっては、年賀状のやり取りと、何かの拍子に2人で飲みに行くぐらいしか、彼とは連絡を取っていないのであるが、2人で会った時には必ずと言ってよいほど、この時の話になる。彼は言う。
「あの時は、○○には悪いけど、負けるとは思ってなかった。でもやはり受験に本気になった○○は未知の怖さがあった」
と彼は笑う。私はそんな大した人間ではない。それこそ買いかぶり過ぎである。ただそんなことも正直に話してくれる、彼は何とも魅力的な男なのである。
彼が高校3年の夏前に初恋をして、どうしてもその女の子に声をかけられず、私が代わりに声をかけたことがあった。「S君が君と話したいと言っているから、少しだけ時間をくれない?」。たったこんな台詞が彼は言えなかったのである。私は、いぶかしがる彼女を言いくるめて、何とか約束を取り付けた。S君はその女の子と後日話したのだが、結果は見事にフラれてしまった。その時のこともS君は律儀に憶えてくれている。人生で一番恥ずかしかった思い出だと彼は言う。今となっては微笑ましい、青春の1つの出来事に過ぎないが。
私が人生で何度かピンチになった時にも、最初に相談したのはS君である。彼は親友として、真摯に、愛情を持って、正しく接してくれる。私に過失があれば、きちんと指摘してくれ、解決策を一緒に考えてくれる。耳に痛いこともきちんと正面から伝えてくれる。彼には、真心がある。だからこそ、私はS君に恥ずかしくないような生き方をしたいし、彼にも真摯でいたいと思っている。
50歳を超えた今も、S君と私は、天才と不良なのだと思う。彼は今でも私にとって光り輝くスーパースターである。かたや私は彼にとって何なのだろう? もう50歳過ぎたら、代わりに女性に声をかけるという機会もないだろうし、彼が私に頼ることなんて他にあるのだろうか? 私が彼に与えられることがあるとも思えない。でもきっとお互いにそれぞれの生き方や表現の仕方で人生を進んでいくのだろう。そしてそれはお互いにとって楽しみなことなのだと信じている。
私はS君のような人物と一緒に生きることができて幸せである。
※記事の情報は2021年3月9日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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